~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

8.黒き月の見る夢(4)

声の主達に気づいた人々はどよめき、次いで潮が引くように、うやうやしく道を開ける。
「お、おぬしら……な、何ゆえ生きておるのだっ!?」
ベルフェゴールは、がばっと起き上がった。巨体の小刻みな震えが止まらない。
肉に埋もれかかった眼に映っていたのは、着実な足取りで近づいて来る、死んだはずの二人……第一王子タナトスと、魔界王ベルゼブルの姿だった。

大公の目の前まで来ると、タナトスは腕を組み、さも軽蔑したように鼻を鳴らした。
「ふん、愚か者めが。サマエルは、“魔界の参謀”と(うた)われ、知略や策謀にかけては、魔界で右に出る者はないと言われた男だぞ。
ベルフェゴール、貴様ごときの悪巧みなど、とっくに見通していたわ!
ただ、貴様の足りん頭で、すべてを仕切ることは不可能、また、イシュタル叔母や、“焔の眸”の予知でも、陰で糸を引く者の存在が示唆(しさ)されていた。
反逆者をすべてあぶり出し、一網打尽(いちもうだじん)にするために、俺達は待機していたのだ」

「わ、我らを、泳がせていた……と申すのか……?」
アリオーシュのやせた顔にも、ありありと動揺が現れていた。
「──くそ!」
アラストルは、とっさにそばの女性を捕らえ、腰の短剣をすらりと抜いて、喉元に突きつけた。
「この女の命が惜しければ、俺達を通せ! さあ!」
「きゃっー!」
いきなり抱きすくめられた女性貴族は、なすすべもなく悲鳴を上げる。

「……どこまでも、卑劣な奴よ……!」
ベルゼブルの顔に、嫌悪が走る。
タナトスは、ちらりとアラストル達に視線を走らせ、呪文を唱えた。
「──ディスイリュージョン」
刹那、男爵の腕の中にいた女性が消えた。

「あ……な、っ……!?」
たった今まで、たしかにあった手ごたえが、いきなり消滅したことにアラストルは戸惑い、何もない空間と、自分の手とを見比べた。
「たわけめ。周りを見ろ」
第一王子は、横柄に手を振った。

女性同様、辺りに大勢いた人々もまた、煙のように消え失せていた。
壁面の飾りつけは変わらなかったものの、つい先ほどまで歓呼の声に包まれ、あれほどにぎやかだった玉座の間は、しんと静まり返り、シャンデリアの灯りさえ、少し暗くなったように感じられた。
代わって、彼らを取り囲んでいたのは、(いかめ)しい甲冑(かっちゅう)に身を包んだ兵士達だった。
「………!?」
カルニヴェアンは、馬鹿になったように、ぽかんと口を開けたまま、ただ周囲を見回すだけだった。
「ま、幻……!? まさか……あれ全部が……!?」
アリオーシュは、ごしごしと眼をこすった。
「き──貴様ら、俺達に幻覚を見せていたというのかっ!」
ようやく事態を悟ったアラストルは、短剣を強く握り締めた。

「……な、なれど、我はたしかに、サマエルが……おぬしらを殺すところをこの眼で見、完全に息が絶えておったのも、幾度も確認した。
その上で、我でなくば解けぬ不可視の結界で覆い、復活なぞ決して出来ぬよう、“焔の眸”も捕えておったのだ!
──あれが、幻などとは! あり得ぬ。
そうだ、今見ておるこれこそが、幻覚なのだ、こやつらが生きておろうはずはない……左様、幻覚に決まっておる……」
ベルフェゴールの声は段々低くなり、最後にはつぶやきも同然になった。
もはや、視点も定まってはいない。

タナトスは顔をしかめた。
「ちっ、何度言ったら分かるのだ、それともボケたか、貴様!
──見ろ! 俺はこの通り、生きているぞ!」
いつものように怒鳴りつけられて、ベルフェゴールは、まじまじと甥を見つめた。
「ま、まこと……本物のタナトス……なのか?」
「ちいっ、まだ言うか!」

「待つがよい、サタナエル、兄の心持ちも分からぬでもなかろう」
またも、伯父を怒鳴りつけようとする息子を、ベルゼブルはなだめた。
第一王子は少し気を静めた。
「ふん……まあ、たしかにな。
おい、ベルフェゴール、殺されるシーンが生々しく見えたのも当然だぞ、あれは現実なのだからな。
サマエルは真実、俺達を刺した。俺も親父も、一旦は完全に死んだのだ」

