~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

1.“焔の眸”(4)

「“宝石の精霊”……? 今時、そんなものがいるのかなあ?」
対するリオンは首をかしげていた。
「駄目で元々、やってみても損はないでしょう? それにもう、他に打つ手はないのだし」
ライラは答えた。
「それは……そうだけどさ……」

一応同意はしたものの、リオンは、思わずにはいられなかった。
(今時、おとぎ話や絵本に出て来る精霊なんかを本気で信じてるなんて、やっぱ、王女って、ちょっと古風なんだな……)
最近は、人前に魔物が現れることもめっきり少なくなっていて、同時に、魔法使いの数も減る一方だったのだ。

少年の疑い深い顔も、王女は気にしなかった。
「だって、考えてみてよ、リオン。
ちゃんとした根拠がなければ、千年以上も、言い伝えられて来るはずないと思わない?
精霊は絶対いるのよ。必ず、わたし達を助けてくれるに違いないわ」

確信を込めて言われると、彼もそんな気がして来た。
「うん、そうだね、きっと来てくれるよ」
「ええ」
ライラは、宝石を握りしめて固く眼をつぶり、千二百年もの間、王家の女性だけに受け継がれてきた通り、唱えた。

「我に、“焔の精霊”を召喚する呪文を示せ!
──インヴォーク!」
刹那、ペンダントから紅い光が一筋、ほとばしり出て壁に当たり、何行かの文字列を浮かび上がらせた。
冒頭の文字は、現在人界で使われているものだったが、後の方はまったく違った形状をしていて、明らかに異なった文化の所産だと分かった。

「……あれ? この字、見たことあるな。おまけに読めるよ」
リオンは壁に近寄り、眼を凝らした。
「え……っと、“サブ……スピーシィ……インター……ニティティ……ス”
意味は、う~ん……“永遠の……姿、形、相の下で”……だったっけ……?」

ライラは息を呑んだ。
「まあ、なぜ分かるの?
これは、今はもう使われていない、古代の文字なのよ」
「え? これってそんなに珍しいものなの?」
今度は、リオンが驚く番だった。

「ええ、普通の人は、絶対読めないと思うわよ。
王家に伝わる古文書には、この文字で書かれたものもたくさんあるから、わたし達は習うのだけれど。
それを、なぜあなたが……?」
ひたと見つめられた彼は、眼を伏せた。
「……あ、あの……ええと……そ、そう、昔、母さんに教わったんだ、よ」
「お母様に?」

リオンは、こくこくと人形のように首を動かした。
「う、うん。魔法が使えるようになった時に、きっと役に立つからって、母さんは、口癖みたいに言ってたんだ、けど……」
王女は首をかしげた。
「……そう。お母様は、どこで覚えられたのかしら。
国立の魔法学院でも、一般の生徒には教えていないはずなのに。
……お母様は、古代魔法を研究されていたの?」

「……そ、そうだね、古い魔法にも、すごく興味があった、みたい……。
で、でも、母さんが死んだとき、ぼ、ぼくは、まだ小さかったし、か、母さんが……どこで、その字を習ったのか、とか……む、昔、学校に行ってたのか……なんてことも、よ、よくは、分かんないんだ……」
リオンは、しどろもどろに答えた。
母に教えてもらったのは本当だったが、ある理由から、それ以上のことは言えず、返答に(きゅう)したのだ。
「そうなの……?」
ライラは、まだ納得していない様子だった。

彼は、額に噴き出した汗をぬぐい、それ以上の追及を避けようと、壁に浮かび上がった紅い文字を指差した。
「ね、ねぇ、そんなことよりさ、これ、消えないうちに、早く唱えた方がいいんじゃない……?」
「あ、そうね、消えたら大変」
ライラは注意を壁に戻して、呪文を調べ始めた。
胸をなでおろしたリオンは、口の中でつぶやいた。
(……ふう、危なかった……)

