8.黒き月の見る夢(5)
「さあ来い、サマエル、俺が相手だ!」
名を呼ばれても、近づいて来る兄を見ても、第二王子の能面のような顔に、変化はまるでなかったが、対象が一人に絞られたことで、攻撃はさらに厳しくなった。
「──ソアニス!」
サマエルの魔法で、床が地響きを立て、深くえぐられる。
それを身軽によけたタナトスも、負けじと呪文を唱えた。
「──パーディション!」
「──アナイアレイト!」
兄王子の紅い魔力と、青白い弟王子の魔力がぶつかり合い、ねじれあって壁面に激突する。
「うわあっ!?」
「危ない、お逃げ下さい、陛下!」
さしも強固さを誇る汎魔殿の壁も、王子達の強大な力の前に屈して、がらがらと崩れ、大小様々な破片が、玉座の間に居残っていた人々の頭上に降り注いだ。
「皆の者、近くにおっては危険じゃ、退け!」
ベルゼブルは命じ、反逆者達を捕らえた兵士達共々、広間の端に避難した。
こうなっては、さすがの魔界王も仕方なく、ただ息子達の闘いを見守るしかなかった。
“陛下、いかがなさいました!? 加勢に参りましょうか!?”
“よい、今、そなたらが参っても足手まといじゃ。扉に留まり、見張っておれ。
用あらば、後で呼ぶ”
“御意”
命令に従い、兵士達は直立不動の体勢を取る。
汎魔殿では、その日、外出禁止令が出ていた。
玉座の間へ続く回廊は閉鎖され、人々は自室にこもり、不安げな視線を交わし合っていた。
突如、中止となった戴冠式、物々しい警戒、さらには、内から響く音や振動もあって、玉座の間近くに住まいする者は、ドアを細めに開けたり、大胆な者は、部屋から忍び出て角からそっと兵士達の様子を
「──イクスクレイション!」
「──サンベニートゥ!」
その間にも、王子達は双方譲らず、矢継ぎ早に呪文が詠唱され、二色の力が正面からぶち当たるたびに、すさまじい衝撃波が走り、それは玉座の間だけに留まらず、汎魔殿全体へ
防御はまったく行わず、攻撃魔法のみで彼らは闘う。
多少傷ついたとしても、再生能力に優れた魔族のこと、体は勝利した後に回復すればよいのだ。
第一王子は、装飾とはいえ、肩当てなど身体を守る部位もある厚手の衣装を身に着けていたため、さほどでもなかったが、第二王子の服は薄手ということもあってすぐにあちこちが破れ出し、傷口から飛び散る血が、純白の衣装に点々と紅い染みをつけていった。
「──デューエンデイ!」
「──パーニシャス!」
死力を尽くして闘う二人。サマエルは、操られているため容赦なく。
初めこそ、力試しのつもりだったタナトスの方は、今は、もう完全に本気となっていた。
力はまさに五分と五分、
一時間ほど経つと、魔界の貴族である彼らも、さすがに眼に見えて弱り始め、立っていることさえ難しくなって来た。
「まあったく、何をやってるの、サマエル! 本気を出しなさいよ!」
はっとしてタナトスは彼女を振り返った。
「た、たわけっ! こいつが“紅龍”になったら、世界の破滅なのだぞっ!」
その顔は心なしか、青ざめている。
白い髪の少女は、平然と言い返した。
「心配いらないわよ、タナトス。もうすぐ王妃になれるってときに、死ぬ気なんてさらさらないわ。
さ、サマエル、第二形態になるのよ!」
白い髪の少女は、紅い扇をさっと振った。
「かしこまりました──アンピスバイナ!」
“禁呪の書”が輝くと共に、胸に手を当て礼をする第二王子の姿はみるみる崩れ、別な形をなしてゆく。
それを見ながら、リリスは、第一王子に
「ねぇ、タナトス。……うふふ、あたし、知ってんのよ、あんたのヒ・ミ・ツ!」
「……秘密、だと? 何だ、それは……」
タナトスは、肩で息をし、眉間に深くしわを刻んだ。
少女は、真紅に塗った唇の端を持ち曲げた。
「あんたさ、魔族の癖に、“真の姿”になれないんですってぇ?
