~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

1.“焔の眸”(1)

「おや……あれは……」
干草を積んだ荷車をロバに引かせ、ゆっくりと砂漠を進んでいた少年が、まぶしそうに額に手をかざしてつぶやいた。
一歩間違えば、命を落としかねない危険なこの土地も、長年ほとりに住む彼にとっては、自分の庭のようになじみ深いものだった。
遠目が利く少年の視線の遙か先には、黒っぽい鳥が一羽、大きく輪を描いて空を舞っている。

「砂漠ワシが、あんな風に飛ぶときは……大変だ、急がなくちゃ!
──ハイッ!」
日に焼けてはいるものの、なかなか整った顔立ちをしている少年は、手綱を振るい、ロバはスピードを上げ始めた。
もうもうと巻き上がる砂煙を残し、今にも壊れそうに激しくきしみながら、荷車は進む。
「……間に合うといいけど……」
栗色のまっすぐな髪が、砂漠の乾いた風になびき、少年は額の汗をぬぐった。

「あ、あそこだ!」
じりじりしながら、しばらく進んだところで、ようやく遠くに、目的のものが見えて来た。
半ば砂に埋れた、人影らしきものが。
「──おーい、そこの人、大丈夫!?」
口に手を当て叫んでみても、反応はない。
「まずいな……モウム、急げ!」
少年は眉を寄せ、ロバをさらに走らせる。

目の前に来てみると、倒れていたのは、やはり人間だった。
ロバを止める間ももどかしく、彼は水筒を引っつかみ、その人物に駆け寄った。
ほっとしたことに、弱々しくはあるものの、ちゃんと呼吸(いき)がある。
「よかった、生きてる! しっかりして、水だよ、ほら!」
急いで上半身を抱き起こし、ひび割れた唇に水を流し込む。
「うう……」
相手はうめき声を上げたが、目は覚まさなかった。

「よいしょっと」
荷車に載せようと抱き上げる。
その体は予想外に軽く、はらりと落ちたフードの下から、美しい少女の顔が覗いた。
「わあ……すごく綺麗な女の子……」
少年の栗色の眼が、うっとりと少女に注がれる。
あまり日に焼けていないところを見ると、砂漠の住人ではないのだろう。
それから、彼は、こんなことをしている場合ではないことに気づいた。

「な、何をやってんだ、ぼくは! 急いで、家に連れて行かなきゃ!
早くしないと死んじゃうかも……!」 
(あわ)てつつもそっと少女を干草に寝かせ、顔だけでもと、自分の上着で日陰を作ってやり、彼が家路につこうとした、その時だった。
「その娘、置いていってもらおうか」
背後から、不穏な響きの声が聞こえて来たのだ。

「──!?」
はっとして振り返った少年が見たのは、薄汚れたローブを着込んだ、一人の男だった。
「ば、漠賊(ばくぞく)か!? この子に何の用だ!」
とっさに、彼は、少女をかばうように荷車の前で両手を広げた。
漠賊とは、砂漠を渡る隊商や旅人を襲う強盗団のことである。

男は否定の身振りをした。
「いや、俺は賊などではない。その娘の相棒だ。
二、三日前のひどい砂嵐で、はぐれてしまったのが、ようやく再会出来たのだ、返してくれ。
オアシスの方向さえ教えてくれれば、後は、わたしが背負って行くから」

「えっ、相棒?」
「そうだ。オアシスはどっちだ?」
男は重ねて訊いた。
その声は、くぐもっていて、聞き取りにくい。

だが、少年が返事をためらったのは、それだけが理由ではなかった。
「ああ、これは、彼女を助けてくれた礼だ、取っておいてくれ」
「…………」
差し出された金貨に見向きもせず、少年は口を固く結び、相手を観察した。

男は、暑い日差しを避けるため、長い布を、頭だけでなく顔にまで巻きつけていた。
無論、そのこと自体は、珍しくはない。
しかし、勘がいい自分の背後に、いつの間にか忍び寄っていたという事実、そして何より、唯一外から見える、ただならぬ輝きを放つ眼が、どうしようもなく、少年の警戒心をかき立ててやまなかったのだ。

(……何か、嫌な感じ……。
こういうときの勘って、外れたことないんだよな……)
この男は只者ではないと、彼は直感していた。

「どうした? さあ、早く受け取って、オアシスを……」
そうとも知らず、さらに金を突き出す男の手を、少年は払いのけた。
「そんなもん、いらないよ!
大体、お前が、この子の相棒なんて、嘘なんだろう!」