夢中になって文字を調べていた王女は、ややあって顔を上げ、笑みを彼に向けた。
「ちゃんと読めるわ。一番初めに習ったから、心配だったけど」
それを聞いたリオンも笑顔になる。
「よかった。ぼくもうろ覚えだし。呪文の本は、まだ家のどこかにあると思うんだけど」
「そう。ともかく唱えてみるわね」
「うん、頑張って」

「ええ」
王女はうなずくと大きく息を吸い、紅い呪文に意識を集中させた。
「“──魔界の闇に()まう、紅き瞳を帯し者よ、我は、その瞳の輝きを(たた)え、(なんじ)を呼び出し(たてまつ)る。
永き眠りより目覚め、来たりて、我にその偉大なる力を貸し給え、『(ほのお)の石』よ……。
──黄金の箱の主、貴石の王、王位の象徴たる杖、宝冠ダイアデム──数多(あまた)の名を持つ魔界の至宝よ、遙けき冥府の河、憎悪(ステュクス)、支流、悲嘆(アケロン)忘却(レト)の深き流れを超え、我の招請に応えてその輝かしき姿を現し、我が望みを叶え給え!
──サブ・スピーシィー・インターニティティス!”」

長い呪文を一気に唱え終わると、二人は、胸を高鳴らせて、精霊が出現するのを待ち受けた。
しかし、そのまましばらく待っても、彼らの期待とは裏腹に、辺りはしんと静まり返ったまま、何の変化もない。

かなりの時間が経過した。
それでも、やはり何も起こらず、まったく何の気配も感じられない。
「……そんな……ずっと信じていたのに……宝石の精霊だなんて……やっぱり幻、ただの伝説だったと言うの……?」
彼女は、押し寄せて来る不安と戦いながら、再び召喚呪文を唱えた。

だが、何も変わらない。空気さえも。
聞こえるのは、砂漠を渡っていく風の音だけ。
リオンの気遣わしげな視線にも気づかず、ライラは指を組み合わせ、一心不乱に祈っていた。

それから、さらに数分が経ち、彼は思い切って口を開いた。
「ライラさん、残念だったね……。
でも、大昔からの言い伝えなんて……きっと皆、こんなものなんだよ」
「…………」
しかし、その声も耳に入らずに、彼女は眼を固くつぶったまま、唇を懸命に動かしていた。
まだ繰り返し、召喚呪文を唱えていたのだ。

「ね? 諦めようよ、ライラさん」
そっと、リオンは彼女の肩に手を置く。
「……!」
ライラはびくっとし、詠唱を止めて彼を見た。
「ごめん、びっくりさせちゃった?」
「あ、……」
彼女は、二、三度瞬きし、ゆっくりと周囲を探した。
リオンも無意識に、彼女の視線をたどる。
幾度見直しても、古びた小さな部屋には、やはり精霊の影も形もない。

「…………」
彼女はうつむいた。
これが……これだけが、最後の頼みの綱だったのだ。
首を振る王女の心を絶望が満たし、城に戻って来るまでは決して流すまいと決心していた涙があふれそうになるのを、彼女は懸命にこらえた。
その心を察したリオンは、優しく彼女の手を取って、かすかに震える背中を、何も言わずにさすり続けた。

「……ありがとう、リオン。もう大丈夫よ。
でも、言い伝えは、やはり言い伝えでしかなかったのね……。
仕方がないわ……他の方法を考えましょう……」
ようやく、彼女が気を取り直し、顔を上げたときだった。
“答エヨ……ナ、何者、ダ……我、ニ……呼ビ、カケル、ノハ……?”
どこからか、不思議な声が聞こえてきたのだ。

ライラは耳に手を当てた。
「……何か言った? リオン」
リオンはきょとんとした。
「……え? 何も言ってないけど……」
「それでは……今のは、まさか……」

(ナンジ)カ……我ノ、眠リヲ、サマタゲル、者ハ……?
()ノ呪文ハ……いなんなニ、伝エシモノゾ……。
……我、ニ、呼ビカケシ者ヨ……汝、ハ、何者……? ”
それは、耳に聞こえているのではなかった。
洞窟の中で反響するような奇妙な声は、直接、彼女の心に伝わって来ていたのだ。