「な──何ぃ!? 幻覚ではなく、本当に殺しただと!?」
王兄の目玉は、飛び出しそうになっていた。
「そうとも。雑魚(ざこ)どもならいざ知らず、貴様とて夢魔の大公、並みの幻覚や下手な芝居では、すぐに見破られる。
ならば、いっそのこと、本当にぶち殺してしまえばいい、そうヤツは考えたわけだ。
日頃の俺達に対する恨みも晴らせて、一石二鳥だとでも思ったのだろうさ!
まったく、忌々しい!」
タナトスは眉間にしわを寄せ、吐き捨てた。

「さ、されど……いつから……」
ベルフェゴールは、口の中でもごもごと言った。
第一王子は肩をすくめた。
「貴様らに幻覚を見せたのは、今日だけだ。
昨夜遅くに俺達は蘇生され、そこで初めて、サマエルの計画を聞かされたのだからな……」

その時、アラストルが、二人の話に割り込んで来た。
「待て、教えろ、一体どうやって、貴様らは蘇生出来たのだ!
ベルフェゴールの言う通り、二重三重の防護策を講じておいたのだぞ、俺の打つ手に、抜かりがあろうはずはない!」

「あっはっは!」
いきなり、タナトスは笑い出した。
「貴様らごとき単純頭には、逆立ちしたところで、考えもつかんだろうさ!」
さっきまでの不機嫌さはどこへやら、今の彼は、愉快でたまらないという風だった。
「貴様、(なぶ)るか!」
カッとして、アラストルが叫ぶ。

タナトスは、依然として笑いを唇に刻んだまま、答えた。
「まあ落ち着け、今、教えてやる。
俺達を蘇生させたのは、“黯黒の眸”だ。
ヤツも、“死人(しびと)返し”が使えるのを失念していたな、貴様ら」
「──な、何っ!」
男爵だけでなく、大公も顔色を変えた。
「くっ、あの……ろくでもない石炭めが、肝心なところで裏切りおったのかっ!」

第一王子は、我が事のように、自慢げな表情をした。
「ふふん、サマエルの読み通りだったな。
ジルに相殺(そうさい)され、魔力を失った“黯黒の眸”……元々は、貴様らに同調していただけに、存在を忘れられた後には、完全な盲点となる……そう考えたサマエルは、ヤツにだけ、計画を打ち明けたのだ。
へそ曲がりの“黯黒の眸”だが、特別扱いに自尊心をくすぐられたのだろう、荷担を決めたわけだ。昨夜も、上機嫌だったぞ」

その間、ベルフェゴールは唇を引き結び、窮地からの脱出法を懸命に模索していた。
(く、くそ、くそぉ……ここで捕まれば、処刑か、よくて死ぬまでの投獄……いずれにせよ、まともな死に方は出来ぬ。
いいや、我は生きてやる、生き延びるためには、手段を選ばぬ……!)
まずは、口の中で、移動呪文を唱えてみる。
だが、タナトス達により、事前に張り巡らされていた強力な結界にさえぎられ、魔法での逃亡は不可能だった。

「よ、よくも騙してくれたわね、あんた達!
でも、勝負は着いてないわよ! こちらには“紅龍”がいるんだから!
サマエルにかけた術は、まだ解けてないわ!」
手負いの獣めいたぎらついた瞳で、周囲を睥睨(へいげい)していたリリスは、“禁呪の書”を高く掲げた。
その手の中で、書は、未だ禍々しい気を発し続けている。
魔界大公は、その事実に、文字通り飛びついた。
「リリス、それはまことか! ならば、我らにまだ勝機はある!」

当のサマエルは、おのれの主が代わったことにも、父や兄が蘇生したことにも気づかぬ様子で、ゼンマイが切れた玩具のように、動きを止めて舞台にいた。
服装こそ、式の当初と変わらなかったものの、頭に輝いていた王冠や、隣にいたシンハもまた、影も形もなかった。

