~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

8.黒き月の見る夢(3)

「これより、サマエル殿下の戴冠の儀を行う!」
舞台下方にて、南のデーモン王マンモンが、羊皮紙の巻物を縦に広げて宣言した。
会場は、水を打ったような静けさに包まれる。

『魔界の第二王子、“混沌の貴公子”ルキフェルよ、王権の(あかし)たる、“王の杖”を召喚せよ』
たてがみを赤々と燃え上がらせ、厳粛な口調で魔界王家の守護精霊、シンハが命じた。
その背中には、両端に房がついた紅い布がかけられ、その上で、王家に代々伝わる宝冠が、金色(こんじき)に輝いている。
「かしこまった」
サマエルは、一礼し、召喚の呪文を唱えた。

「──闇と光の力を併せ持つ偉大なる宝物、(ほのお)を帯びし王権の象徴、“王の杖”よ、我は(なんじ)(たた)え、呼び()だす。
我が真名はルキフェル、魔界の第二王子にして、カオス神殿の司祭、“紅龍”なり。
──アケロン、ステュクス、オブリヴィアンの淵を超え、深き眠りより目覚め、来たりて、汝が力を示し(たま)え!」
直後、空中に、細長い黄金の箱が現れた。

『“──汝、王となるべき者よ。
──我を取り、我を(もっ)て治めよ。
──我を手にする者のみが、魔界の王なり──”』
朗々と、“王の杖”の箱に刻まれた言葉をシンハが述べる中、彼は蓋を開け、濃紺のヴェルベットの上から、玉座と同じ貴金属で作られた美しい杖を取り出した。
全体に、魔界王家の紋章、炎を噴き出す四頭龍が緻密(ちみつ)に彫り込まれ、握り部分には、大人の心臓ほどもある紅い宝石、“焔の眸”が、圧倒的な存在感で据え付けられている。

次いで、サマエルが杖を捧げ持つと、“焔の眸”から、紅い光がほとばしり、王冠の正面にはめ込まれた、ほぼ同じ大きさをした透明な石──“盲いた眸”に吸い込まれ始めた。
見る間に、“焔の眸”の色は完全に消え、代わって“盲いた眸”が鮮やかな深紅に染まって、その内部には、人を魅了してやまぬ黄金に(きらめ)く炎が、生き物のように(うごめ)き出す。

このように、“盲いた眸”に“焔の眸”の魔力を注ぎ込むことは、太古より伝わる重要な儀式であり、かつては戴冠式とは別だったが、いつの頃からか、同時に行われるようになっていた。
“黯黒の眸”は、儀式に列席しないのが慣例のため、どこにも姿はない。

(ひざまず)き、(こうべ)を垂れよ、ルキフェル』
言葉に従う次期魔界王の頭に、魔界の獅子は、魔力で王冠を乗せる。
そして、朗々と響く声で宣言した。
『我ら“三つの眸”は、この者、紅龍王ルキフェルを、新しき主と認め、王の位にある間、絶対的忠誠を誓う!』

王冠を(いただ)いたサマエルは、シンハのたてがみに手を置いて立ち上がり、杖を持つ左腕を高く掲げた。
「新魔界王、サマエル様、万歳!」
「サマエル陛下、万歳!」
家臣達の歓呼の声が、汎魔殿に木霊(こだま)する。
感激のあまりだろう、涙する者までもいた。

その場にいた、陰謀家達……大公ベルフェゴールにアリオーシュ男爵、並びにカルニヴェアン子爵は、この上なく、晴れがましい気分で式に臨んでいた。
とりわけ、ベルフェゴールは、父、バフォメット王に溺愛されていたにもかかわらず、結局は王位に就けなかったため、感激もひとしおだった。

“これよりは、思う存分、我が世の春を謳歌(おうか)出来よう!
我らを馬鹿にして来た者どもを、ついに見返すことが出来るのだ!”
大公という身分上、壇上に近いところに陣取っていた彼は、離れた席のアリオーシュとカルニヴェアンに、歓喜の念話を送った。

“まことにめでたき仕儀(しぎ)相成(あいな)り、心よりお喜び申し上げまする、殿下。
これにて、あなた様が、王となられたも同然でございますな”
男爵の芝居がかった返事も、今ばかりは気にもならず、機嫌よく大公は答える。
“左様。アリオーシュ、おぬしにも、まことに世話になったな”

他方、カルニヴェアンの答えは予想外だった。
“これを祝して、イシュタルめを、わたくしに頂けませんでしょうか、殿下”
ベルフェゴールは息を呑んだ。
“な、何と慮外(りょがい)な。前にも申したであろう、あの女は……”