「今度は、はっきり聞こえたわ! やはり本当だったのよ、リオン!」
ライラは叫び、勇んで精霊に呼びかけた。
「わたしはライラ、イナンナの子孫です、お姿をお見せ下さい、ダイアデム様!」

“……らいら……いなんなノ、子孫トナ……? 
フム……ナラバ、参ラズバナルマイ……。
ナレド……我、ガ人界ニ……顕現(ケンゲン)、スルニハ……次元ノ回廊ヲ、開カネバナラヌ……”
遠く、木霊(こだま)のような答えが返って来る。
よほど距離があるのか、その声はかすかで、途切れがちだった。

「何が聞こえるの?」
「──しっ、黙って。
尋ねるリオンを彼女は黙らせ、精霊との会話に戻る。
「ジゲン……カイロ? それは何ですか?」
“人界ト、魔界トヲ、ツナグ……橋……通路、ノヨウナモノダ……。
コレヨリ、我、ガ教エル通リニ……魔法陣、ヲ描ケ……ソコニ、我ガ『門』ヲ、開ク……。
ソレガ、魔界トノ……通路、ニナル……”

「分かりました。
リオン、何か、描く道具を貸してちょうだい。
魔法陣を描かなくてはならないの、ここ、使っていいかしら?」
王女は、木の床を指差した。

「え、いいけど……床に書けるもの……? ーんっと、何かあったかな?
あ、これでもいい?」
面食らいながらも、彼は狭い部屋を見回し、これもやはり母が使っていたチョークの箱を手に取った。
「ええ、いいわ。ありがとう」
ライラは、箱を開けて真新しい白のチョークを取り出し、粗末な床に魔法陣を描き始めた。

「……ふーん、この魔法陣、珍しい形だね」
リオンが覗き込む。
彼女は眉をしかめ、手を休めずに言った。
「頭の中にイメージが送られて来るのよ……ごめんなさい、集中したいの、話し掛けないで」
「あ、ごめん」
慌てて口をつぐんだリオンの目の前で、脳内に浮かぶ鮮明な印象が消えないうちにと、ライラは大急ぎで白墨を走らせ、どんどん複雑な模様を描いていく。

数十分のち、星と円と線とで構成された、複雑で摩訶(まか)不思議な図形ができあがった。
今現在、人界にはただ一つしか存在しない、異世界をつなぐ魔法陣がついに完成したのだ。

作業を終えた王女は、一息つく間も惜しいように、またも虚空に向かって問いかけた。
「終わりました、ダイアデム様。次は何を?」
“血、ガ必要……汝ノ、血ヲ一滴……魔法陣ニ……滴ラセヨ……。
ソレ、ガ……『門』ヲ、開ク……『鍵』ト、ナル……”
精霊の声が再び響いて来た。

「分かりました、血ですね」
彼女はかすかにうなずき、テーブルに載っていた小さな果物ナイフを取り上げた。
「あ、何をする気!?」
「大丈夫よ、リオン。ほんのちょっと、血がいるんですって」
驚く彼を尻目に、ライラはナイフで左の小指を傷つけ、血をひとしずく、魔法陣に滴らせた。

“シカルノチ……我ノ後ニ、ツイテ……呪文ヲ、唱エルノダ……。
──うぃーない……うぁいだい……うぁいさい……”
「はい。──ウィーナイ、ウァイダイ、ウァイサイ!」
彼女は言われた通り唱えた。

辺りは再び、沈黙に包まれる。
しかし、ライラは、もう焦りはしなかった。
微笑を浮かべて、彼女は精霊を待ち受ける。
「ねえ、ライラさん、一体、何がどうなって……」
とうとうリオンがしびれを切らして質問を発しかけたとき、突如、魔法陣が眼も(くら)む輝きを放った。