~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

9.緋色の花嫁(2)

「ま、待て、待ってくれ!」
その時、抵抗虚しく、兵士に取り押さえられていたアラストルが、悲痛な声を上げた。
「……リ、リリス、お前、俺を愛していると言ったのは嘘か、本当は、そいつのことが好きだったのか!?」
男爵は、髪、服と共に呼吸もひどく乱れ、深緑色をした瞳は、幻覚から醒めた直後以上の動揺を見せている。
リリスは、彼を一瞥(いちべつ)したが、その目つきは、雄弁に、彼女の心境を物語っていた。
「……くっ、リリス……」
アラストルは、ぎりっと歯を噛みしめた。

そんな彼に声をかけることなく、魔族の少女は、視線を宝石の化身に戻した。
「ね、ダイアデム、聞いて……。
彼……アラストルは、ね……ベルフェ、ゴールの……実の、息子、なのよ……」
「──へ!? 奴の息子!?」
ダイアデムはすぐに振り向き、ベルフェゴールとアラストルを交互に見比べながら、くんくんと空気の匂いを嗅いだ。
紅い眼の奥にある黄金の炎が、吟味をするように揺れる。

「……ち、違う、我には、息子などおらぬ、覚えもない……」
こちらも、兵士に捕らえられていた大公は、太い首を左右に振り、へどもどと弁解した。
「ふん、下司(げす)が」
タナトスは、伯父に冷たい視線を注いだ。
「……さもありなん、としか申せぬわ」
ベルゼブルも、取り立てて驚いてはいなかった。
「……そ、そう言えば、異母兄上のお若い頃にそっくりだわ……」
イシュタルは口を押さえた。この場合の異母兄とは、無論、ベルゼブルのことである。

たしかに、アラストルの(かも)し出す雰囲気は庶民というより貴族のそれに近く、また、髪や眼の色、角がないなどの違いを割り引いても、筋肉質で背も高いなど、その容貌や体格は、魔界王の息子達に似通ったところがあった。

縛り上げられていたカルニヴェアンとアリオーシュも、驚きに打たれて顔を見合わせていた。
陰謀家達がつい心を許し、男爵の位を与えるにおいてさほど違和感を持たなかったのも、田舎から出て来たばかりという割には、彼が(あか)抜けて見えたからかもしれない。
貴族の醜聞(しゅうぶん)(スキャンダル)には慣れているはずの兵士達も、立て続いての事にあきれ返った表情で、ベルフェゴールを見ている。

リリスは、ダイアデムの腕の中、苦しげに話し続けた。
「か、彼の……母君は……あたしの、母様より、前に……魔界の、奥地から……さらわれて来て……この、ブタ男に……売られたんだって……。
こいつは、奴隷の子など、外聞が悪い、って……お腹の、赤ちゃんごと、殺そうとした……。
母君は……必死に、逃げて……彼を、産んだの……」

「──だ、黙れ、黙れ、リリス! 左様な虚言(きょげん)、侮辱もはなはだしいわ!
大体、いずこに証拠がある!」
人々の軽蔑の眼差しに耐え切れず、ついにベルフェゴールは吼えた。
刹那、宝石の化身の眼が、金色に燃え上がった。
「ちょっと待ってろよ、リリス」
彼は、少女をそっと寝かすと、一飛びで魔界大公の前に立った。
「ベルフェゴール、てめー! 自分が何やったか分かってんのか、このうすらバカ!」
言うなり彼は、音高くベルフェゴールの頬を張った。

「な、何をする!」
頬を押さえる大公を、ダイアデムは睨みつけた。
「何をする、じゃねーよ! オレには分かるんだ、てめーが、何と言い訳しようとな!
こいつは、間違いなくお前の、そして、魔界王家の血を引いてる、れっきとした王子だ!」
そして、宝石の化身は、男爵にも指を突きつけた。
「けど、おめーもおめーだ! どうして、正面切ってオレか、ベルゼブルのとこに来なかった!?
そしたら、ちゃんと認めてやったのに!」

「──う、嘘をつけ!」
アラストルは激しく首を振り、反論した。
「本人がそう名乗っただけで、どこの馬の骨とも分からん奴を、証拠もなしにあっさり王子と認める国など、どこにある!」
「うるせー、オレを、そんじょそこらのアホウどもと一緒にすんな!
大体、このバカに、隠し子の一人や二人いたって、何の不思議もねーんだからよ!
チャンスを、自分で棒に振ったんだぞ!
反逆者は、死刑か、一生牢屋暮らしか、どっちかしかねーってのに!」
紅い眼の奥の炎を激烈に燃え上がらせ、ダイアデムも負けじと言い返した。

