~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

9.緋色の花嫁(4)

「オバサン、ごめんなさい。このドレス、元に戻して下さい」
ジルはうなだれ、悲しげに言った。
「まあ、大丈夫よ。サマエルは、ちょっとびっくりしているだけなのだから。
落ち着くまで待てばいいのよ、ね?」
イシュタルの優しい取り成しにも、少女は首を振る。
お下げに結った髪が、しお垂れた動物の尾のように揺れた。

「いいの、結婚式なんて。
お師匠様とこれからも一緒にいられる、それだけで、あたし、いいから」
栗毛の少女は、サマエルの手を取った。
熱のない指先は、いつもの通り、ひやりとしている。
彼女は微笑み、血の気がない白い手を自分の手で包み込んだ。
「お師匠様、これで、やっと人界に帰れるわね。
王様にも許してもらったから、もう、ずーっと一緒……」

呆然自失していた王子は、触れられたことで我に返った。
「あ、ジル……」
彼は、ようやく、しっかりと弟子の少女に視線を据えた。
ジルの手は、一ヶ月前より、かなりやせてしまっている。
栗色の髪はボサボサで、頬も明らかに肉が落ち、涙に潤んだ瞳がさらに大きく見えた。
おそらく、以前引き離されたときと同様に元気をなくし、食事も、ほとんど摂らずにいたのだろうと思われた。

ここに至って、サマエルは、やっと完全に眼が覚めた気がした。
と同時に、自分の不甲斐(ふがい)なさに歯噛みする思いだった。
(……私は、何をやっているのだろう。私が死んだら、彼女は確実に死ぬ……。
いや、本当なら、ジルは、あのとき疫病で死んでいたはずなのだ。
それを、母上が私のために……私の生きる目的とするために、生き長らえさせてしまった……。
私と彼女は、一蓮托生(いちれんたくしょう)、共に生きるか共に死ぬか、どちらかしかない……ならば)

「お待ち下さい、叔母上」
困惑顔の叔母に、サマエルは声をかけ、そっと、ジルの手を外して立ち上がった。
イシュタルは、彼を真正面から見た。
「サマエル、ようやくその気になった?」
彼は叔母の強い視線を、(そら)すことなく受け止めた。
「ええ。ですが、ここでは……辛い思い出しかない魔界では、新しい門出を祝う気にはなれません。
力を貸して頂けますか、叔母上、そして……」
彼は、魔界の君主に目線を向けた。

例によって顔を背ける異母兄の手に、イシュタルがそっと触れる。
そっぽを向いたまま、王は言った。
「……何が必要じゃ、申してみよ」
「はい。現在、人界と魔界の位相はかなりずれていて、移動は難しいのです。
ですが、陛下と叔母上のお力をお貸し頂けましたなら……」

「まあ、人界で、式を挙げるつもりなのね?」
尋ねる叔母にうなずいて見せ、サマエルは続けた。
「そうです。
そして、今度こそ、正式に私を追放処分にして下さい、陛下」

イシュタルは顔色を変えた。
「ええっ!? どうして! せっかく、許すと仰って下さったのに!」
「お師匠様?」
叔母と、弟子の少女の不安げな視線を浴びながら、サマエルは、ゆっくりと首を左右に振った。
ほどけて乱れた銀の髪が、つる草のように紅い婚礼衣装にまといつく。

「陛下のお許しを頂いても、私とジルが結ばれたと知れば、天界は黙っていないでしょう。
様々難癖をつけ、さらには、再び戦を仕かけて来ないとも限りません。
それでも、魔界は結界に守られていて安心ですが、同胞は、人界にも大勢移住しております。
彼らの安全を考えると……」

魔界王は、白いあごひげをなでつけた。
「……ふむ。追放者が何をしようと、魔界は一切関知せぬ、煮るなと焼くなと好きにせよと、突っぱねればよい……と?」
「はい」
サマエルはうなずいた。
「人界の同胞達を魔界に帰し、その上で次元回廊をふさぐのが、最良の策と心得ます。
……私を追放した、確かな(あかし)として」

「サマエル、何もそこまで……それでは、あなた達が危いじゃないの」
イシュタルは、血の気の失せた唇を震わせた。
彼自身も蒼白な顔色だったが、叔母を安心させとようと微笑みかけた。
「いいえ、叔母上。私は平気です……もう、独りではありませんから」
「そうよ、オバサン。あたし、ミカエルをやっつけちゃったことがあるの! 
だから、大丈夫よ!」
ジルは、栗色の眼をくるくる動かし、ドレス姿に似合わない、力こぶを作って見せた。

「それに、私は、自分の……自分達のせいで、もう、他の誰にも迷惑をかけたくないのです」
そう言うと、サマエルは改めて、これから妻になる少女に手を差し伸べた。
「ついに、私は迷宮を抜け出ることが出来たよ、(はかな)い幻と暗い夢の……。
キミのお陰だ、ありがとう、ジル。私と結婚してくれないか」
「もちろんよ、うれしい!」
ジルは、輝くような笑顔を見せ、夫となる男性の手をぎゅっと握った。

「叔母上、それに陛下……」
サマエルが二人に顔を向けると、イシュタルも笑顔になる。
「ええ、喜んで力を貸すわ。
さ、異母兄上」
彼女は、左で甥の手を取り、右でベルゼブルのしわ深い手を握った。

「オジサ……じゃない、もう、お義父(とう)さんになるのよね、よろしく!」
栗毛の少女は、恐れる様子もなく、人間にとっては異様な外見を持つ、魔界の王に手を差し出した。
その顔には希望があふれ、瞳もまた、星のような輝きに満ちていた。