“気をつけます、大丈夫です。
……いえ、触れるなと(おっしゃ)るのなら、眠らせてガラスケースに入れ、眺め暮らします。
わたくしはもう、あの女なしには……”
子爵の必死な思いが伝わって来る。
大公は、ため息をついた。
“……他にも、女は、いくらでもおろうに……”
“申し訳ございません……”

“よいわ、護符をくれてやる。
おぬしの体内に埋め込めば、完全に(とりこ)となるは避けられようぞ。
人形(ひとがた)()でるなぞ、やめておけ”
“あ、ありがとうございます!”
弾んだ心の声が返って来て、ベルフェゴールは苦笑する。

“今一つ残っているぞ、大公”
その時、彼の心に、別な声が届いた。
“アラストルか。忘れてはおらぬゆえ、安心致せ”
ベルフェゴールは返答し、大役を終えて一息ついているマンモンの元へ向かった。
「マンモン、引き続き、婚姻の儀を行うぞ」
「……は? 婚姻……どなたのでございますかな?」
いきなり声をかけられた南王は、あっけにとられた表情をした。

「無論、魔界王陛下に決まっておろう」
「えっ、陛下の!? 何も聞いてはおりませぬぞ」
マンモンの眼が、ますます丸くなる。
「もうよい、そこをどけ。これより我が仕切る!」
「……殿下!?」
困惑する彼を尻目にベルフェゴールは巨体を揺らし、魔力で自分の声を会場中に響かせた。
「──静まれ、皆の者!
次いで、新魔界王、サマエル陛下の婚姻の儀を行う!」

その宣言は、玉座の間を混乱に陥れた。
「こ、婚姻の儀ですと!?」
「ベルフェゴール殿下、どういうことです!?」
「お相手はどなたか!」
「何も聞いてはおりませんぞ!」
「まあまあ、落ち着くがよい、皆。今より、サマエル……陛下がご説明なさるゆえ」

質問攻めにして来る人々をなだめていた大公は、競うように、残りのデーモン王達が向かって来るのに気づき、急ぎ心の声を送った。
“アラストル、うるさ方が来る。
()く相手の女を教えよ、サマエルに事態を収拾させねば”

すると、男爵は、にやりと笑う映像と共に、返事を寄越した。
“ああ、そうだったな、教えてやろう。
くくく、聞いて驚け、相手は、リリスだ!”
「な、何っ!?」
大公は眼を()いた。

“正気か、アラストル、考え直せ。いくら何でも……”
カルニヴェアンがあきれたように言っても、アラストルは平然としていた。
“どうせ、名目上の王妃、誰でもいいと言っていたではないか”
“そ、それは……。だが、リリスが王妃では、家臣どもが納得するまい”

アラストルは肩をすくめた。
“そんなことか。逆らう者は始末すればいい”
“く──いい加減にせよ、アラストル!
冗談も大概にするがいい!
リリスごときを妃にするために、これまで苦労して来たわけではないわ!”
怒り心頭に発したベルフェゴールが、念話で絶叫したとき。

“あぁら、ごあいさつねぇ、お父様”
目の前に、当の本人が、ふわりと現れたのだ。
花嫁にふさわしく、優美な真紅のドレスを身に着け、純白の髪に映える紅い宝石をたくさん編み込んで、柔らかい羽毛がついた緋色の扇を手にしている。
ほんのりと頬が上気し、今日のリリスは、いつもに増して美しかった。

大公は、険悪な表情で娘を睨みつけた。
「リリス、これはいかなることだ!」
少女は、最上級の笑みを浮かべた。
「お聞きになった通りですわ、わたくし、王妃になりますの。
ああ、ご心配なく、お父様方の便宜も、ちゃんと図って差し上げますわ。今までのご苦労に報いて、ね」

「こ……この、じゃじゃ馬めが、何人男を操っておる!
甘く見るでないぞ、我とて魔界の大公、おぬしの思い通りになどさせぬわ!」
青筋を立てて吼えるベルフェゴールの胸元に、リリスは涼しい顔で、閉じた扇を向けた。
「そんなことを仰ってよろしいのかしら、お父様ー?
そこにお持ちの“禁呪の書”、それを使えば、サマエル殿下にかけた術を解くことが出来るのでしょ?
正気に戻ったこの方に、これこれこういうわけで──と、真実をお話したら、どうなるとお思い?
……紅龍様のお怒りは、いかばかりでしょうねぇ……うふふ」