(……なるほど、従兄に当たるわけか、アラストルは。
道理で、よく似た考えをする敵だと思った……。
私が、悪夢を見せられていたとき……自分だったら……こんな場合、陛下にも同様の悪夢を見せ、親子で憎み合わせるように仕向けるのだが。
……そう思っていたら、私の考え通りにして来たから、少々驚いたものだった……。
もしも、一緒に育っていたなら、彼とは気が合ったかも知れないな……)
そう考えたサマエルは、悲しげに口を挟んだ。

「いいや、アラストル。
“焔の眸”は、いつ、いかなるときでも、王家の血筋を嗅ぎ分けることが出来る。
そして、彼に認められることは、魔界王に認められたに等しいのだ。
実は、リリス同様、キミのような事例は珍しくない。
……キミが、ずっと汎魔殿で暮らしていたなら、知り得たことだったろうが」
「──嘘だ、匂いで嗅ぎ分けるなんて、そんなこと信じられるか!」
アラストルは、緑の眼に強い光を宿し、(かたく)なに言い張った。

「我が甥、アラストルよ。
ルキフェルの申す通りじゃ、この()に及んで、偽りなど申して何になろう……」
ベルゼブルは、哀れみを込めた眼差しで、男爵を見つめた。
「………!」
アラストルは、魔界の君主に、“我が甥”と呼びかけられて言葉を失い、ただ相手を凝視した。

幼い頃から、ベルフェゴールを母親の仇と憎んでいた彼は、復讐を果たすべく、まずは、リリスに近づいた。
しかし、その生い立ち……大公の血を継いでいないことに加え、自分と似た境遇を告白されて同情するうち、いつしか愛してしまい、騙されているとも知らずに、彼女の謀略に加担することにした。

リリスとの関係は隠して、陰謀家達に手を貸してやり、計画が成就(じょうじゅ)して有頂天になっているところへ、彼女が王妃になり、実権を握ると宣言して、その鼻を明かしてやる。
……それは、たしかに、痛快に思えた。
そこで彼は、とりあえずベルフェゴールの殺害を思い止まり、代わりに、第二王子と魔界王という父子を殺し合わせることで、溜飲(りゅういん)を下げていたのだったが。

あまりの衝撃に、呪縛されたように動けずにいる彼に、リリスは告げた。
「ご免なさい……アラストル。嘘ついてて……。
でも……でも、これだけは、信じてちょうだい……。
これが、うまくいったら……あたし……あんたの、子供を産んで……その子を……サマエルの子、って、ことにして……王にする、つもりでいたの……。
ほ、本当よ……同じ男を……母様の仇とした、仲だものね……。
それ、だけは、信じて……」

アラストルは、がくりと頭を垂れたが、一呼吸置いて激しく暴れ出した。
「くそぉ、そんな話は嘘っぱちだ、みんな、みんな、嘘だ!」
「こ、こら、大人しくしろ!」
「放せ!」
男爵は、不意を突かれた兵士の腕をもぎ放し、呪文を唱えた。
「──エンサングイン!」
直後、ぎらりと光る短剣が、彼の手の中に現れる。
「何をしておる、()く取り押さえよ!」
魔界王が叫ぶが、遅かった。
アラストルは、その鋭い切っ先を、自分の胸に突き立てた。

「あ……アラストル……!?」
リリスは眼を見張った。
「──がはっ」
深い緑の髪と眼をした青年は、血の(かたまり)を吐き出すと、(あけ)に染まった手を、白い髪の少女に差し伸べた。
「リ、リ、ス……先、に……()く……」
そして、冷たい大理石の床に倒れ伏した。玉座の間に、真紅の血糊が広がってゆく。

(いさぎよ)いな、どこかのたわけ者と違って」
タナトスは、ベルフェゴールをじろりと見た。
大公は、放心したように動かず、今まで存在さえ知らなかった息子の死体に眼を据えていた。
イシュタルは、アラストルに近寄ると、かがみ込み、そっと眼を閉じてやる。
「……可哀想に。お前も甥っ子だったなんてね。知っていれば、もっと……」
彼女は、涙をこらえながらレースのハンカチを取り出し、青年の顔を覆った。