「……む、……」
王はためらい、彼女の顔と手とを交互に見たが、イシュタルがほんの少し握力を強めると、渋々手を伸ばした。
「新しいお父さんが出来て、うれしいわ」
ジルは満面の笑みを浮かべ、ベルゼブルは(まぶ)しげに眼を(しばた)き、声もなく、義理の娘となる少女と手をつなぐ。

最後に、サマエルが叔母の手を取り、四人が輪になる。
彼は意識を集中させた。
「──森羅万象(しんらばんしょう)(つかさど)八紘(はっこう)の女神アナテよ、汝が司祭たる“混沌の貴公子”ルキフェルの名に於いて、伏して乞い願い(たてまつ)る。
我ら四人を、異なる宇内(うだい)……人界へと送致せしめ給え!
──イトゥス・エト・レディトゥス!」

次の瞬間、全身を電撃のような衝撃が走り抜け、意識が遠のく。
やがて、高いところから投げ出されるような感覚と共に、彼らの足は地についていた。
「あ……ここは!?」
ぱっと眼を開け、ジルが叫んだ。
「うまくいったね、よかった……」
サマエルは緊張を解き、額の汗をぬぐった。
「……むむ……?」
不機嫌だったベルゼブルも、周囲の情景に、たちまち気分が晴れて、眉間のしわを消す。

サマエルの屋敷があるワルプルギス山の広大な花畑、そこで、天を()くばかりに枝葉を茂らせる巨大な樹、その根元に四人は到着していた。
ざわざわと揺れる枝には、素早い動きのリスが見え隠れし、にぎやかな小鳥のさえずりや、餌をねだるヒナ鳥の声も聞こえて来る。
頭上に蒼穹(そうきゅう)が雲一つなく広がり、日輪は明るい光を注ぎ、色とりどりの胡蝶(こちょう)がそこかしこに舞う。
彼らを歓迎するかのごとく、開いた花々だけでなく、無数の(つぼみ)からも甘い芳香が立ち昇って来ていた。

「……何と見事な……」
ベルゼブルは、我知らず驚嘆の声を漏らした。
多種多様な植物が風に揺れ、数え切れないほどの花達が咲き競う、これほど広範で緑豊かな草原を、魔界の王は、生まれて初めて眼にしていた。
「本当……何て綺麗なのかしら……魔界にはないわね、こんなところ……」
イシュタルもまた、辺りの景色にうっとりと見とれていた。

そのときだった。
「──ジルー! サマエル様ー!」
ちぎれるように手を振り、遠くから人影が駆けて来る。
「……イナンナだ。“黯黒の眸”が目覚めさせたのだね」
遠目が利くサマエルは、ジルに教えた。
「イナンナ!」
少女も、従姉目がけて走り出す。

「ジル!」
「イナンナ! 大丈夫だったのね、よかった!」
二人は固く抱き合い、それから、連れ立って、魔界の王族達に歩み寄る。
「サマエル様。そして、陛下、イシュタル様。
皆様、ありがとうございました、わたしのために、色々お骨折り下さったと聞きました」
イナンナは深々と頭を下げた。

「いや、大したことはしていないよ」
サマエルが、にこやかに答えたところへ、息を切らした魔界公爵プロケルも現れて、彼らの前にひざをついた。
「お久しゅうございます、陛下、並びにイシュタル殿下。
サマエル殿下、ご無事でご帰還、何よりでございます。
されど、皆様方おそろいで、何ゆえ人界へ……?」
魔界の王族達の気を感知したプロケルは、イナンナと一緒に屋敷を出て来たのだが、少女の走りについていけず、やむなく途中で、移動魔法を使ったのだった。

途端に、イシュタルが口に手を当てた。
「いけない、忘れていたわ!
今日はね、ここで、ジルとサマエルの祝言(しゅうげん)を挙げるつもりで来たのよ」
「おお」
プロケルの細長い虹彩が、ぱっと大きく広がり、彼は金色の瞳を潤ませ、サマエルに駆け寄った。
「つ、ついに……おめでとうございます!」
「プロケル……?」
サマエルは戸惑い、自分の手を握って涙にくれる猫眼(びょうがん)の公爵を見つめた。

「あのね、お師匠様。
プロケルさんは、あたし以上に心配して、ずっと寝てなかったみたいなの」
感激で口も利けない様子の魔界公爵の代わりに、ジルが答えた。
「そうか、気を()ませて悪かったね、プロケル」
サマエルは優しく、公爵の年老いた手をさすった。
「いえいえ、こうして、無事なお姿を拝見出来ましたし、しかも、かようにめでたい……」
プロケルは、彼の手を押し頂いたまま、白髪頭を振った。

この老公爵が、こんなにも自分のことを気にかけていてくれたとは、サマエルには、まったく予想外のことだった。
(……もっと早く、ちゃんと周りを見ていればよかった……。
味方は、こんな身近なところにもいたのだな……)
彼はそう思い、礼を述べた。
「プロケル、ありがとう」
「も、もったいないお言葉……」
公爵の猫のような瞳から、またも涙があふれる。
イシュタルとイナンナがもらい泣きする中、魔界王は、きつく眉を寄せ、遠くを睨んでいた。

八紘(はっこう) 八方。全世界。八荒。八極。
宇内(うだい) 天下。世界。
イトゥス・エト・レディトゥス(itus et reditus=ラテン語) 往復。