「そう、嘘よ! そいつは、わたくしを追って来たの!」
そのとき、澄んだ声が砂漠に響いた。
荷車の少女が目覚め、叫んだのだ。
「──ちっ! ならば、力尽くでも!」
男は舌打ちし、少女に向かって行こうとする。

「逃げて!」
少年は叫び、男に足払いをかけた。
「うわっ!」
怪しい男は倒れ込む。
言われるまでもなく、少女は荷車から飛び降りて、よろめきながら走り出していた。

いったん倒れた黒衣の男は、砂を蹴散らして立ち上がり、少年を殴りつける。
「──痛っ!」
さらには、腰の大剣を抜き放ち、倒れた少年の襟首をつかんで、鋭い先端を鼻先に突きつけた。
「死にたいようだな、貴様」

背中を冷たい汗が流れたが、少年は歯を食いしばって問いかけた。
「お、お前、何で、あの子を追い回してんだ!」
男は肩をすくめた。
「死んでいく奴に話す義理もない。さあ、覚悟しろ!」
「わあっ!」
男が剣を振り上げ、彼が思わず眼をつぶった、その刹那。

「なーにをしてるの、お馬鹿さんー!
わたくしは、ここよー!」
少女が、こちらに向かって、手を大きく振り回していた。
はっとして顔を上げると、男は、少年を砂にたたきつけた。
「ち、あっちが先だ!」

「やめろ、よせ!」
「邪魔だ!」
足にしがみつく少年を、邪険に蹴り付け、男は剣をぎらつかせながら、少女に追いすがる。
「逃げても無駄だぞ、こんな砂漠では隠れる場所もない!
大人しく、わたしと一緒に戻っていただこう、ライラ!」

「──嫌よ! 戻って、アンドラスに伝えなさい、力で人々を支配するなんて、長くは続かないと!」
息を切らしながらも、少女は叫び返し、走るのをやめなかった。
だが、疲れ切ったその足は、ともすればもつれがちで、男の確実な足取りに(かな)うはずもない。
見る間に、彼らの距離は縮まってゆく。

「……まずいな、どうにかしなきゃ……ん? そうだ、そろそろ時間だ。これで逃げられるぞ!」
少年は、荷車に飛び乗り、ロバに鞭をくれる。
「ごめんよ、モウム。でも、頑張ってくれ!」
出来るだけロバを急がせて、ようやく二人に追いつくという頃、周囲が暗くなり始めた。

「キミ、手を! 早く!」
彼は、追い抜きざまに声をかけ、伸ばされた少女の手を取った。
「ま、待て!」
叫ぶ男の腕をかいくぐり、干草の上に少女を乗せる。
「駄目、すぐ追いつかれるわ!」
焦る少女に、少年は手を振って見せた。
「大丈夫だよ! ほら!」

「え……ああっ!」
いつの間にか、風が砂を巻き上げ始めていた。
「毎日、この時間になると、ここら辺にはすごい砂嵐が来るんだ、こいつを使えば!」
風の(うな)りに負けぬよう、彼が大声で言った時、ついに男が追いつき、荷車に這い登って来た。
「きゃあ、上がって来たわ!」
「こっちに来て!」
少年は、少女と席を入れ替える。

「くそっ、砂で前が見えん!」
そして、眼をこすっている男の腹に、思い切り蹴りを入れた。
「──落ちろ!」
「うっ、くそっ」
干草の上に倒れ込んだ男は、すぐに跳ね起きて剣を抜き、眼を閉じたまま、闇雲に振り回し始めた。
「わっ、やめ……あぶ、危ない!」
揺れる狭い荷車の上、逃げ場はない。顔をかばう少年の腕や体に、否応なく傷がついていく。

「こ、こうなったら……!」
少年は、首から下げて服の中に隠していた鎖を引き上げ、涙滴形をした銀色のロケットに何事かささやいた。
刹那、男の剣目掛け、紫色の稲妻が走った。
「──ぎゃあっ!」
不意に全身がしびれ、たまらず荷車から転げ落ちる男を置き去りにして、砂嵐の中、ロバは驀進(ばくしん)していく。

