9.緋色の花嫁(4)
「オバサン、ごめんなさい。このドレス、元に戻して下さい」
ジルはうなだれ、悲しげに言った。
「まあ、大丈夫よ。サマエルは、ちょっとびっくりしているだけなのだから。
落ち着くまで待てばいいのよ、ね?」
イシュタルの優しい取り成しにも、少女は首を振る。
お下げに結った髪が、しお垂れた動物の尾のように揺れた。
「いいの、結婚式なんて。
お師匠様とこれからも一緒にいられる、それだけで、あたし、いいから」
栗毛の少女は、サマエルの手を取った。
熱のない指先は、いつもの通り、ひやりとしている。
彼女は微笑み、血の気がない白い手を自分の手で包み込んだ。
「お師匠様、これで、やっと人界に帰れるわね。
王様にも許してもらったから、もう、ずーっと一緒……」
呆然自失していた王子は、触れられたことで我に返った。
「あ、ジル……」
彼は、ようやく、しっかりと弟子の少女に視線を据えた。
ジルの手は、一ヶ月前より、かなりやせてしまっている。
栗色の髪はボサボサで、頬も明らかに肉が落ち、涙に潤んだ瞳がさらに大きく見えた。
おそらく、以前引き離されたときと同様に元気をなくし、食事も、ほとんど摂らずにいたのだろうと思われた。
ここに至って、サマエルは、やっと完全に眼が覚めた気がした。
と同時に、自分の
(……私は、何をやっているのだろう。私が死んだら、彼女は確実に死ぬ……。
いや、本当なら、ジルは、あのとき疫病で死んでいたはずなのだ。
それを、母上が私のために……私の生きる目的とするために、生き長らえさせてしまった……。
私と彼女は、
「お待ち下さい、叔母上」
困惑顔の叔母に、サマエルは声をかけ、そっと、ジルの手を外して立ち上がった。
イシュタルは、彼を真正面から見た。
「サマエル、ようやくその気になった?」
彼は叔母の強い視線を、
「ええ。ですが、ここでは……辛い思い出しかない魔界では、新しい門出を祝う気にはなれません。
力を貸して頂けますか、叔母上、そして……」
彼は、魔界の君主に目線を向けた。
例によって顔を背ける異母兄の手に、イシュタルがそっと触れる。
そっぽを向いたまま、王は言った。
「……何が必要じゃ、申してみよ」
「はい。現在、人界と魔界の位相はかなりずれていて、移動は難しいのです。
ですが、陛下と叔母上のお力をお貸し頂けましたなら……」
「まあ、人界で、式を挙げるつもりなのね?」
尋ねる叔母にうなずいて見せ、サマエルは続けた。
「そうです。
そして、今度こそ、正式に私を追放処分にして下さい、陛下」
イシュタルは顔色を変えた。
「ええっ!? どうして! せっかく、許すと仰って下さったのに!」
「お師匠様?」
叔母と、弟子の少女の不安げな視線を浴びながら、サマエルは、ゆっくりと首を左右に振った。
ほどけて乱れた銀の髪が、つる草のように紅い婚礼衣装にまといつく。
「陛下のお許しを頂いても、私とジルが結ばれたと知れば、天界は黙っていないでしょう。
様々難癖をつけ、さらには、再び戦を仕かけて来ないとも限りません。
それでも、魔界は結界に守られていて安心ですが、同胞は、人界にも大勢移住しております。
彼らの安全を考えると……」
魔界王は、白いあごひげをなでつけた。
「……ふむ。追放者が何をしようと、魔界は一切関知せぬ、煮るなと焼くなと好きにせよと、突っぱねればよい……と?」
「はい」
サマエルはうなずいた。
「人界の同胞達を魔界に帰し、その上で次元回廊をふさぐのが、最良の策と心得ます。
……私を追放した、確かな
「サマエル、何もそこまで……それでは、あなた達が危いじゃないの」
イシュタルは、血の気の失せた唇を震わせた。
彼自身も蒼白な顔色だったが、叔母を安心させとようと微笑みかけた。
「いいえ、叔母上。私は平気です……もう、独りではありませんから」
「そうよ、オバサン。あたし、ミカエルをやっつけちゃったことがあるの!
