~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

2.賢者サマエル(3)

「あっ、あの傷、昨日の狼!? また襲いに来たのか!
──ライラ、ぼくの後ろへ!」
焦って王女をかばおうとするリオンを、ダイアデムは制した。
「慌てんなって、リオン、ライラ。敵意は全然感じねー。
見ろ、眼ん玉の色だって落ち着いてるし、牙だって、むき出したりとかもしてねーだろ。
大体、オレ達を襲いに来たんなら、一匹じゃ不利だ。
群れの奴らをゾーロゾロ、引き連れて来てるはずだろ」

精霊の言葉通り、この獣は単独で来ているらしく、遠吠えも他の狼の気配もなく、山は静まり返っていた。
そして、少し離れた場所から、こちらをうかがう態度も冷静そのもので、昨夜と同じ、考え深い眼差しをただじっと三人に注ぎ、殺気立った様子はまったく見られなかった。

「……じゃあ、何しに来たんだろう……?」
リオンが首をひねると、ダイアデムはにやりとした。
「偵察に来たんだろーさ。オレ達が、ぎゃーぎゃーバカ騒ぎをしてたから、何事かと思ってよ」
リオンは、むっとし、宝石の化身に指を突きつけた。
「お前が悪いんだろ! 散々人をからかっといて!」
「……だから、そりゃもう、いーって。忘れろ」
ダイアデムは、しっしっと手を振り、それから、ちょっと眉根を寄せて、難しい顔つきになった。

「それよか……こいつぁひょっとして、ゲートキーパーかもしんないな……」
「ゲートキーパー?」
「サマエルの結界を守る門番、ってコトさ。汎魔殿(はんまでん)の番犬、ケルベロスみたく……」
「クーン……」
その途端、狼は、名前を呼ばれたかのように反応して鼻を鳴らした。

紅毛の少年は眼を輝かせた。
「──ビンゴ! やっぱりそうだったな!
おい、片耳のケルベロス、ちょいと頼まれてくれ。
お前の主、サマエルを呼び出してくんねーか。ダイアデムが会いに来たってな」
「クーン……クーン……」
言葉が分かっている様子の狼は、嫌々と首を横に振り、尾を後足の間に挟んで後ずさった。

「起こすのは気が進まねーって? いいから起こせよ。……やっぱ無理だ? 
……ふん、犬族は主人にゃ従順だからなー。
──ま、いーや。だったらオレの眼ぇ見ろ。
ここまで近づいたら、もう、片眼だけの魔力でも通じるはずだしな。
お前の心は、サマエルにつながってんだろ。オレが直接話すから、大人しくしてろ」
ダイアデムは一気にまくし立て、もがく狼の首をむんずとつかみ、その黒々とした瞳を覗き込んだ。

“──お~い、サマエル、聞こえっかぁ?
オレだ、ダイアデムだよ。お前に用があって、はるばる魔界からやって来たんだ。
早く起きて、結界開けてくれ。……あ、連れも二人いるんだ、よろしくな”
彼は、そのまましばらく待った。

ややあって、静かな思念が、三人の心に流れ込んできた。
“……ダイアデム?
……これはまた、ずいぶんと懐かしい名を聞くものだ……。
次元回廊が……再開されたのかな……。連れの二人とは……?”

“やーっと目が覚めたか、サマエル。
……いや、回廊が再開されたわけじゃねーんだ。
説明すると長くなるし、ンなとこで長話なんざごめんだ、早く結界解いて、中に入れてくれよ。
そしたら、嫌でも、詳しく聞かせてやっからさ。
オレ、実はもう、くたくたなんだ。今さっき、したくもねー鬼ごっこで、連れのガキと遊んでやる羽目になっちまったもんだから”
ダイアデムは、口を尖らせて念を送る。

サマエルの思念は、微妙な(かげ)りを帯びた。
“……少し、嫌な予感がして来たな……。
まあいい……それより私は……まだ、完全には目覚めてはいない……。
千年以上も眠っていたのだ……体細胞すべてを……覚醒させるには……今少し時間がかかる……。
だが……疲れたと言うのなら……そうだな……。
ケルベロスよ、お前の仲間を呼び寄せて、彼らを乗せて案内してやるがいい……”

「──ワオーン……!」
命ぜられた狼は、即座に大岩の上に飛び乗り、遠吠えをした。
意外と近くから応えがあり、リーダーより多少小振りだが、がっしりとした体格の狼が、二頭現れた。
「乗れよ、二人とも。こいつらが、サマエルん家まで案内してくれるってさ」
ダイアデムは、獣達の方へ、あごをしゃくって見せた。

ライラは顔色を変え、手を振りながら後ずさる。
「ええっ、だ、駄目です! お、狼に乗るなんてっ……!」
「ぼ、ぼくだって……!」
リオンも、同様に尻込みした。

「何言ってんだ、お前ら。
またがったら、後は、こう、ぎゅっと背中にしがみついていりゃいいだけだろ」
ダイアデムは、毛皮をつかむ真似をし、ずかずかとケルベロスに近づいて行く。
しかし、乗ろうとしたところで急に手を止め、振り向いた。
「リオン、やっぱ、お前がこいつに乗れ。お前がいっちゃん重そうだ」

「グルル……!」
その途端、漆黒の眼が燃え上がり、巨大な狼は鼻にしわを寄せ、人間の少年に向かって牙をむいた。
反射的に、リオンは後方へ飛びのいた。
「──うわっ、や、やっぱりやめようよ、そいつも嫌がってるよ!」
「ばっかだなー、ケルベロス。
人間なんか、なんで乗せなきゃなんねーんだよ、とか思ってるだろ、お前」
宝石の化身は、ぽんぽんと狼の背中をたたいた。