息を弾ませながら、少年は、女の子のいる席に戻った。
「……ふう、これで、もう、大丈夫だよ。
でも、もう、ちょっと、あいつと、距離、開けといた方が、いい、よね」
「は、はい……」
少女は、まだ硬い表情でなずく。
「あ、代わるよ」
彼は再び御者(ぎょしゃ)席に座り、そのまま、しばらく荷車を走らせた。

風が強くなり、さすがに進むのが困難になると、彼は手綱を引き、汗だくのロバをねぎらった。
「よーし、モウム、もういいよ。ご苦労だったね、ありがとう」
「で、でも、こんなところで砂嵐に遭ったりしたら、死んじゃうわ!
二日前にも、死にそうな目に遭ったの! 荷物も全部なくして……」
少女はかすれた声でいい、がたがたと震えた。

「心配しないで。平気だよ、これがあれば」
彼は、ポケットから小さくたたまれた布を取り出し、広げ始めた。
「……そ、それは?」
「母さんが作った魔法具さ。これをかけると、どんな砂嵐でも、絶対飛ばされないんだよ」
少女は、緑の眼を見張った。
「……すごい魔法具ね。とても強い力を感じるわ……」

薄く引き剥がされた雲母(きらら)のように(きらめ)き透ける、全体に摩訶(まか)不思議な模様が縫い取られた薄紫色の布は、魔力を持つ者だけに感知出来る力を放出していた。
少年は、それを荷車全体にかけ、すっぽりと覆い隠した。
「中で、嵐が過ぎるのを待とう」
「ええ」
二人は布の下にもぐり込み、干草の上に座った。

「この力が分かるってことは、キミ、魔法使いなんだね?」
「え……ええ、あまり力は強くないけれど……あ、大変、血が」
少女は、レースのハンカチを取り出し、彼の傷を押さえようとした。
「だ、大丈夫、平気だから。みんな浅いし、すぐ治るよ」

すると、少女は急に居住まいを正し、深々と礼をした。
「危ないところをお救い頂き、まことにありがとうございました。
わたくしは、……ライラと申します」
「あ、いや、僕はリオン……だよ、とにかく、よかったね」
いきなりのていねいなあいさつに面食らいながら、彼は答えた。

「リオン様ですね、本当にありがとうございました。
一時はどうなることかと、ゴホッ、ゴホッ」
言葉がノドにつかえ、ライラは咳き込む。
「……あ、ノドが渇いてるんだよね? ほら」
リオンは干草の中から水筒を見つけ出し、少女に渡した。

「──み、水!」
少女は眼の色を変えてそれを受け取り、口に当てた。
手が震え、干草の上にこぼしてしまいながら、むさぼるように水を飲む。
「少しずつだよ、慌てないで」
「……す、すみま……ゴホッ、ゴホッ」
熱風と砂に痛めつけられた喉に水が染みて、少女はむせ返った。

「大丈夫? この後、少し、ぼくの家で休んでいくといいよ」
少年は、その背中を優しくさすった。
前に旅人を見つけたときには、すでに死体となっていて、しかも、かなり砂漠ワシに食い散らかされた後だったから、少女が生きていたことに、彼はほっとしていた。

「……い、いえ、ご迷惑でしょうから……」
少女は首を横に振った。
「遠慮なんかいらないよ。ぼく、母さんが死んじゃってから、一人で暮してるんだ」
「でも……」
「疲れてるでしょう? それにもうすぐ暗くなる、夜、独りで砂漠を越えるのは無理だよ。
後で、ぼくが道案内してあげるから。
……ね?」
リオンは少女に微笑みかけた。

迷っていた旅人も、自分よりも年下に見える彼の、まだ子供っぽさの残る笑顔と優しい栗色の瞳、無邪気な声に、警戒を解いたのだろう。
「……それでは……少し、だけ……」
そう答え、ふらっと倒れかかった。
「あ、キミ、ライラ……!?」
リオンは驚き、揺さぶってみたが、少女は、完全に意識を失っていた。

「体が弱ってるのに、悪いヤツに追っかけられて、必死で走ったんだもんな。
早く、家に連れてって、休ませなきゃ」
干草にライラをそっと寝かせ、彼は、布の端をめくって見た。
砂嵐は通り過ぎ、太陽が顔を出しているものの、日暮れが近い。
彼は、ロバにも少し水をやり、手早く布をたたむと家路を急いだ。