~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

8.黒き月の見る夢(1)

翌日、汎魔殿に激震が走った。
魔界王ベルゼブル並びに第一王子タナトス死去に伴い、第二王子サマエルの戴冠式が行われるとの、触れ書きが回されたのだ。
式の日取りは、わずか一週間後、その一ヵ月後に、二人の葬儀が行われるのだという。
この異常事態は、家臣達の間で非常な物議を(かも)し、様々な憶測が乱れ飛んだ。
当然のことながら、魔界王の下、魔界を分割統治するデーモン王達は説明を求め、書面に署名していたベルフェゴールの部屋へ押しかけることとなった。

分厚いじゅうたんが敷き詰められ、豪華な家具調度品が並べられた、魔界の大公にふさわしい、広い私室。
だが、王達は、それに眼をやる余裕もない。

「ベルフェゴール殿下! 一体、いかなることか、ご説明頂こう!」
ゆったりとした姿勢でソファに座る大公を見下ろし、長身の西王、パイモンがどんとテーブルに手をついて迫れば、たくましい体躯(たいく)の東王、ウリクスも叫ぶ。
「陛下ばかりか、お世継ぎのタナトス殿下までもが亡くなられたなどと、我らを(たばか)るのもいい加減にして頂きたい!」

「左様な戯言(ざれごと)、信じよと仰せられるのか! ご遺体をこの眼で見るまでは、信じられぬ!」
ほっそりしてはいるが怪力の北王、エギュンは、山羊のように白い顎ひげを振り立て、肥満体の南王マンモンも険しい表情だった。
「何ゆえ、お二方は亡くなられたのか、また、現在、ご遺体はどちらにあるか、お答え願おう!」

「今、遺体は清めさせておる。間もなく、棺を大広間に安置させるゆえ、しばし待たれよ。
二人が亡くなった経緯に関しては、サマエルが説明するそうだ」
対するベルフェゴールは、慌てる様子もなく、隣室を顎でしゃくって示すと同時に、念話を送った。
“サマエル、こちらへ参れ。かねて打ち合わせの通り、こやつらをうまく丸め込むのだ”
“はい、ご主人様”
サマエルは答え、ドアを開けた。

「おお、サマエル殿下!」
現れた第二王子目がけて、四人の王は一斉に殺到する。
(大丈夫でしょうか?)
ベルフェゴールの背後に立っていたカルニヴェアンが、そっとささやいた。
ねずみに似ていると形容されるその顔が、懸念(けねん)に歪んでいる。
“心配無用だ。サマエルには、我に服従するとき以外は、普段通りに振舞えと命じてある。
心安んじて見ておるがよい、あやつがすべていいように、家臣どもを言いくるめるであろうよ”
大公は表情も変えず、念話で答えた。

当のサマエルは、黒いローブですっぽりと全身を覆い隠しているということもあり、一見したところ、操られているなどとは微塵(みじん)も感じさせない風情で、もみくちゃにされながらも平然と立っていた。

「殿下、陛下とタナトス殿下が、お二方とも亡くなられたと言うのは真なのでございますか!?」
鋭い眼光でパイモンが問い詰めると、サマエルはうなずいた。
「本当のことだ」
「それはまた、なぜに」
「兄上は、私が殺した」
淡々とサマエルは答えた。

「な、何ですと!?」
パイモンは度肝を抜かれ、体をのけぞらせた。
エギュンとウリクスも驚愕し、大声を上げる。
「あ、兄君を殺害なさったと!?」
「な、何を仰ります、サマエル殿下!」
興奮が最高潮に達し、王子に詰め寄る彼らを、南のデーモン王マンモンがたしなめた。
「まあまあ、落ち着きなされ、お三方。
何はさて置き、サマエル殿下のお話を伺おうではございませぬか」

その穏やかな声に、三人の王達は我に返った。
「オッホン、わたくしとしたことが、つい……」
パイモンが咳払いをすれば、ウリクスとエギュンもそれぞれうなずく。
「まことに、まずは、詳しくお聞きしてからですな」
「左様……」

「ありがとう、マンモン」
皆の視線を浴びながら、サマエルは礼を述べたが、物静かな口調とは裏腹に、南王もまた他の王達と同じく、ぎらぎらとした瞳で、第二王子を見据えていた。
「……いいえ、ご弁明次第では、あなた様を、大罪人として捕らえねばならぬやも知れませぬ」
「そうはならないさ」
サマエルは軽くマンモンの肩をたたき、話し始めた。