「き、貴様、我らの計画を無にする気か!」
「──フュズィリーレン!」
「うわーっ!」
カルニヴェアンはリリスに飛びかかるも、アラストルの魔法で、たわいなく床に()いつくばる。

それを見たベルフェゴールも、呪文を唱えた。
「よくも!
──ライベス・シュトラーフェ!」
「おバカさん。
──ライプリヒ・ゲーヌス!」
リリスは平然と対抗呪文を唱え、彼の魔力は、空中であっけなく消滅した。
いきなり始まった魔法合戦に、人々はあっけにとられ、玉座の間は静まり返る。

「あーら、ヘボい攻撃ねぇ。もうろくジジイの呪文なんて、あくびが出ちゃうわ、ホント」
リリスは扇を口に当て、嘲笑した。
ベルフェゴールは、ぎりぎりと歯を食いしばった。
「……くっ、生まれ落ちた瞬間に殺しておくのだったわ!」
「おーほほほ、今さら、そんなことを言っても遅いわ、下司(げす)の後知恵ってヤツよ!
──リュンヌ・ノワール!」
高笑いしたリリスは、さらに呪文を投げつけて来る。

「ぐわーっ!」
黒い閃光が命中し、ベルフェゴールが床にたたきつけられると、家臣達はさっと退き、場所を開けた。
気が遠くなりかける大公の手から、アラストルが呪文書を奪い取る。
「これは、ありがたく頂いておくぞ、大公。
我らが有益に使ってやるゆえ、心配するな」

「やめろ、アラストル!」
この時、群集をかき分け、アリオーシュがようやく二人の許に到着した。
「──ライデンシャフト!」
「うわっ!」
だが、その彼も、アラストルが発した魔法の前に倒されてしまう。

何事かと、貴族達が遠巻きに見守る中、太り過ぎて自力で起き上がれない魔界大公は、それでも必死の形相で、アラストルに向け手を伸ばした。
「……か、返せ、それは我の……!」
そんな彼に、リリスはつかつかと近づく。

往生際(おうじょうぎわ)が悪いわね!
あんたみたいな最低最悪のブタ男に、こんなお宝なんてそぐわないわ!
それに、“親子ごっこ”ももう終わりよ、どうせ、あんたとあたしは、血なんか、つながってないんだから!」
衝撃的な言葉を叫び、彼女はベルフェゴールの背中を力一杯踏みつけた。

「ぐえっ!」
魔界大公は、思わず蛙のような声を上げた。
「あっははは、いい気味! ずっと、こうしてやりたかったのよ、胸がすうっとしたわ!
次は、裸踊りでもさせてやろうかしら?
……ああ、駄目ね、皆、気分を悪くするわ、変態男の裸なんか見たらね!」
言いながら、白髪の少女は、だぶだぶした背中を、(かかと)の高い靴で容赦なく踏みにじり続ける。
「い、痛い、痛い! やめよ、やめてくれ、リリス!」

「よ、せ、リ、リス……」
その時、ようやくカルニヴェアンが正気づき、よろめきながら近寄って来た。
「動くな。彼女の邪魔はさせんぞ、カルニヴェアン。
あんたも、“これ”で操られたくなければ、大人しくしていることだ」
アラストルは、男爵を牽制(けんせい)しつつ、呪文の書をリリスに渡した。

少女は眼を(うる)ませて、本を受け取った。
「ああ……ようやく、あたしのところに来たわね。
お前を、一番上手に使える主のところへ……。
昔は、ちゃんとしたレディになりさえすれば、女王様になれる、そう思い込んで、一生懸命、努力してたわ……。
でも、それも、(はかな)い夢……。
だって……あたしの体には、魔界王家の血は、一滴も流れてないんだもの、だから──だから、王妃になるしかないじゃない!」
リリスがきつく、書物を抱きしめた、そのとき。

「ほう。リリス、貴様が真の黒幕だったとは、驚きだな。
だが、それほど嘆くことか? こんなカス男の血を、引いておらんということが?」
「ベルフェゴール、並びにリリス、そしてカルニヴェアン、アリオーシュに、アラストルよ。
そなたら五名の行状は、すべて白日の下にさらされておる、観念するがよい」

突如、聞こえて来た二つの声に、バッと振り返ったリリスは、まなじりが裂けんばかりに眼を見開き、唇を震わせた。
「……あ……!?」
「ふ、幽霊でも見たような顔つきだな。
残念ながら、俺達は、こうしてピンピンしているぞ」
歩み寄って来る、二つの人影。
ありえない光景を目の当たりにした人々は、凍りついた。