だから、大丈夫よ!」
ジルは、栗色の眼をくるくる動かし、ドレス姿に似合わない、力こぶを作って見せた。
「それに、私は、自分の……自分達のせいで、もう、他の誰にも迷惑をかけたくないのです」
そう言うと、サマエルは改めて、これから妻になる少女に手を差し伸べた。
「ついに、私は迷宮を抜け出ることが出来たよ、
キミのお陰だ、ありがとう、ジル。私と結婚してくれないか」
「もちろんよ、うれしい!」
ジルは、輝くような笑顔を見せ、夫となる男性の手をぎゅっと握った。
「叔母上、それに陛下……」
サマエルが二人に顔を向けると、イシュタルも笑顔になる。
「ええ、喜んで力を貸すわ。
さ、異母兄上」
彼女は、左で甥の手を取り、右でベルゼブルのしわ深い手を握った。
「オジサ……じゃない、もう、お
栗毛の少女は、恐れる様子もなく、人間にとっては異様な外見を持つ、魔界の王に手を差し出した。
その顔には希望があふれ、瞳もまた、星のような輝きに満ちていた。
「……む、……」
王はためらい、彼女の顔と手とを交互に見たが、イシュタルがほんの少し握力を強めると、渋々手を伸ばした。
「新しいお父さんが出来て、うれしいわ」
ジルは満面の笑みを浮かべ、ベルゼブルは
最後に、サマエルが叔母の手を取り、四人が輪になる。
彼は意識を集中させた。
「──
我ら四人を、異なる
──イトゥス・エト・レディトゥス!」
次の瞬間、全身を電撃のような衝撃が走り抜け、意識が遠のく。
やがて、高いところから投げ出されるような感覚と共に、彼らの足は地についていた。
「あ……ここは!?」
ぱっと眼を開け、ジルが叫んだ。
「うまくいったね、よかった……」
サマエルは緊張を解き、額の汗をぬぐった。
「……むむ……?」
不機嫌だったベルゼブルも、周囲の情景に、たちまち気分が晴れて、眉間のしわを消す。
サマエルの屋敷があるワルプルギス山の広大な花畑、そこで、天を
ざわざわと揺れる枝には、素早い動きのリスが見え隠れし、にぎやかな小鳥のさえずりや、餌をねだるヒナ鳥の声も聞こえて来る。
頭上に
彼らを歓迎するかのごとく、開いた花々だけでなく、無数の
「……何と見事な……」
ベルゼブルは、我知らず驚嘆の声を漏らした。
多種多様な植物が風に揺れ、数え切れないほどの花達が咲き競う、これほど広範で緑豊かな草原を、魔界の王は、生まれて初めて眼にしていた。
「本当……何て綺麗なのかしら……魔界にはないわね、こんなところ……」
イシュタルもまた、辺りの景色にうっとりと見とれていた。
そのときだった。
「──ジルー! サマエル様ー!」
ちぎれるように手を振り、遠くから人影が駆けて来る。
「……イナンナだ。“黯黒の眸”が目覚めさせたのだね」
遠目が利くサマエルは、ジルに教えた。
「イナンナ!」
少女も、従姉目がけて走り出す。
「ジル!」
「イナンナ! 大丈夫だったのね、よかった!」
二人は固く抱き合い、それから、連れ立って、魔界の王族達に歩み寄る。
「サマエル様。そして、陛下、イシュタル様。
皆様、ありがとうございました、わたしのために、色々お骨折り下さったと聞きました」
イナンナは深々と頭を下げた。
「いや、大したことはしていないよ」
サマエルが、にこやかに答えたところへ、息を切らした魔界公爵プロケルも現れて、彼らの前にひざをついた。
「お久しゅうございます、陛下、並びにイシュタル殿下。
サマエル殿下、ご無事でご帰還、何よりでございます。
されど、皆様方おそろいで、何ゆえ人界へ……?」
魔界の王族達の気を感知したプロケルは、イナンナと一緒に屋敷を出て来たのだが、少女の走りについていけず、やむなく途中で、移動魔法を使ったのだった。
途端に、イシュタルが口に手を当てた。
「いけない、忘れていたわ!
今日はね、ここで、ジルとサマエルの
「おお」
プロケルの細長い虹彩が、ぱっと大きく広がり、彼は金色の瞳を潤ませ、サマエルに駆け寄った。
「つ、ついに……おめでとうございます!」
「プロケル……?」
サマエルは戸惑い、自分の手を握って涙にくれる
「あのね、お師匠様。
プロケルさんは、あたし以上に心配して、ずっと寝てなかったみたいなの」
感激で口も利けない様子の魔界公爵の代わりに、ジルが答えた。
「そうか、気を
サマエルは優しく、公爵の年老いた手をさすった。
「いえいえ、こうして、無事なお姿を拝見出来ましたし、しかも、かようにめでたい……」
プロケルは、彼の手を押し頂いたまま、白髪頭を振った。
この老公爵が、こんなにも自分のことを気にかけていてくれたとは、サマエルには、まったく予想外のことだった。
(……もっと早く、ちゃんと周りを見ていればよかった……。
味方は、こんな身近なところにもいたのだな……)
彼はそう思い、礼を述べた。
「プロケル、ありがとう」
「も、もったいないお言葉……」
公爵の猫のような瞳から、またも涙があふれる。
イシュタルとイナンナがもらい泣きする中、魔界王は、きつく眉を寄せ、遠くを睨んでいた。
宇内(うだい) 天下。世界。
イトゥス・エト・レディトゥス(itus et reditus=ラテン語) 往復。