「……頭のいい青年だったよ、本当に。
私と肩を並べるくらいの参謀になれたかも知れない……それどころか、魔界王の候補にさえなれたかも知れないね……哀れな従兄」
サマエルも、彼の死を(いた)んだ。

「……あんたを、利用した、あたしが……いけなかったのよ……何もかも……。
ご免ね、アラストル……」
リリスがつぶやいた。
「いいや、悪いのはお前ではない、あのブタだ。
俺が、代わりに屠殺(とさつ)してやる、安心して冥界へ行け、リリス」
タナトスが、何の感慨もなく言ってのける。
ベルフェゴールの顔が、紙のように白くなり、脂汗を滴らせた。

“そう……悪いのは、キミではない、私だよ”
サマエルは、リリスに念話を送った。
“……どういうこと?”
“キミ達の陰謀は、もっと早い段階で、阻止しようと思えば出来た。
……陰謀の真の首謀者は、だから、私さ。キミが悪いわけではない”
“えっ……?”
淡々としているその声に、彼女は面食らった。

“私は、キミ達の計画をさらに利用して、自分を始末しようと思ったのさ……失敗したけれど。
困ったことに、生きる意義が見つからなくてね……”
肩をすくめる魔族の第二王子に、リリスは、とがめるような眼差しを向けた。
“何、言ってるのよ!
散々迷惑かけられたことも忘れて、こんなあたしやアラストルに心から同情して、涙目になってるあの娘をどうする気!?”

サマエルは、はっとして後方を振り返った。
彼女の指摘通り、栗毛の少女、ジルは、大きな眼を今にもこぼれ落ちそうな涙で一杯にして、ぎゅっと両手を握り締めていた。
それを眼にした彼は、愛しい者を抱きしめて自分のものにしたいという強い欲求と、自分が彼女にとって真に良き夫たり得るのだろうか、という激しい葛藤(かっとう)で、心を真っ二つに引き裂かれるような思いを味わった。

“……いいこと? サマエル!
少しでも、あたし達に対して悪かったと思う気持ちがあるんなら、その子を幸せにしてやんなさいよ!
あたしらに同情する暇があるんなら、彼女のことを考えるのね!
じゃないと、化けて出てやるから!”
弱っている肉体とは裏腹に、魔族の少女の思念は好戦的で、噛みつくようだった。
“……ああ、リリス、分かったよ”
彼女の剣幕に幾分たじろぎ、彼は答えた。

「さ、もう最期が近い。別れのあいさつをしてあげなさい、ダイアデム」
それから、声に出して、サマエルは宝石の化身を促した。
「……あ、そうだった、っけ……」
ダイアデムは、再び、リリスの上半身を起こしてやり、顔を寄せる。
少女の呼吸は、ますます苦しげになり、顔も蒼白となって、死期が迫っていた。
緋色に紛れて見えなかったが、ドレスに血がじっとりと染み込んでいて、支える少年の手を冷たく濡らした。

「──ね、ダイ、アデム……」
唇が触れる寸前、リリスが口を開いた。
「な、何だよ?」
ダイアデムは、ぎくりと彼女を見た。
「もし……もしもよ、あたしが……あのまんま、頑張ってたら、あたしを……女王に、してくれた?」

「……へ?」
紅毛の少年は、一瞬絶句し、それから、切なげな少女の視線を捉えて、慌ててうなずいた。
「あ、ああ……も、もちろん、さ」「う、れしい……それ、から……ね」

「……ん?」
リリスは、彼にだけ聞こえるように、何事かささやいた。
「これ、が、約束の印……。同情で……キスされるなんて、真っ平よ」
そう言うと、残った力を振り絞り、みずから、最愛の人の唇に唇を重ねる。
直後、彼女は絶命した。

「……ごめんな、リリス。オレの輝きに惑わされたのは、お前が初めてじゃないんだ……」
宝石の化身は、優しく少女の涙をぬぐってやる。
「お前が流した血はすべて受け取った。オレん中で静かに眠れよ、“黒き月の貴婦人”……」
血の気の失せた唇に、ダイアデムは、今度は自分で唇を押し当てた。
“黒き月の貴婦人”とは、リリスの称号である。