~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

3.危険な記憶(3)

遙かな過去……イナンナやジルの生きた時代に思いを馳せるように、しばらくは、誰も声を発しなかった。
当のリオンは、混乱した思いにまだ整理がつかず、黙っていたのだが。

その中で、もっとも早く、我に返ったのはサマエルだった。
「我が子孫の力は、徐々に弱まっていき、息子ほどの力を持つ者は、もはや現れまいと思っていた。
……だが……」
魔族の王子は顔を上げ、深々とかぶっていたフードを払いのけた。
リオンは、はっとしてその顔を見つめる。

さらけ出された“賢者”の素顔は、以前見た魔界王タナトスと生き写しで、千年以上も生きているとは思えないほど若々しく、高貴で、美しかった。
だが、額に埋め込まれた短く白い角や、背中に生えたコウモリそっくりな翼を見るまでもなく、彼の眼を覗き込んだ者は、即座に気づくのだ。
魂の色合いを映し、遙か遠く時の彼方を見据えて激しく燃え上がる、これほど(すさ)まじい瞳の持ち主が、人間であるわけがない、と。

「ま、まあ……」
魔界の闇を秘めて妖しい輝きを放つ“魔眼”、それを初めて眼にしたライラは、思わず息を呑んだ。
「相変わらずだぜ……」
それに慣れているはずのダイアデムでさえ、身震いを抑え切れずにいた。

「お前の力は私と同等、いや、その上を行くかも知れないが、恐れることはない。
私が(つかさど)る闇だけでなく、ジルの光の力をもお前は持っている。力に溺れ、自分を見失うことはないはずだ。
──さあ、リオン、今こそ解こう、封印を」
サマエルは、異様な光輝で瞳を満たしたまま、再び彼の手を取ろうとした。

リオンは、びくりと身を引いた。
サマエルは、わずかに眉をひそめた。
「……どうしたのだ? お前の母も、そして何よりお前自身も、それを望んでいたのだろう?」
「そ、それはそうだけど……でも……」
リオンは自分でも理由が分からないためらいを感じて、拳を固く握り締め、左右に首を振った。

「……そう、では仕方がないね」
魔族の王子はつぶやき、瞳の妖しい光が一層強さを増した途端、得体の知れない力がリオンを縛りつけ、体の自由を奪った。
(──うっ!? か、体が……?
あっ……手が、勝手に……! よ、よせ、この、やめろ……!)
その力は、さらに、彼を強引に動かし始めた。
止めようとする意志に逆らい、リオンの手はゆっくりと、だが確実に、サマエルに向かって伸ばされていく。

しかし、彼らの手が触れあった瞬間、眼も(くら)むような閃光が走り、ものすごい勢いで二人の身体は引き離された。
「──くっ!」
衝撃で、サマエルは片膝をつく。
「リオン! サマエル様!」
「嫌だ! たしかに、ぼくは、魔法が使えるようになりたかった。
でも──でも、こんなのは……嫌だ!」
駆け寄るライラに目もくれず、リオンは叫び、くるりと背を向けると、手荒くドアを開け、部屋を飛び出していった。

「──お待ちなさい、リオン!」
「いや。今は一人にしてやった方がいい、ライラ」
後を追おうとするライラを、サマエルは止めた。
「ですが、サマエル様……」
「私としたことが、少々焦り過ぎたようだ。待つことには慣れているはずなのにね……。
彼には必要なのだろう、事実を受け入れる時間が……」
話すうちに、サマエルの瞳に燃え上がっていた闇の炎の輝きは、徐々に薄れて、包み込むような優しい光と入れ替わってゆく。

それを見て、胸をなでおろしたのは、ライラばかりではなかった。
「……やっぱ、その“魔眼”がまずかったんじゃねー?
オレでさえ、久しぶりに見たらぞくっときたくらいだもん。びびったんだよ、あのガキ」
ダイアデムが言うと、サマエルは、温和な笑みを浮かべ、再びフードを深々と下ろした。
「仕方がないよ。封印を解くには、どうしてもこの力が必要なのだし。
それに、お前も私のことは言えないだろう? その眼はやはり、魔のものだ……」