「──さあ、サマエル、降りて来て!
そして、今度こそ、憎いこいつらの息の根を止めるのよ!」
リリスは、義父には眼もくれず、緋色の扇を、ベルゼブルとタナトスに突きつけた。
「……ご命令のままに、リリス様」
サマエルは、操り人形のように、胸に手を当て礼をする。
顔を上げ、闇に覆われた瞳が、父王と兄を捕捉した瞬間、白い体が宙に舞った。

タナトスは身構えた。
「ち、目を覚ませ、たわけめ!
いくら黒幕をおびき出すためでも、本当に術にかかる必要がどこにある!
俺達を二度も殺す気か!」
「正気に戻るのじゃ、ルキフェル!」
兄と父の声が聞こえた風もなく、魔族の第二王子は、コウモリによく似た黒い翼を羽ばたかせ、彼らの前に着地した。

そして、サマエルは無表情のまま、唱え始めたのだ……“あの呪文”を。
「──我は呼ばわる、死の光、デス・クリエイトよ、(くら)き翼を彼の地に広げ、総ての生命を滅し、汝が皓召(しろしめ)す世界へと変えよ……」
蛇めいてのたうつ銀髪を体にまとわりつかせ、彼が朗々と唱えるに連れて、周囲の気配が変わってゆくのが、眼に見えるようだった。

タナトスとベルゼブルの顔から、さっと血の気が引いた。
「こ、これは“デス・クリエイト”!」
「ルキフェル! やめるのじゃ、魔界が滅びる!」

彼らの叫びも虚しく、呪文は、(よど)みなく続けられてゆく。
「──永遠(くおん)なる魂の破滅よ、呪われし汝が光にて、希望ごとき幻となし、動くものの影一つとてなき空虚な荒野を、絶望と(うら)みと声なき慟哭(どうこく)にて永久(とわ)に満たせ。
我が真名、ルキフェルの名に於いて、汝が封印を今、解く!
目覚め、()く来たりて、()すべきことを為せ……」

「や──やめなさい!」
呪文が効力を発する寸前、ようやく我に返ったリリスは、第二王子を叱りつけた。
「馬鹿、こんなところで“死を創り出す呪文”を使えなんて、誰が言ったの!
こいつらだけを攻撃するのよ、汎魔殿をなるべく壊さずに!」
「……仰せのままに」
サマエルは、表情も変えずに会釈(えしゃく)し、前置きもなく戦闘を開始した。

「──トライユーン!」
炎と氷と稲妻、三つの属性がスクリューのようにねじれて交じり合う、サマエルが得意とする三位一体(さんみいったい)の魔法が、魔界王と第一王子目がけて襲いかかる。
「ち、手加減なしか!」
舌打ちしながらも、タナトスは難なくよけた。

「──セーブル・ヴェイル!」
ベルゼブルはとっさに結界を張ったが、少し離れた場所にいた兵士が数人、直撃を受け、吹き飛ばされた。
「うわっ!」
「ぎゃっ!」

「邪魔だ、貴様ら、死にたくなければどいてろ!」
タナトスが叫ぶ。
「で、ですが……」
ためらう兵士長に、ベルゼブルは命じた。
「よい、そなたらは、謀反人どもを捕縛し、あとは下がっておれ!」
「──は!」
兵士達は、すぐさま散開し、反逆者達を捕らえにかかる。

容赦ない魔法攻撃をかいくぐりつつ、タナトスは、心の声で父親に告げた。
“ヤツは本気だ! こっちもやるしかないぞ!”
“よさぬか、サタナエル。カオス神殿の神官と、まともに戦っても勝ち目はないぞ。
ルキフェルを、正気に戻せばよいことじゃ。
じゃが……左様、念には念を入れ、イシュタルをここへ……”

父の言葉に、タナトスは鼻を鳴らした。
“ふん、『金の弓矢』を持たせてか!
今さらだが、軟弱なヤツを強引に、『カオスの貴公子』などに仕立て上げたりするから、こんな羽目に陥るのだぞ!
そんなに儀式が大事か。迷信に頼らねば、俺達は天界に勝てんのか!”
“迷信じゃと! 代々の『紅龍』と、アナテ女神がいませられなんだら、我らは()うの昔に……”

父王の説教じみた話を、手荒にタナトスはさえぎった。
“もういい、聞き飽きた!
前々から、俺は、こいつと本気で戦ってみたかったのだ。いい機会だ!”
“よせと申すに!”
止める父親を振り切って、第一王子は飛び出してゆく。