~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

9.緋色の花嫁(1)

「駄目よ、お師匠様! お父さんとお兄さんが分からないの!?」
その時だった。
突如、澄んだ鐘の音のような声が響き渡って、少女が一人、広間の中央に現れたのは。
リリスは思わずぎくりとし、蛇と化したサマエルも、それに(なら)って、動きを止めた。

「ジ……ジル!? どうやって……」
タナトスは眼を見開いた。
このとき、魔界と人界との位相はかなり離れていて、移動は不可能なはずだった。
「……ふう。どうやら、間に合ったようね」
少女に次いで、もう一人、女性が姿を現し、額の汗をぬぐった。

「おう、イシュタル。よくぞまあ、娘を連れて参れたものよ……」
イシュタルは、驚くベルゼブルに微笑みかけた。
「ええ、“眸”達の手を貸りて、何とか呼び寄せることが出来ましたの。
それよりも、異母兄上、彼女なら、サマエルを目覚めさせることが出来ますわ」

「何と、それは、まことか!」
魔界王が声を上げると、リリスは、ぎゅっと書物を握り直した。
「何言ってるのよ、オバサン! この本は、ただの呪文書じゃないわ、“禁呪の書”よ! 
そんなこと、出来るわけないじゃない!」

「出来るわ。この子は、結界の中で何百年も眠っていたサマエルを、無意識に放った“声”で目覚めさせ、呼び寄せたのよ。どんな呪縛だって、解けないはずはないわ。
ね、ジル」
「はい、イシュタルさん」
魔界の貴婦人と人族の少女は、力強くうなずき合った。

「──お師匠様ー!」
栗毛のお下げをなびかせ、ジルは白蛇に走り寄っていく。
タナトスは青ざめた。
「だ、駄目だ、ジル、近寄るなっ!
そいつは、もう、サマエルではないのだぞ!」
「大丈夫よ、タナトス。どんな姿になっても、お師匠様はお師匠様だもん!」
振り返り微笑む少女の背後に、小山のような巨体が迫る。

「危ない! 逃げろーっ!」
「え?」
ジルがけげんそうな顔をした瞬間、彼女の胴体に大蛇は巻き付き、高々と持ち上げた。
「──やめろ──っ!!」
タナトスは、彼女を救うべく、ひしゃげた翼で必死に飛び上がった。
だが、ムチのように勢いよく振り回される蛇の尾が、彼を近寄らせない。

「サタナエル、余が援護を!」
ベルゼブルも、息子に手を貸そうとする。
「お待ちなさいな、二人とも。
ご覧なさい、サマエルは、彼女を守ろうとしているだけよ」
「何……」
「何じゃと」
イシュタルの言う通りだった。
今まで、理性のかけらも見当たらなかった紅い眼に、優しい光が満ち、二股に分かれた紫色の舌で、白蛇は少女の頬をなめている。

「ほ~らね、大丈夫でしょ、タナトス」
「ジル……」
無邪気に手を振る少女の姿に、気が抜けたタナトスは、墜落に近い状態で地上に下りた。
「おう、サタナエル!」
「しっかりして!」
ベルゼブルとイシュタルが急いで駆け寄り、助け起こす。

「な、何やってるの、サマエル!
あんたの主人は、このあたしよ、そんな娘、一飲みにしなっ!」
魔族の少女は、黒い革表紙の本を思い切り高く差し上げた。
邪悪な書物が、禍々しい光を発する。
体に埋め込まれた五個の紅い貴石が輝き、白い蛇は苦しげに身を震わせた。
「どうしたの、お師匠様、しっかりして!」
ジルは、蛇の体に取りすがる。

「──ほら、早くやっちゃいな!
あんたはあたしのもの、あたしの命令を聞くしかないんだよ!」
リリスは声を張り上げる。
それに合わせて、貴石と本の輝きも増し、サマエルは一層体を痙攣(けいれん)させたものの、苦痛には屈しなかった。
愛する少女をそっと降ろすと、声なき絶叫をとどろかせて、魔族の少女に襲いかかる。

「バカ! 何で、あたしにかかって来るのよっ!」
リリスは逃げようとしたが、時すでに遅し。
「──ぎゃああああ!」
白い巨体は、その大きさに似合わぬ敏捷(びんしょう)さでリリスにのしかかり、華奢(きゃしゃ)な体を押しつぶした。