「ふん……」
ダイアデムの見えている方の瞳は、魔族に多い鮮やかな紅色で、常に明るい炎の(きらめ)きをその内部に宿していた。
「そーいや、あいつ、オレのことも最初は嫌がってたぜ。……いや、恐がってた、ってのが正確かな?
やっぱ、“眼”がダメだったみてーだけど」
宝石の化身は、自分の眼を指差した。

「……彼は、無意識に気づいていたのだろう、おのれが、魔物であるお前と同じ力を持つことに。
そして今、それをはっきりと自覚した。“自分は魔物の血を引く、禍々(まがまが)しい者”だとね……。
ダイアデム、なぜ、前もって彼に教えておかなかったのだ?
そうすれば、とっくに、心の整理もついていたろうに。
……ともかく、あの様子は尋常(じんじょう)ではない。お前、何か余計なことを言ったのではないのか? 
それが何にせよ、必要以上に、私の子孫をもてあそんで欲しくはないぞ……!」
穏やかだったサマエルの口調が、ほんの少し鋭さを帯びた。

(──やばっ!)
フードに隠された王子の表情が、微妙な変化を遂げたことを感知した、ダイアデムの背筋に冷たいものが走る。
彼は、千年ほどタナトスに仕えているためにできた癖──こういう場合、口よりも先に拳骨(げんこつ)が飛んで来ることが多いのだ──で、とっさに両手で頭をかばい、それから必死に弁解をした。

「あ、いや、悪かったよ、反省してる、だ、だから──ンな眼で睨むなって……!
だ、だって、あのバカ、オレのこと化け物か、さもなきゃガキ扱いでさあ、だから……ホンのちょこおっと、困らせてやりたかっただけなんだよぉ、許してくれったらー!」

そのとき、ライラが取り成しに入った。
「お待ち下さい、サマエル様。お怒りはごもっともですが、彼に対するリオンの態度にも問題があるように思います。
この場はわたしに免じて、彼をお許し下さいませんか?」

「──ああ、オレの女神様!」
ダイアデムは、天の助けとばかりに、彼女の元へダッシュした。
「ほらぁ、ライラもこー言ってるよぉ、だから……ご免、ご免ってば。
ほら、この通り……謝ってるだろ、何遍もさぁ……」
そして、王女の背後から顔だけ出して、ぺこぺこ頭を下げる。

サマエルは肩をすくめた。
「……まあいい、彼女に免じて許そう。
それに、私はタナトスとは違う。やたら暴力を振るうことはないから安心しなさい。
でも、本当に反省しているのなら、態度で示して欲しいものだね」
「……助かったぁ……。分かったよ、大人しくしてる」
ダイアデムは、その場にぺたんとへたり込み、あぐらをかいた。

宝石である彼は、黙って静かにしていようと思えば、何年だろうと不動の姿勢をとっていることも出来るのだ。
少年の肩が、わずかに震えていることに気づいたサマエルは、不審そうに少し眉を寄せたものの、問いかけることはなかった。

「でも、リオンはどこへ行ったのでしょう。やっぱりわたし、探してきますわ」
「待ちなさい、ライラ」
扉に向かおうとする王女を、サマエルは止めた。
「ですが……」
「彼は外へ出ていったそうだよ。たった今、使い魔が知らせて来た」
「えっ、外へ? もう、こんなに暗いのに」

不安そうな彼女に、サマエルは微笑みかけた。
「心配はいらない、ケルベロスに頼もう。
ここは彼の庭のようなものだし、鼻も利く。すぐに見つけ出してくれるだろう」
ライラはうなずき、安堵の顔つきになった。
「ええ。でも、よく迷子にならずに外へ出られましたわね」
「……血筋、かもしれないね……」

そう言うと、サマエルは思いを巡らした。
(私とジルとの子孫。……何代目に当たるのだろうか。
不思議なものだな、彼は私の幼少の頃、そっくりだ……。
でも、あの眼の感じは、ちょっと、ジルにも似ているかな……。
……にしても、魔力の強力さは、目を見張るものがある。
母親が封印したのも当然だ。あれでは、人間の手に負えるわけがない。
……だが、千年以上も経ってから、力や姿がこれほど似ている子孫が出現するとは。
あまりに年月が隔たり過ぎているような気もするが、やはり隔世(かくせい)遺伝なのだろうか……?)

