1.“焔の眸”(6)
やがて、その動きがゆるやかになり、像が焦点を結んだ。
「貴様か、ダイアデム。
慌しく出ていったと思ったら……どうしたのだ、何か急ぎの用か?」
「この方が……魔界王…タナトス様……」
思わずといった感じで、王の名を口に出したライラの頬は、無意識のうちに紅く染まっていた。
壁に映し出されたのは、高貴な顔立ちの美青年だったのだ。
だが、無論、彼は人間ではなく、その頭部からは、魔族の
そして、髪は、
「……そーいうわけでさー、悪りぃけど、タナトス、こいつの封印、解いてくんねーか?」
ダイアデムがかいつまんでわけを話し、リオンを指さした瞬間、魔界の君主は眼を怒らせた。
「──たわけが! そんな下らんことで、わざわざ魔界の王たる俺を呼び出したのか、貴様と違い、俺は暇ではないのだぞ!
……見ろ、このうっとうしい、紙くずの山を!」
王は忌々しげに、デスク上の書類の束を拳で殴った。
その勢いで、数枚の紙が舞い上がり、ひらひらと床に落ちていく。
「まーたかよ。そりゃ、お前がサボって、仕事溜めたからだろうが」
宝石の化身は肩をすくめ、タナトスは
「──うるさい! どうせこんなもの、俺の署名があろうとなかろうと、議決されて勝手に話が進められるのだからな!
それより忘れるなよ、貴様! 魔界の者は、人界のゴタゴタに手を貸してはならんのだ! つまらんことにかかずらっていずに、さっさと用を済ませて戻って来い!
では切るぞ!」
「──あ、ま、待てよ、タナトス! 下らんこと……はねーだろ、それが用事の一つなんだぜ!」
一方的に接触を切ろうとした魔界王に、慌てて精霊は食い下がる。
「なあ、だったらさ、サマエルの居所知らないか?」
すると、タナトスの眼がさらに冷たい光を帯びて細められ、その唇から発せられたのは、食いしばるような声だった。
「……サマエルだとぉ……!?」
「あ、ヤバ……」
ダイアデムは、慌てたように自分の口をふさいだが、遅かった。
タナトスは再び拳を握り締め、
「──何ゆえあんな
あのたわけとは、ここ千年以上、顔も合わせておらん、野たれ死んだと言う話も聞かんから、生きてはいるのだろうがな!
そんなに知りたければ、貴様の眼で探すがいい、二度と俺の前であいつの話はするな!」
途端に、それまでいくら怒鳴りつけられても平気な顔をしていた宝石の化身の表情が曇り、声も沈んだ。
「……眼で思い出したぜ。オレの左眼、お前が持ってるんだろう? 返してくれよ。
……な? もう……イナンナは、いないんだからさ、いらないだろ……」
いきなり変わった家臣の態度に、タナトスは一瞬面食らったように無言になり、それから軽くうなずいて、ぱちりと指を鳴らした。
刹那、その手の中に、ライラが持っているものに酷似したペンダントが現れた。
ただし、王の持つ貴石は、まだ鮮やかな深紅色を保っている。
しばし、無言で、それを眺めていた魔界王は、おもむろに口を開いた。
「……“焔の眸”よ。彼女が亡くなくなるまで、ずっと身に付けていてやったぞ、約束通りにな。
……そうか、もう人界には……イナンナ……そして……ジルもいないのだったな……」
先ほどまでの荒々しい態度とは打って変わって、そうつぶやくタナトスの声は静かで、感慨深いものとなっていた。
「……ああ。ホントに、人間ってヤツは、寿命が短いよな……」
うなだれるダイアデムの答えもまた、ささやくようだった。
タナトスは、気を取り直したように、こちらを見た。
「……これを貴様に返してやってもいいが……いや、やはりよそう。
貴様の両眼がそろえばまた、面倒事が起きそうだからな」
「えっ、返してくれねーのかよ!」
ダイアデムは、弾かれたように顔を上げる。
「ああ。貴様が魔界に戻るまで預かっておく」
「そんな……返せよ、返してくれよぉ! なぁ、そりゃもうお前にゃ用がねーだろぉが……」
哀れっぽく懇願する宝石の化身に向ける視線が、みるみる険しくなったと思うと、またも、魔界王は少年を怒鳴りつけた。
「うるさい、黙れ!
その者の封印を解く手伝いをするぐらいは構わんが、絶対に直接、相手に手出しをしてはならんぞ!
サマエルにもそう言っておけ!
──いいな、くれぐれも問題を起こすなよ、何があろうと、手助けなどせんからな!」
同時に、チョークで描かれた模様も、跡形もなく消滅した。
ダイアデムは、何もない壁に向かって舌を突き出し、あっかんべーをした。
「──べーっだ!
いつもながら、短気でケチで冷たくて、ホーント、ヤーなヤツだよな!」
「……なあ、ダイアデム。ぼくの封印、どうなっちゃうんだい……?
もう解けない、のかな……」
「大丈夫よ、リオン。サマエル様を探し出して、解いて頂きましょう。
手伝って下さるのでしょう? ダイアデム」
あてが外れて、すっかり心細くなってしまったリオンを、ライラが励ます。
「……ああ。心配すんなよ、乗りかかった船だ、ちゃ~んとヤツを探し出してやるさ」
宝石の化身は、自信ありげに胸をたたいた。
「それはそうと、魔界王様が持っていらしたのは、これと同じ物でしたわね。
あれが、あなたの左眼なのですか……?」
ライラが示すペンダントに眼をやり、宝石の精霊は深く息をついた。
「……ああ。千年……いや、もう千二百年前になるのか……。
ペアになるようにって、タナトスとイナンナにやったのさ……」
王女は眼を見張った。
「まあ。でも、どうして大切な眼を……あ、聞かない方がいいみたいですわね……」
少年は首を横に振った。
「……いや、別にいいさ。千年以上も前のことだし、キミのご先祖のことでもあるんだから、話しといてやるよ。
オレはさ、ある事件でイナンナと会い、一目惚れしちまったんだ。
でも、彼女ときたら、どこがいいんだか、タナトスに惚れちまってて、ヤツのことしか眼に入ってなくてさ……だけど、タナトスの方は、別の女を愛してて……。
つまり三角関係……違うな、四角関係……いや、もっと複雑だったかも?