その手から飛んだ血まみれの“禁呪の書”を、イシュタルは顔をしかめてつまみ上げた。
「こんな危ないもの、魔界……いいえ、どの世界にも必要ないわ。
──イグニス!」
闇色の書物が炎に包まれる。
同時に、白蛇の体から、紅い石が次々飛び出して、黒煙を上げながら消滅していく。
すべてが燃え尽きると、大蛇は、空気の抜けた風船のようにしぼんでいき、人型となった。

「お師匠様! よかった!」
歓喜の表情で飛びついて来る少女から、サマエルは、さっと身を退いた。
「なぜ来たのだ、ジル」
彼は肩を落とし、その声は、疲れ切ったようにかすれていた。
「お師匠様?」
「……キミにだけは……あんな姿を見られたくなかったのに……」

実は、魔界に戻って早々、サマエルは、陰謀の全容をつかんでいた。
だが、反逆者達に見せられた悪夢により、死を望む彼の絶望感は一気に増大し、敵に操られて自我を失ったあげく、叔母に殺される、という計画を立ててしまう。
カオスの貴公子となった彼の肉体は、ただでさえ強靭(きょうじん)な魔族の中でも飛び抜けて屈強となり、治癒力も増して、自殺も容易ではなかったのだ。

ジルに関しては、もう立派に独り立ち出来るのだし、わざわざこんな自分と一緒になる必要はない……そう考えていた。
そうして、彼は、要石の間で忘れ去られていた“黯黒の眸”に魔力を分け、味方に引き入れた後は、敵を欺くためにも、自分の記憶に一時的に蓋をした……ジルが現れなければ、うまくいくはずだった……すべてが。

しかし、師匠のそんな暗い思いを知らない少女は、動ずる気配もなかった。
「どうして? 魔族は二つ姿を持ってて、それが普通なんでしょ?」
無邪気なその問いかけに、サマエルはゆっくりと振り向いた。
「……ジル、キミは……本心から、そう思っているの、か?
さっきの……姿を見ても?」

「当たり前でしょ。だって、どんなカッコしてたって、中身はお師匠様に変わりないじゃない。
でも、何で、そんなこと訊くの?」
「………」
栗色の眼を見開いて、心底、不思議そうな表情をしている少女にかける言葉を、魔族の王子は見つけられなかった。

「……そうよ、サマ、エル、あた、しには……分かる、わ……そのコの、気持ち……が。
そんなこと、くらい、じゃ、恋……は、冷め、ないの、よ……」
大蛇に押しつぶされて、ぐったりとしていたリリスの口から、言葉が漏れた。

持ち前の回復力で、みずからの傷を癒したタナトスは、ずかずかとリリスに寄っていった。
「さすがにしぶといな、リリス、まだ、くたばっていなかったか。
だが、分からん。サマエルが好きなら、人界へついて行けばよかったろうが。
なぜ、それほど、王妃の座に執着する?」
「………」
少女は顔をそむけ、答えない。

「リリス、“彼”を呼ぼうか?」
その時、サマエルが声をかけ、白い髪の少女は、はっとして彼を見上げた。
「え……?」
「彼に、最期のお別れを言いたくはないかな」
「サ、サマエル……知ってた、の……? いつ、から……」
リリスの藍色の眼が、みるみる涙で濡れてゆく。

第二王子は、首を横に振った。
銀色の髪が、さらりと顔にかかり、彼はそれをかき上げた。
「いや、知っていたわけではないよ……。
でも、キミが王位に執着する理由は、それしか考えられないから、ね」
「……そう。なら、お願い……」
リリスは、哀願の眼差しでサマエルを見た。

「何だ、まだ他に謀反人がいるのか?」
不審そうに、タナトスが口を挟む。
「いや、彼は陰謀には荷担していない、むしろ被害者だよ。会えば分かるさ」
サマエルはそう答え、“彼”に念話を送った。

次の瞬間、広間の中心部に、人影が二つ、現れた。
「もう済んだんだろ、何だよ、サマエル」
「何ゆえ、我をも呼び出したのか、“カオスの貴公子”よ」
それは、紅く輝く“焔の眸(ダイアデム)”と、暗く沈んだ“黯黒の眸(テネブレ)”……宝石の化身達だった。

「む? こいつらが、リリスと、どういう関係があるのだ」
タナトスは首をかしげる。
「相変わらず鈍いな、タナトス。
リリスの真の思い人とは、彼……すなわち、“焔の眸(ダイアデム)”なのだよ」
サマエルは、まっすぐに、紅毛の少年を指差した。