すると獣はさらに鼻息を荒くし、自分からダイアデムの瞳を覗き込んで、不服そうに(うな)った。
「……やーれやれ」
紅毛の少年はため息をつき、その大きな頭を抱えて、よいしょとばかり、再度リオンの方を向かせた。
「ホント、てめーの眼は、でっけーくせに節穴だな。
そーら、よーく見てみなって」

「グルルル……ル?」
唸りながら抵抗していた動きが突如止まり、狼は、まじまじと人間の少年を凝視した。
やがて、黒い眼が、何かを理解したかのごとく幾度も(またた)き、ふさふさした尾も、ゆっくりと振られ始める。
宝石の化身は、獣を解放してやり、頭をなでた。
「よーしよし、やっと見えてきたか? こいつの“気”が。
……な? 分かっただろ、こいつは、お前の……」

「──やめろ、それ以上言うな!!」
とっさに、リオンは、自分でも驚くほど強い調子で、ダイアデムの話をさえぎっていた。
「──何だ、てめー! ンな命令する権利、あんのかよ!?」
宝石の化身は、キッと彼を見返した。
紅い瞳の奥で燃え立つ黄金の炎が、すさまじく強烈な光を帯びる。
真っ正面から問い返されて、リオンは弱々しく眼を伏せた。
「い、いや……その、ご、ごめん……」

「……どうしたの、二人とも?」
今の一幕に面食らっている少女に、訳知り顔でダイアデムは答える。
「ふふん、そのうちキミにも分かるさ、ライラ。
さあ、ンなコトいいから、早く乗れよ」
「リオン、“気”がどうしたって、何のことなの?」
いきさつが飲み込めない王女は、今度はリオンに尋ねた。

「えっ」
彼は顔をこわばらせ、言葉に詰まった。
「……あ、あの……ぼ、ぼくにも、よく分からない……けど、……。
つまり……彼は、ぼくが……その……ああ、だから……ぼくは……ぼくが言いたいのは……」

(ううっ……こ、こんなとき、何て言えばいいんだ!?
どんなふうに話せば、ちゃんと分かってもらえるんだ……!?)
うまく説明しようとすればするほど、リオンの頭は混乱を来たした。
孤独な暮らしが非常に長かった彼は、自分の思いを人に伝えることが、お世辞にも上手いとは言えなかったのだ。

「……ご、ごめん……どう言って、いいか……分からない、んだ……。
後で……ちゃんと、考えて……話すから……」
彼は、うつむき、口の中でもぐもぐと答えて、銀色の狼に近づいていった。
ケルベロスは、もはや威嚇(いかく)せず、それどころか、飼い慣らされた動物のように身を低くして、大人しく彼が乗るのを待った。

「さあ、ライラ、キミも乗れよ。早く、サマエルんトコに行こうぜ。
続きは、向こうで落ち着いてからでもいーだろ」
「え……ええ、そうね」
心配そうにリオンを見つめていたライラも、ダイアデムに促され、その手を借りて、おっかなびっくり若い狼にまたがった。

二人の座り具合を確かめてから、ダイアデムは、残りの狼にひらりと飛び乗る。
「よーし、出発だ!」
三人を乗せた狼達は、ゆっくりと歩き始めた。
「ひゃっほう! すっげーいい気分──!
──それっ!」

時折、狼に早足をさせたりして、騎乗を楽しむダイアデムとは対照的に、リオンとライラは毛皮にすがりつき、振り落とされずにいるのがやっとだった。
「わわっ、お、落ちるっ!」
「きゃあ……!」

あまりうまく乗りこなせない二人のために、彼らの進むスピードは早くはなかったが、それでも徒歩よりはよほどましだった。
日が暮れかかる頃、三人を乗せた狼達は、ようやく山頂についた。

「サマエルん家は、もう近いんだろ、ケルベロス」
「──ガウッ」
ケルベロスは短く答え、狼達はためらいもなく、さらに進んでいく。
もう登りではなく、ほぼ平らだったため、道のりはどんどんはかどった。

太陽が沈みゆく中をしばらく進み、最後の光が、山の向こうに姿を消すとほぼ同時に、大きな建造物が彼らの前方に現れた。
「お、あそこらしいな。……まあまあってとこか」
額に手をかざし、ダイアデムが言った。
無数の塔と高い屋根を備えた壮大な屋敷は、神殿か宮殿のようにも見える。
窓という窓には、彼らを歓迎するかのごとく煌々(こうこう)と灯りがともっていた。

リオンは、栗色の眼を見張った。
「あれがサマエルの……? 家……って言うより、お城みたいだね……」
ライラも大きくうなずく。
「本当にそうだわ……。わたしの城より少し規模が小さいくらいで……。
さすがは、魔界王様の弟君のお屋敷ね……」

そう話す間にも、建物はどんどん近づき、夕闇が辺りを完全に(おお)う頃、ついに高い門の前に到着する。
狼達は、歩みを止めて体を低くし、三人を降ろした。
「おーい、サマエル! 今ついたぞ──!」
ダイアデムは口に手を当て、門に向かって声を張り上げた。

「……そんなに大声を出さなくても、私はここにいるよ、ダイアデム。
ご苦労だったね、ケルベロス、セト、ロネベ。もう群れに戻っていいよ。
私の家にようこそ、皆さん。どうぞ、中へ」
音もなく門が開き、漆黒のローブで全身をすっぽり覆った人物が、青白い鬼火に照らされてそこに立っていた。