3.危険な記憶(2)
客室の回廊に着いたダイアデムは、何事もなかったように元気よく、ドアをノックした。
「──ライラ、おっはよ! 眠れたかぁ!」
ややあって、扉が開き、少々やつれ気味の少女が現れた。
「おはようございます、ダイアデム、お陰様で……。
あの……サマエル様は?」
宝石の化身は、にっと笑い、指で丸を作った。
「大丈夫、封印解いてくれるってさ」
「よかった!」
ライラの顔は、見る間に明るくなった。
「そうだ、新しいドレス出してやるよ。貴族に会うんだし、やっぱ、いいもん着たいだろ?
──カンジュア! ほらよっと」
彼は、大きな衣装箱を彼女に渡す。
王女は、緑の瞳を輝かせた。
「まあ、ありがとうございます。どんなドレスかしら」
「風呂入って、ゆっくり支度しな。
急がなくていいって、サマエルも言ってたし、リオンは起してやっからよ」
「はい、お願いしますね」
ライラは軽く
「今度は、ガキんちょ用の服か。
──カンジュア! これでいーだろ。
……さてっと」
ダイアデムは大きく息を吸い、斜め向かいのドアを、力一杯蹴飛ばした。
「いつまで寝てんだ! さっさと起きやがれ、のろまっ!」
だが、しばらくしても、部屋はしんと静まり返っている。
宝石の化身が、しびれを切らし、再度蹴ろうと身構えたとき。
「……ふあーあ。何……ダイアデム?」
「──ボケ! 封印解いてやるってサマエルが言ってんぞ、さっさと着替えやがれ!」
だらしない様子に腹を立てたダイアデムは、手にしていた服を投げつけた。
「──わっぷ!」
受け止める暇もなく、真新しい衣装はすべて床に落ちる。
「もう、乱暴だなあ……!」
リオンは散らばった衣服をかき集めた。
宝石の化身は、少年を睨みつけた。
「脳天気な、めでたいガキめ! 寝坊も今のうちだかんな!」
「また子供扱い……」
言いかける少年をさえぎって、ダイアデムの口調はさらにきつくなる。
「てめー、ここに寝に来たのか!? 封印解けてすぐ魔法使えると思ったら、大間違いだっ!
サマエルにビシビシ仕込まれて、さっさと一人前になれ! ライラの役に立ちたくねーのかよっ!?」
「わ、分かった、すぐ支度するよ」
たじたじとなるリオンにダイアデムは追い討ちをかけ、鼻をつまんで見せる。
「着替える前に風呂入れ、臭うぞ、お前」
「ええっ!?」
焦って浴室へ駆け込む少年の後ろ姿に、彼はぺろりと舌を出した。
毎日水浴しているのにと思いつつ、念入りに体を洗い、広い浴槽に身を沈めてから、リオンは、かつがれたと気づいた。
「ちぇっ、またかよ……」
忌々しそうに顔をしかめるうちにも、金色のライオンの口から、白濁した熱い湯が、どんどん湧き出て来る。
初めて入る温泉の心地よさに、不快な思いはすぐに消滅してしまった。
さっぱりして浴室を出ると、テーブルにはいつの間にか、豪勢な食事が用意されていた。
「お、うまそう! 頂きます!」
美味な朝食をもりもり平らげ、満足した気分で衣装を広げた彼は、息を呑んだ。
「す、すごい……」
真っ白な下着、オレンジ色をしたシャツ、金ボタンがついた、膝くらいまである深緑の上着、同色のズボン、そのすべてが、さっきまでの服とは段違いに高級品だった。
手触りからして、普段着とはまるで違う。
「……でも、どうやって着るんだ、これ?」
どれも皆、初めて見る品ばかりで戸惑ったものの、リオンは、何とか着替えを終えて、恐る恐る鏡の前に立つ。
その瞬間、彼は思わず声を上げていた。
「──わぁ、まるで王子様みたい!」
今度の衣装は、寸法もデザインもぴたりと合い、彼を、貴族の少年のように見せていた。
「……でもダイアデムの奴、どうして急に、こんな立派な服出したんだ……?
