~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

9.緋色の花嫁(3)

しばらくの間、生気が失われていく少女を見つめていたダイアデムは、ふっと深く息をつき、呪文を唱えた。
「──ストーラ!」
たちまち、涙と血に汚れた顔には死に化粧が施され、乱れた髪は整えられて、(きらめ)く宝石がこぼれる朝露のように散りばめられ、素晴らしく彼女に似合うカーマインレッドのドレスがその身を飾る。

最後に、彼は、内部にきらりと小さな月が輝く、サングイスと呼ばれる深紅の貴石がついた指輪を、魔法ではなく、ちゃんと手を使って薬指にはめてやり、紅い扇を抱くようにして胸の上で手を組ませた。

「思い出の印に、“オレの血(サングイス)”をくれてやるよ。
キレイだぜ、リリス。“緋色の花嫁”に、やっとなれたな。
……花婿はオレじゃなく、冥土の王だけど」
そっとささやくと、“焔の眸”の化身は、主人に問い掛けた。
「……なあ、こいつら、王家の墓地に埋葬してやっていいだろ?」
魔界王は、沈痛な面持ちでうなずいた。
「うむ、静かに眠らせてやるがよい、哀れな者達じゃ」

「……この頃、嘘ばっかついてる気がするな。やんなるぜ、まったく……」
ダイアデムは、ぶつぶつ言いながら少女を抱き上げ、アラストルの遺体は魔力で持ち上げて、玉座の間を去ろうとした。
その彼を、テネブレが呼び止めた。
「しばし待て。埋葬には、我も立ち会おう。
その前に、カオスの貴公子に渡すものがある。
こちらへ参れ、“紅龍”」

「……渡すもの?」
第二王子は、警戒しながら、“黯黒の眸”の化身に歩み寄った。
深い闇のような暗い視線が彼を捉え、テネブレは、にたりと笑った。
それは、口が一気に耳まで裂けたようにさえ感じさせる不気味な笑みで、その場にいた人々を総毛(そうけ)立たせた。

「ここ一月ほどの茶番劇は、まことにもって、愉悦(ゆえつ)の極みであった。
サマエル、おぬしは、なかなかの名優であったがゆえ、褒美(ほうび)を取らす。
──受け取るがよい、“紅龍の紋章”を!」
言うなり、宝石の化身は、鋭い爪の生えた手を彼に向けて伸ばした。
反射的に、サマエルは身を引こうとしたが、テネブレの動きは予想外に速かった。

「──うっ!?」
胸に押し当てられた掌が紅く輝くと、鋭い痛みが走り、彼はその場所を押さえた。
「お師匠様!?」
ジルが顔色を変え、取りすがる。
「……大丈夫だよ。だが、何をしたのだ、“黯黒の眸”」
痛みはすぐに消えたものの、王子は息を弾ませ、宝石の化身を不信の眼で見据えた。

テネブレは、節くれだった手を戻し、忍び笑いをもらした。
「くくく、心配無用、これは封印、おぬしの力が不用意に暴走するのを防ぐものぞ。
普段遣い程度の魔法ならば、このままでも使える。
これを解く呪文は、おぬしの心に植え付けておいた。
必要な際には、おのずと思い出すであろう」

「……封印?」
サマエルは、急いで、血や泥で汚れた衣装の胸元を開いた。
心臓の真上に紅く龍そっくりな(あざ)が現れており、彼の拍動と同期して生きているもののごとく脈打っていた。
「……なぜ、こんなことを?」
意図(いと)(はか)りかねて、彼はテネブレと痣を見比べた。
「おぬしは、人界にて娘と暮らすつもりであろう。
それがためには、力を抑える必要があろうと思うてな」
“黯黒の眸”は、尖った爪でジルを指差す。

「……それは、ありがたいが、どうして?」
少女をかばいつつ、彼が重ねて尋ねると、テネブレの笑顔は、自己満足の笑みに替わったが、気味が悪いという点では変わりがないものだった。
「我が力を分けたおぬしは、せがれも同然であろう?」
「息子……?」
サマエルは複雑な顔をした。

すると、闇の宝石の化身は、ふと遠くを見るような目つきになった。
「……せがれと申せば……バアル・ペオルが、おぬしの心を取り込むために見せた夢を覚えておるか?」
バアル・ペオルとは、ベルフェゴールの真実の名である。
いきなり変化した精霊の態度に第二王子は戸惑い、かすかに首をかしげた。

「……夢?」
「左様、タナトスは死に、代わりにアイシスが生きており、おぬしが愛されて育つ夢だ。
あれは、王妃が干渉し、見せた夢ぞ」
“黯黒の眸”が重ねて言うと、魔界王の顔色がさっと変わった。
それに気づいた者は、テネブレだけだった。