「何ぃ!?」
「えええ!? オレぇ!?」
広間の全員が驚いたのはもちろんだが、中でもダイアデム本人が、最も驚きの度合いが強かった。

「“焔の眸”は、王または女王の、名目上とは言え配偶者……彼と結ばれたいと願うなら、女王になるか、さもなくば、王妃となるより外はない。
……そう考えたのだろう? リリス」
サマエルは淡々と訊いた。
「え……え」
かすかに、傷だらけの少女はうなずく。
呼吸は浅く速く、血の気が失せた唇の端から、鮮血が滴った。

「は、初めて、彼を見たのは……ほんの、小さな頃だった……けど、一目で恋に落ちたの……。
たまらなく、好きになって……寝ても覚めても、彼のことが、頭を離れなくなって……どうしようも、なかった……。
何も、知らなかった頃は、それでも、幸せだった、わ……。
女王に、なれさえすれば、ずっと、一緒にいられる……そう思って、精一杯、努力して……。
でも、駄目……あたしは……王家の血は、引いてないんだもの……」

彼女は、うるんだ目線を紅毛の少年に向けた。
「ねぇ、ダイアデム……あなた、分かってたから、あたしに、冷たく、したんでしょ……。
王族でもなく……しかも、色んな男、渡り歩いて……。
軽蔑、されても、仕方ない、わよね……」

ダイアデムは真面目な顔で、かぶりを振った。
「別に、お前は嫌いじゃねーぜ、リリス。
オレ、寄って来る奴は、男でも女でも突き放せって命令されてんだ、もめごとが起きねーよーにってさ。
軽蔑もしてねーよ。男いっぱい知ってるのも、べっぴんのサキュバスなんだし、もてて当然だろ。
オレが、とやかく言えるこっちゃねーもんな」

「ホ、ント……に……?」
「ああ」
すがるように自分を見上げる少女に、ダイアデムは、こっくりとうなずいてみせる。
「あ、それと、もう一つ、話しといた方がいいな」
「……何?」

「お前の血筋のことさ。
たしかに、お前はベルフェゴールの血は引いちゃいねー、でもな……お前の母親は、王族の私生児なんだ。
本人は、知らなかったみてーだけど」
「え……?」
意外な話に、リリスは眼を丸くした。

「つまり、お前は、ちゃんと王家の血を引いてるってことさ。
オレくらい長生きしてりゃ、嫌でも情報通になるんでな。
──ま、匂いでもすぐに分かるけど。訊いてくれりゃ、いつでも教えてやったのによ」
「う、嘘……」
少女の眼が、どうしようもなくうるんでいく。

紅毛の少年は首を振った。
「嘘じゃねーって。リリス、お前は、間違いなく王家の血筋だ。
オレの言うこと、信じられねーのか?」
「──じゃ、じゃあ、あたしのしたことは……!」
リリスは唇を震わせた。
ダイアデムは、頭をぽりぽりかいた。
「無駄……とまではいかねーけど、あんま、有意義でもなかったみてーだなあ」

「──あああ……!」
突如、リリスは声を上げて泣き出した。
藍色の眼から涙が次々こぼれ落ち、頬を伝って床に小さな水溜りを作ってゆく。
「……あ、お、おい、泣くなって。ど、どうしよう……!」
ダイアデムはおろおろと周囲を見回し、第二王子に眼を止めた。
「おい、サマエル、どうすりゃ泣きやむんだ? オレ、女に泣かれんの、苦手でよ……」
「キスしておやり」
第二王子の答えは明快だった。

「えっ、で、でも……」
「陛下、許可して下さいますね」
サマエルが念を押すと、魔界王は肯定の身振りをした。
「うむ、構わぬぞ。ダイアデム、別れの口づけをしてやるがよい」
「え……う、うん……」
まだ少し躊躇(ちゅうちょ)している少年に代わって、サマエルが少女に話しかける。
「さあ、リリス、泣くのはおやめ。ダイアデムがキスしてくれるよ」

「あ……」
リリスはしゃくりあげながらも泣き止み、懸命に起き上がろうとしたが、身体の自由は利かず、かすかにもがくことが出来ただけだった。
「無理すんなよ」
そんな少女を優しく助け起こし、ダイアデムはおずおずと顔を近づける。