さっきの態度も、何か変だったし……」
彼は首をかしげた。
ともかく、廊下に出てみる。
宝石の少年は、頭の後ろで手を組んで、壁に寄りかかっていた。
「あ、ダイアデム……」
「ふん、馬子にも衣装だな。ライラの支度が終わるまで待ってろ」
精霊は、ちらりと彼を見、言った。
「うん。でも、何でこんないい服、くれたの?」
ダイアデムは肩をすくめた。
「バーカ。昨夜はともかく、正式な挨拶ン時に連れがボロ着てたら、オレの趣味が疑われんだろーが。
これから会うのは、魔族の王子なんだぜ」
「そっか。でも、お前は着替えないんだね」
リオンが紅毛の少年を無遠慮に見ると、相手は眼を伏せた。
「……オレは、自分自身が装飾品なんだぜ。
暑さ寒さも感じねーし、ホントは衣装なんざ、どーでもいいんだ。
礼儀上、着てるだけさ……」
「……え?」
いつもと百八十度違う態度に、彼が面食らったとき、王女の部屋のドアが開いた。
「お待ちどうさま。あら、リオン、その服、とってもいいわ。素敵よ」
ライラの姿を眼にした少年は、思わずぽかんと口を開けた。
彼女も、真新しいドレスをまとっていたのだ。
少ない
「キミ、こそ……き、綺麗だ……」
「まあ、ありがとう」
ライラは
「当然だろ、オレの趣味は風雅なんだ。美人を引き立てるには、こうでなくっちゃな」
宝石の化身は立ち直り、自慢げに言った。それも無理はなかった。
緑色が美しいグラデーションをなしている、素晴らしいドレスを、彼女は見事に着こなしていた。
まず胸元は、湧き水のようにほとんど透明に近い薄緑をしており、そこから下に向かって、春一番の柔らかな若草色、夏が近づくにつれて次第に濃くなる新緑、初夏の
過剰な飾りはなく、そのシンプルさが一層、少女の美しさを引き立てていた。
唯一の装飾品は、首から下げている“瞳”のペンダントで、その透き通った石は、衣装と彼女の眼の緑を映し、エメラルドさながらに輝いている。
ダイアデムは、めかし込んだ二人を引き連れて
「──どうだ、サマエル。いいだろーこのドレス!」
サマエルは微笑んだ。
「さすがに選美眼は一流だね、ダイアデム。
とてもよく似合っているよ、ライラ。まるで、春の女神のようだ」
「い、いえ、あの……あ……ありがとうございます、サマエル様。
昨夜は、失礼を致しまして……」
ライラは昨晩同様、頬を染め、ドレスの裾を持ち上げて頭を下げた。
リオンは、心の中で舌打ちしていた。
(ちぇっ、ライラさんって、ああいう男が好みなのか。
……けど、それも当然か……サマエルは、魔界の王子様なんだしな……。
魔力だって、人間とは比べものにならないほど強いんだろうし、それに……顔はよく見えないけど、雰囲気が……やっぱり違う。
ぼくなんかより、ずっと大人っぽくて、カッコいい……)
「気にしなくていいよ。遠路はるばるご苦労だったね。
ダイアデムから、話は大体聞いた。
リオン、こちらに。痣を見せてくれないか?」
「………」
リオンは、もう、封印を解いてもらうこと自体、気乗りがしなくなっていた。
しかし、それが目的で来たのだし、ライラを失望させるわけにもいかない。
彼は、仕方なく進み出、渋々右手を差し出した。
漆黒のローブに身を包んだサマエルは、そっと彼の手を取った。
「ふむ……」
(……あ)
昨日と同じく、相手の手に熱はなかったが、やはり、触れられた部分から、何か暖かいものが心の中に流れ込んでくるのを感じ、無意識のうちに、少年は
魔族の王子の表情は、深々とかぶった闇色のフードのせいで、外から
しばらく痣を調べていたサマエルは、不意に精霊を振り返った。
「たしかに、これは“封印”だ。しかも……。