サマエルは、わずかに眉を寄せた。
「ああ、たしかに見たが。母上が干渉したとは……?」
「つまるところ、そこな娘との出会いを、膳立てしたのは王妃なのだ。
おぬしらが結ばれることを切に願うてな、娘の心の声を増幅し、おぬしに届けたのよ」
宝石の化身は、二人を交互に指差した。
「えっ」
ジルは眼を丸くし、サマエルは耳を疑った。
「は、母上が……?」

タナトスは顔を紅潮させた。
「──嘘だ、母上が、そんなことを望んでおられるはずがない!
でたらめを言うと壊すぞ、“黯黒の眸”!」
彼は叫び、テネブレにつかみかかった。
「偽りなど、我は申してはおらぬ」
「うるさい、死ね!」
もみ合いを始めた二人の間に、イシュタルが割って入る。
「もう諦めなさい、タナトス。大人げないわよ。大体、お前が後から割り込んだんでしょう」

「叔母上は、引っ込んでいてくれ!」
タナトスは、彼女を押しのけてジルのそばに行き、両肩に手を置くと、栗色の眼を覗き込んだ。
「なあ、ジル、聞かせてくれ。キミは、本当に、サマエルを選んだのか?」
「──うん。あたし、お師匠様のお嫁さんになるわ」
澄み切った瞳で、少女は迷いもなくうなずいた。

「………!!」
第一王子は、顔を引きつらせ、拳を握り締めた。
一瞬だけ、弟を睨みつけてから、彼はくるりと背を向けて、脱兎(だっと)のごとく玉座の間を走り出ていく。
「タナトス、ごめんなさいねー!」
「……くそぉ──っっ!」
口に手を当て呼びかける少女の声と重なって、第一王子の叫びが尾を引いて、徐々に遠ざかっていった。

「気にしなくていいわ、ジル。頭が冷えた頃、わたしが話をするから」
イシュタルが言った。
「はい、お願いしますね……ちょっと可哀想だし」
ジルは心配そうに、王子が出て行った扉を見つめる。
王妹は肩をすくめた。
「いい薬よ。何でも手に入ると思ってるんだから」

“黯黒の眸”は、乱れたローブを整え、兄弟を振り返った。
「さて、我らも参るとするか」
「ああ、行くか。──ムーヴ!」
魔界の至宝達は、遺体を伴い、姿を消した。

一呼吸置いて、ベルゼブルは、残る末息子に視線を戻した。
「サマエル。そなたにも罰を与えねばならぬな」
「は」
王の言葉を予期していた彼は、どうということもなく頭を下げたが、ジルとイシュタルは衝撃を受けた。
「罰って!? お師匠様は、何も悪いことしてないよ!」
「どういうことですの、異母兄上! 彼らを捕えられたのは、サマエルの功績ですのに!」

王の表情は苦々しげだった。
「考えてもみよ。この者は、陰謀を暴くためとは申せ、余……魔界の王と、兄、第一王子とを二人、手に掛けたのじゃぞ。
別な手段を用いることも、当然、出来たはずじゃ!」
「そんな、異母兄上!」
「叔母上、陛下の仰る通りですよ」
第二王子は、平静な態度で叔母を抑え、父王の前にひざまずいた。

「手にかけたって……どういうこと?」
ジルが訊く。サマエルの背中がびくりとしたが、振り向くことなく弟子に告げた。
「私は、陛下とタナトスを殺したのだ」
「──えっ!?」
ジルの栗色の眼が見開かれる。
「で、でも、二人とも、生きてるじゃない!」

「“黯黒の眸”が、生き返らせたのさ……そうするよう、頼んでおいたのだけれどね」
サマエルの声は沈んでいた。
「それだって、悪い人達を捕まえるために、仕方なくしたんでしょう、ね?
お師匠様!」
必死の面持ちでジルは彼の背中に訊く。

「……ああ、もちろん。
だが、私の独断でやったことだし、一歩間違えば、大変なことになっていた……。
だから、罰せられても仕方がないのだよ。
さ、陛下。ご処分を」
サマエルは、振り向くことなく答え、深く(こうべ)を垂れた。
輝かしい銀の髪が、繊細なレース編みのように床に広がる。

「うむ、よい覚悟じゃ。みずから、牢へ入ると申すのじゃな」
ベルゼブルは、満足げにうなずいた。
「ダメ、もう、離れ離れは嫌よ!」
ジルは涙声になり、守るように両手を広げて、サマエルの前に立った。

「お待ち下さい、異母兄上……いえ、陛下」
イシュタルが、うやうやしく呼びかけたのは、そのときだった。
「……何じゃ」
面倒くさそうに、ベルゼブルは、異母妹を横目で見た。
彼女は、そんな兄の眼を捉え、きっぱりと言った。
「サマエルをお許し下さるなら、わたくし、あなた様の妻になりますわ」

「イ、イシュタ……そ、そなた、今、何と……? 何と申した……?」
魔界王は、それまでの態度をかなぐり捨て、彼女に向き直った。
「サマエルを無罪放免して下さるなら、妻になりますと申し上げました」
イシュタルは毅然(きぜん)とした表情を崩さずに、言ってのけた。