母親の血を濃く受け継いだのは、本当は、あんたの方なんじゃないのかしらぁ?
でも、第二段階に至れもしない男が、魔界の王様になろうだなんて、とんだお笑い草だわよねぇ!」
「くそっ、母上を悪く言うと許さんぞ!」
叫ぶ王子を歯牙にもかけず、リリスは後ろを振り仰いだ。
「それに対して、彼はどう?
ご覧なさい、比類なき銀の翼と真珠色の角、透き通るウロコ。
瞳ときたら、まるで
この、
あんたみたいなコウモリ男、洞窟の中で飛び回ってるがいいわ!」
「コ、コウモリ男だとぉ!? こ、この──」
タナトスが真っ赤になって言い返そうとしたとき、
「うわっ!」
辛うじてよけた兄王子の眼に映ったのは、巨大な鎌首をもたげ、妖しく輝く紅い眼で自分を睨めつけている、神々しいまでに白い大蛇だった。
背中には、小さな銀色のコウモリ状の翼が生えている。
「サ、サマエル……それが、貴様の……真の姿か……!」
タナトスは我知らず、
魔族は通常、二万歳前後に成人し、第二の姿を持つ。
サマエルは純粋な魔族ではないためだろう、多少、時期は遅延したものの、“紅龍の試練”の際に
とはいえ、この姿を、実際目にするのは、父王ベルゼブルでさえ初めてだったのだが。
「……蛇、か。龍ではなく……これもまた、出来損ないじゃな」
魔界王は、冷たく言い捨てた。
対するタナトスは、今まで変化する必要性を感じておらず、従って、変身する努力もしていなかった。
今のままでも、十分強いと固く信じていたし、実際、それまでに限って言えば、魔界で彼に
「……ふん、“紅龍”でないのなら、大して変わりあるまい!」
彼は、湧き上がって来る、うらやましい思いを振り切るように叫び、再び弟王子に向かっていく。
「──フェイタル・シアーズ!」
「何っ!?」
だが、次の瞬間、彼は自分の眼を疑った。
確かに命中したはずなのに、サマエルには何の効力も及ぼさなかったのだ。
白蛇は、ぶるんと頭を一振りすると鎌首をもたげ、お返しとばかりに魔法を打って来る。
蛇と化した弟は口が利けないようで、無言のまま。
「──来る!」
それでも、空気が変わるのがわかり、とっさに、タナトスは受け流そうと身構えたものの、うまくいかなかった。
先ほどまでとは、威力が段違いだった。
「ぐわあっ!」
第一王子は吹き飛ばされ、床に激しくたたきつけられた。
「くそ、──モルテス!」
息が止まりそうになりながら、転がりざまに彼は魔法を唱えた。
だが、これも、やはり蛇の硬いウロコに阻まれて終わりだった。
「それなら……──サクリファイス!
……くそ! これも駄目か……!
ならば」
幾度も魔法を跳ね返されたタナトスは、考えを改め、深呼吸をし、意識を集中させた。
「──漆黒の深き闇の中より生まれ出で、
汝の凍れる焔もて、我に
──マレフィック!」
しかし、どんな魔法を唱えても、それが最上級のものであっても、結果は同じだった。
魔界で最強かどうかはさておき、ついさっきまでは、互角に張り合っていた彼の力は、第二段階に至った弟の前には、まったく歯が立たなかった。
そして、間断なく、激烈な攻撃が第一王子に襲いかかって来る。
やむなく、彼は結界を張って防ごうとしたものの、防御呪文もまた、紙のように
「くそ、くそ、くそぉっ!」
たった数分のち、弟王子の魔法に散々傷つけられ、血ヘドを吐いて玉座の間に這いつくばる羽目に陥ったタナトスは、あまりの屈辱に、血まみれの拳を床にたたきつけていた。
「オーホホホ、魔界の第一王子様ともあろうお方が、無様ねー、いい気味。
散々、あたしを馬鹿にした報いよ」
半ば開いた扇を口に当てながら、そんな彼を見やるリリスの藍色の眼には、抑えようもない優越感があふれている。
「さあ、サマエル、とっとと、やってしまいなさい!