だって、タナトスが愛した女は、あいつにゃ興味がなくて、サマエルのことが好きだったんだから」
「……ふーん、そりゃ、たしかに複雑だね」
リオンが口を挟む。
「それから色々あって、結局オレの思いは届かなくって……ま、初めっから分かっちゃいたんだけど。
ともかく、魔界に還るっていう時になって、もう二度と会えないんだって思ったら……彼女に何かあげたくなったんだ、それを見たら、オレを思い出してくれるような物を。
……けど、オレは石の精霊……金も財産も……何も持っちゃいない……」
宝石の化身は掌を広げ、悲しげに頭を左右に振った。
「……持ってる物……って言ったら、この体だけだった……。
だったら、眼を……って思いついたのはいいけど、ンな魔物の眼じゃ、キモイって捨てられちまうかもしんねーし……」
ダイアデムは、自分の眼を指差した。
その紅い瞳はうるみ、中であれほど激しく燃えていた黄金色の炎も、今は消えそうに、か細く揺らいでいた。
「そんとき、ペアにすればいいってひらめいたんだ。
タナトスとおそろだって知ったら、喜んで持っててくれるだろ、ってさ。
当時、魔界王だったベルゼブル……つまり、タナトスの親父には駄目だって言われたけど、タナトスはいいって言ってくれて……。
そ、それで、オレは、あ……あいつに、た、頼んで……」
紅毛の少年の唇は震え、それ以上、続けられない。
そんな彼を救ったのは、ライラだった。
「ダイアデム。わたし、小さな頃、お祖母様から聞いたんです。
イナンナは、大切な友人からの贈り物だと言って、これをいつも身に付けて、とても大切にしていた、って……代々、そう伝えられて来ているそうですわ」
「……大切な友人……とても大切に……? ホント、か……?」
すがるように、宝石の少年は彼女を見上げる。
ライラは、優しい笑みを返した。
「ええ、本当ですよ」
ダイアデムは、こっくりとうなずいた。
「……ありがとう、ライラ。タナトスもそう言ってたよ。
イナンナは、心の優しい娘だから、わざわざペアにしなくても、ちゃんと持っていてくれるって……オレの心を、ちゃんと受けとめてくれるってね……。
……オレは、宝石箱にしまい込まれたまんま忘れられてても、それはそれでいいやって思ってたけど……」
“ダイアデム、聞こえるか?”
そのとき、突如、魔界王タナトスが、遙か魔界から呼びかけて来た。
彼の心話は強力で、リオンとライラの心にまで、はっきりと響いた。
“ああ。何だよ、タナトス”
“言い忘れていたことがある。お前が封印された後で、イナンナに会ったときに、伝言を頼まれていたのをな”
“……イナンナから? 何だろ”
少年は首をかしげた。
“『短い間だったけれど、楽しかったわ、ありがとう』……お前が目覚めた時、そう伝えてくれと彼女は言っていた。
──確かに伝えたぞ、ではな”
タナトスの心の声は切れた。
「イナンナ……ああ……オレはキミをまだ……ちゃんと覚えてる……。
その微笑みも、声も、姿も、何もかも……なのに……キミはもう……どこにもいないんだな……」
ダイアデムは、もう、こらえ切れなかった。
一旦治まった震えが、再び始まり、彼はついに涙をこぼした。
(魔物でも、泣くのか……)
「あっ……!」
何となく心が揺さぶられて、リオンはそれを見ていたが、頬を伝うその涙が床に落ちた瞬間、小さく叫んだ。
ころんと音を立てて、ダイアデムの涙は、二粒の宝石と化したのだ。
右は、白く輝く星を内に秘めた鮮血のスタースビー、左は、無色透明で紅い星を
無造作に貴石を拾い上げ、こちらも驚きに眼を丸くしているライラに差し出しながら、ダイアデムは静かに言った。
「……やるよ。オレの涙は、最高級の宝石になるんだ。
魔界じゃ、これ一個で、でっかい城も悠々買えるくらいの価値はあるけどな……」
「そ、そんなに貴重なものを……?
いけません、ダイアデム、これはお返ししますわ」
王女は、彼の手を押し戻そうとした。
少年は悲しそうな顔をした。
「キミが、イナンナの子孫だからやるんだ、なあ、頼むから受け取ってくれよ。
ペンダントの瞳は透明になっちまったし、事が終わってから国を立て直すにも、資金が必要だろ?」
ダイアデムは、石を持つ手を伸ばしたまま、反対の手でぐしぐしと眼をこすった。
「そうですわね……では、頂いておきますわ。ありがとうございます……」
ライラは、おずおずと宝石を受け取る。
貴石の化身は、涙をぬぐう手を止めて、笑顔を見せた。
「人界じゃ誰も持ってない石だから、すごく高く売れるぜ」
(宝石の精霊って言うのは、ウソじゃなかったんだな。
でも、今日は、なんて驚くことばかりある日なんだろう……!)
リオンは、そう思わずにはいられなかった。