「……じゃ、じゃが、そなた……前には……王妃は嫌じゃと……」
周章狼狽(しゅうしょうろうばい)しする異母兄に、彼女はうなずいてみせる。
「ええ、ですが、タナトスが、直に即位致しますもの、もう王妃にならずに済みますわ。
子の産めない女でもよければ、喜んで」
ベルゼブルは、思わず、妹の手を取る。
「そなた、やはり、それを気にして……」

紅い瞳と、金の粒を散らした藍色の瞳が見詰め合う。
ここに至るまでの長い年月。
二人の間に、どんな思いが交わされたものか、やがて、イシュタルは淋しげに微笑んだ。
「ええ。わたくし、あなた様の妻になるのが嫌と申したことは、一度もございませんでしょう?
……それとも、あんな連中におもちゃにされた女、ご不要とお考えになられるのでしたら、話は別ですけれど」
王妹は、謀反人達……というより、こんな状況になっても、彼女を見詰め続けているカルニヴェアンに、流し目を送った。

魔界王は、凄まじい勢いで彼らを睨んだが、それも一時で、すぐに頬を(ゆる)めた。
「……何を申す、そなたの方が(もてあそ)んだのであろう。
なれど、よくもまあ、誰も廃人にならずに済んだものよ」
一人うなずき、彼は兵士長に命じた。
「罪人どもを牢へ! 後に、余みずから尋問するゆえ、厳重に見張るのじゃ。
魔力封じを忘れるでないぞ」
「──は!」
兵士達は君主に従い、手荒に反逆者達を引っ立て始める。
「そら、早く歩け!」

「イシュタル……っ!」
急かされながらも、彼女から眼を離せずにいるカルニヴェアンのねちっこい視線を、柳に風と受け流し、王妹は軽く肩をすくめた。
「あら、狂わせてしまいましたら、反省もさせられませんでしょう?
彼らは、これから、扉が塗り込められた暗く狭い独房で、残りの人生を惨めに過ごすのです……日毎夜毎、わたくしの柔肌(やわはだ)を思い出しながら、ね。
……そんなことより、お答え下さいな。わたくしを、妻にして下さいますか……?」
イシュタルは(なまめ)かしい笑みを浮かべ、子爵に当てつけるように、ベルゼブルにしなだれかかる。
「こ、これ、皆の前ぞ……」
魔界王は額の汗をぬぐった。

「そうだわ、いっそ今、ここで、二人に、祝言(しゅうげん)(結婚式)を挙げさせてやってはいかが?
──ストーラ!」
言うが早いか、イシュタルは、サマエルの服を、婚礼用の衣装と取り替えた。
「──な、!?」
魔界王が眼を剥く。
「……叔母上!?」
サマエルも面食らった。
「さ、サマエル、ジルのドレスも替えてあげなさい」

「ならぬ、ならぬ……」
言いかけた王は、異母妹の悲痛な眼差しにあって口ごもった。
「……もらって頂けないのですか? わたくしは、お払い箱だと仰いますの……?」
「だ、誰が左様なことを申した!
──ええい、分かったわ! サマエルは許してやるゆえ、我が妃になれ、イシュタル!」
ついに、ベルゼブルは折れたが、その顔はまんざらでもなさそうだった。
「ありがとうございます」
イシュタルは極上の笑みを浮かべ、彼の頬に口づけた。

それから、彼女はジルに近寄って行き、彼女の粗末な服を豪華なドレスへと変えた。
「せっかくの結婚式なのに、(あわただ)しくて悪いわね、ジル」
「で、でも……」
「ほら、素敵でしょ?」
大きな鏡を呼び出し、見せてやる。
「……え、ええと……」
少女は、自分の姿より、しきりに後ろを気にしていた。

「……どうしたの? このドレスじゃ駄目かしら?」
少女は首を振った。
「ううん、そうじゃないの、とても素敵よ。でも、お師匠様が……」
「え?」
見ると、鏡に映る第二王子は、まだ(ひざまず)いた格好のままでいた。
イシュタルは、振り返り、甥に尋ねた。
「どうしたの、サマエル。具合でも悪いの?」

問われた彼に出来たのは、かすかに否定の身振りをすることだけだった。
ジルの眉が曇る。大きく息を吸って、彼女は振り向いた。
「お師匠様、正直に言って。あたしをお嫁さんにするのは嫌?」
その切羽詰った響きに、サマエルは弾かれたように顔を上げた。

「まさか、嫌なはずがないよ。ただ……」
「……ただ、何?」
「心からの、望みが……叶ったことなど……今まで、一度もない、から……どうしていいのか……」
声が震える。サマエルは心底途方に暮れて、弟子を見上げていた。
「え?」
「ジル……今日のキミは、とても素敵だ……ああ、きっと……これも夢、なのだな……」
彼は、首を左右に振り、眼を閉じた。