「……あの、サマエル様?」
王子の思考は、頬を赤らめたライラの声で断ち切られた。
「……ああ……何かな?」
「あの、お考え中のところすみません。リオンが戻ってきても、叱らないで頂けませんか?
わたしも驚いているくらいですもの、彼は戸惑っているのだと思いますわ……」
彼女は、サマエルがリオンを操ろうとしたことには、気づいていないようだった。

魔族の王子は、にこやかにうなずいた。
「叱ったりはないよ、ライラ。
ずっと“人間”として生きてきたのに、いきなり、『お前は魔族だ』、などと言われれたら、誰でも当惑するに決まっているからね。
彼も、気持ちの整理がついたら戻ってくるだろうし、その時は温かく迎えるつもりだよ」

「それを聞いて安心しましたわ。それから、弟のことなのですが……」
王女は、安堵の表情で話を続けた。
(目覚めた途端に、次々頭を悩ますことが出来(しゅったい)するとはな……。
当分、退屈だけはしなくて済みそうだが……)
心の中で軽く肩をすくめて、サマエルは、王女の話に耳をかたむけた。

昨夜、ざっと聞いただけでは分からなかった細かい点を、丹念に聞いていくうち、サマエルは、現ファイディー国王アンドラスに興味を持った。
魔界と人界との違いはあれ、王族同士ということもある。部分的な苦労は同じところもあると言えた。

「……では、キミには思い当たる節がない、というのだね? 弟が、どうしてそうなったか」
「はい。……何かに取り()かれたとしか言いようがありません……」
王女は、悲しそうに首を左右に振った。

サマエルは、重々しくうなずいた。
「……その可能性もあるね。たった十八歳で由緒ある国の王になる……君主の重責に耐えるのは、経験を積んだ年かさの者でさえ大変だ。
それにつけ込まれたのかも知れない、が……」
「どうしたらいいのでしょう……」
ライラは祈るように指を組み合わせる。
「ふむ……」

魔族の王子は、少々考えを巡らした後、口を開いた。
「キミの弟に直接会うことができれば一番いいのだが、現時点では無理そうだね。
やはり、リオンの封印を解き、彼が魔法を使えるようになってから、次の行動を起こすことにしよう。
……ああ、もちろん、相手に何か動きがあればすぐ対応できるよう、情報収集は怠りなくするつもりだから、心配ないよ」

「そう言えばリオンは遅いですわね……大丈夫でしょうか」
気づけば、外の闇はかなり深くなっており、ここからは人工の灯りは一つも見えなかった。
「そうだね、ちょっとケルベロスに訊いてみよう……」
サマエルは、魔狼に向けて念を飛ばした。

二言三言話した後、彼は口を開いた。
「……彼らは意気投合して、一緒に夕食をとっているようだよ。
そうだ、私達も何か食べようか、キッチンで何か作ろう」
「はい、でも、あの……」
ライラは、ためらいながら口をはさみ、また紅くなった。
サマエルを見るたび、頬が熱くなってしまうのを止められない。

「何かな?」
一方、魔族の王子は、女性のそうした態度には慣れていたので、平然としていた。
「あの……サマエル様は、食事を、魔法でお出しにはならないのですね……?
彼は、そうやって出してくれたのですが……」
ライラは、宝石の精霊の方へ手を差し伸べた。
紅毛の少年は、まだ押し黙ったまま微動だにせず、座り続けていた。

「ああ、私は、急ぐとき以外、自分で作ることにしているのだよ。
その方が楽しいし、気分転換にもなるからね。
……ダイアデム、お前はどうする? 一緒にお茶でも飲むかい?」
サマエルが尋ねると、ダイアデムは、ぱっと顔を(あお)向けた。
「お、魔界の茶!? 飲むよ、もちろん!」
それからぴょんと立ち上がり、思い切り腕を伸ばして背伸びをする。
「あーあ、黙ってるのもしんどいや、肩こっちまったぜ」
少年の表情は、吹っ切れたように晴れ晴れとして、さっきまでの怯えの影は、すっかり取り払われていた。