首を食いちぎってもいいわよ、いっぱい恨みがあるんでしょ?」
少女の手の中で、“書”が輝く。
命ぜられた白い蛇は、わすかに首を振って身構え、攻撃を再開しようとした。
「よさぬか、リリス。ルキフェルを解放せよ」
そのとき、ベルゼブルが彼女の前に立ちふさがった。
白い髪の少女は、冷ややかな目つきで王を見た。
「ああら、陛下。年寄りの冷や水ですわよ。それとも、そんなに寿命を縮めたいわけ?
大体、あんたが一番ムカつくのよ!」
彼女は、兵士達に取り押さえられていた、血のつながらないという父親に扇を投げつけた。
「さっさと、このブタ男を処刑するなり、汎魔殿の地下牢に放り込むなりしておけば、母様は……!」
「リリス、落ち着くがよい、いかなることじゃ、そなたが兄の血を引かぬとは……?」
魔界王の
「ああ、あたしの血筋のこと? 聞きたいんなら、教えてやるわよ!
まず、どうして母が、この忌々しい男の妻になったか、あんた、知ってて!?
さらわれて来たのよ、こいつに、ベルフェゴールに! それも、“結婚式の当日の朝”にね!」
リリスの声は、絶叫に近かった。
「な、何じゃと……!」
ベルゼブルは紅い眼を見開く。
「……突然、見も知らぬ男にさらわれて、最愛の人と結ばれると言う幸せの絶頂から、奈落の底へ突き落とされてしまった母の嘆き……何度も死を考えたそうよ。
でも、そのとき、すでにお腹にはあたしがいた。あたしのために母は生きた。
そして、こいつの子じゃないと知れたら、赤ん坊が殺されてしまうと恐れ、母は、ずっと秘密にしていたのよ、けれど……あの変態男は、とっくに気づいていて……」
そこまで言うと、少女は言葉を途切らせ、うつむいた。
「……母が亡くなってすぐの月のない晩、あたしは知った……。
あの……嵐のような晩に……あらゆることを、ね……。
あいつは、あたしに襲い掛かり、すべてを奪ったのよ!」
リリスは、藍色の眼を激しく燃え上がらせ、ベルフェゴールに指を突きつけた。
「あたしがすべてに絶望し、すさんだ生活を送ったのは、全部、こいつのせいよっ!」
彼女の白い髪もまた、怒りに逆立っている。
「リリス……何ということじゃ……」
魔界王は痛ましげな表情をし、それから、キッと兄を睨みつけた。
大公は口をパクパクさせ、顔は紅潮したがすぐに青くなり、大量の汗を滴らせた。
「この、最低の下郎めが、死ね!」
タナトスは吐き捨てた。
リリスは、さらに続けた。
「でも、ある時……女王になれなくても、お妃になら、なれるかも知れない、って思いついたの。
……けれど、そのときは、もう、遅かった。あたしの評判は、地に堕ちていたんだもの。
それでも……諦め切れなかった……諦めなくてよかった、今、望みは叶うのよ。
さあ、サマエル。ベルゼブルとタナトスを殺し、食らっておしまい!
そして、あたしをお妃に……魔界の王妃にしてちょうだい……!」
彼女は、黒い革表紙の本を、高く差し上げた。
「───!!」
またも、書物が禍々しく輝き、声なき
「やめよ、ルキフェル!」
「くそっ、目を覚ませっ!」
ベルゼブルとタナトスの絶叫が交錯した。