ダイアデム、なぜ黙っていた? リオンはまだ、このことを知らないのだろう?」
「ああ。お前が言った方がいいと思ってさ」
宝石の化身は、どうでもよさそうに答えた。
「ならばせめて、昨夜のうちに……」
「いーじゃん、今でも」
「ねえ、一体何の話?」
リオンが不思議に思って口をはさむと、サマエルは深く息をついた。
「やれやれ……何か企んでいると思っていたら、こういうことか……。
リオン、落ち着いて聞いて欲しい。
……実は、お前はね、……私の子孫なのだよ。この“紅い封印”こそが、その
魔族の王子は、彼の痣を示した。
「何、それ……」
リオンはきょとんとした。
「ほ、本当なのですか?」
ライラも思わず尋ねていた。
「本当だとも。リオンは、間違いなく私とジルとの子孫だ」
サマエルは、明瞭に言い切った。
「これを解くことができるのは、お前と同じ、魔界王家の血を引く者に限られる。
会えてうれしいよ、リオン。我が子孫よ」
リオンは、栗色の眼を見張った。
「そ、そんな、ぼ、ぼくが……魔界王家の血を引く者……?
あなたの、子孫だって!? じょ、冗談でしょう?」
「冗談ではないよ。お前の母の力は素晴らしく、この封印もかなり巧妙に隠してあるが、これが証拠だ」
薄茶色をした痣の上で、サマエルの指が踊るかのごとく複雑な印を切る。
刹那、痣の色はほとばしる鮮血同然に紅くなり、形までもを変えた。
それは、すでに炎ではなく、今にも飛びかかろうと身構える、怪物の姿となっていた。
「何だろ、これ。龍……?」
「“紅龍の紋章”と呼ばれているものだ、私にもある」
サマエルは、ローブの胸元を開いた。
脈打つ心臓の上に、同形、同色の痣があった。
「……でもこの龍、どこかで……あ、そうだ!」
リオンは、急いで母の形見のロケットを引っ張り出した。
中を開けると、母の肖像が、彼に向かって微笑みかける。
そして……蓋の内側に彫り込まれていたのは、痣とそっくり同じ“紅龍の紋章”だった。
「やっぱり……でも母さんは、そんなこと一言も……」
「お前の母も知らなかったか……いや違うな、ここをご覧」
指で示された紅い龍型の痣の下に、文字が数行、浮かび上がっていた。
「“──
魔界の王子サマエルよ、かの封印を解き、汝が子孫の力を導き
……母さん……。でも、なぜ力を封じたの……? ぼく、ずっと魔法を使いたかったのに……」
リオンは唇を噛んだ。
「お前の魔力があまりに強かったゆえに、私の元へ送るのが最良の策と考えたのだね、お前の母は。
だが、私の
知らずにいれば、私が見つからず魔法が使えずとも、さほど悲しい思いをせずとも済む……そう考えた、親心だったのだよ」
サマエルの口調は優しかったが、なぜか、リオンは無性に腹立たしくなり、栗色の瞳に怒りの色を浮かべ、食ってかかった。
「なぜ、そんなこと分かるんだ!? 母さんのこと、何も知らないくせに!」
「“申し送り”とあるだろう?
“子供の魔力が、制御不能なほど強力なときは封印せよ”、そう定めたのは私なのだ」
魔族の王子の声は、まったく揺るがなかった。
「えっ!?」
「私の子の力は、私をも
それでも、ジルが生きているうちは、子供達と一緒にいられ、力の暴発も抑えられたからよかったのだが。
私があまり年をとらないことから、正体を見破り、利用しようとする者が現れた。
それとは別に、ライラ、キミのご先祖からも参謀として求められたが、魔界の者が、人の世に関わることは禁じられている。
それゆえ、私はやむなく、“賢者”として身を隠すことにした……子供達、孫達から離れて……」
サマエルの声は、思い出の中に溶けていき、最後の言葉はささやくようだった。