「皆、聞いて欲しい。
……最近、汎魔殿では、魔界全土を揺るがすほどの陰謀が企まれていた。
私は、陛下の命を受け、首謀者を突き止めるため、人界から戻って来たのだ。
だが、昨日のこと、私の力及ばず、陛下は反逆者どもの罠にかかり、崩御(ほうぎょ)なされた。
ところが、謀反人達は、事もあろうに、陛下殺害の犯人を私だとして、兄上に誣告(ぶこく)したのだ。
兄上は私の弁明に耳も貸さず、陛下を死に至らしめた凶器を振りかざして襲い掛かって来た。
やむを得ず、私も応戦したが……結局、兄上もまた、命を落とされることとなった……。
……どうしようもなかったのだ……」
その沈鬱(ちんうつ)な表情は、たとえ彼が操られていなかったとしても、見せたものだったろうと思われた。
誣告とは、故意に事実を偽って告げること。

パイモンもまた沈痛な面持ちになり、その首は横に振られた。
「……陛下は策謀家達の手にかかり、あなた様は陥れられて、兄君を……そう(おっしゃ)るのですな……?」
「その通りだ」
サマエルは、間髪入れずに肯定する。
それは完全なる事実だったから、おそらく第二王子が本来の彼であったとしても、そう釈明するしかなかっただろう。

「し、証拠はあるのでございましょうね!」
「それより、謀反人というのは何奴なのですか!?」
ウリクスとマンモンが、同時に声を上げた。

「見るがいい、こやつらだ」
ベルフェゴールは、ぱんと手をたたいた。
次の瞬間、重たげな音を立てて、二つの(かたまり)が床に落ちる。
それは、上等な服に身を包んだ中年男と、ライオンの頭部をもつ少年の、冷たくこわばった死体だった。

「こ、これは!?」
ウリクスは眼を見開いた。
「グーシオン公爵とご子息のヴァピュラ!?」
マンモンが叫ぶ。
「……何としたこと……」
エギュンは嘆き、額に手を当てた。
「賢明公が!? ま、まさか貴殿が……かような陰謀を……!?」
パイモンは血の気が引いた唇を震わせ、その後は重苦しい沈黙が、その場を支配した。

しばしの後、サマエルが口を開いた。
「……そう、彼らが、魔界王家の転覆(てんぷく)を企んだ極悪人達だ。私を王にしようと画策したのだよ。
だが、迷惑なことだ。……お陰で私は、欲しくもなかった王位に就かねばならなくなった……のだから……」
その語調は、ため息そっくりだった。

「で、ですが……」
ウリクスは、まだ自分の眼が信じられない様子だった。
エギュンもまた同様だった。
「左様、信じられませんぞ、あのグーシオン殿が陛下に楯突くなど……」
「かようなことをして、一体何の益になると言うのやら……」
マンモンが、太い首を左右に振る。

そうこうしているうち、パイモンが最初に衝撃から覚め、片膝をつくと、死体を念入りに(あらた)め始めた。
血は使い魔によって清められていたが、傷跡は死体にはっきりと残っている。
グーシオンは左上から斜め下に袈裟懸(けさが)けされ、息子は右下から左上へと返す刀で斬られていた。

いずれも、たった一太刀で。

パイモンは第二王子を見上げた。
「……見事な太刀捌(たちさば)きですな。これでは即死だったでしょう。
サマエル殿下が、この二人を?」
「ああ。私が兄上を殺すところを見て、ほくそえんでいたのでね」
彼がうなずくのを眼にした西の王は、皮肉な笑みを浮かべた。
「死人に口なし……ですか」

「何が言いたい?」
問われたパイモンは立ち上がり、王子の前に立った。
長身の西王だったが、サマエルの方が拳一つ分、高かった。
「死人に罪を着せるのは、簡単ですからな」
サマエルは、眉一つ動かさなかった。
「なぜ、そんなことをしなければならない?
彼らは汎魔殿の中で、唯一と言ってもいいくらい、数少ない私の味方だったと言うのに。
それに……私の無実を証明出来る者なら、他にもいる」

「ど、どなたですか、それは?」
ウリクスが震え声で尋ねた。
「いでよ、“焔の眸”」
彼は、さっと手を振った。
即座に、紅毛の少年、ダイアデムが現れる。
さすがに鳥籠からは出されて、拷問の痕も消えていたものの、体は小刻みに震え、眼は落ち着きなく周囲を見回し、彼はどう見ても怯え切っていた。

「ダイアデム閣下!」
「一体これはどういうことなのですか!?」
「サマエル殿下のお話は、まことなのですかな!?」
「お話し下され、陛下とタナトス殿下は!?」
「──ひえっ」
いきなり四人に取り囲まれた宝石の精霊は、反射的に空中へと逃れた。
「な、何だよ、寄って来んな、あっち行け!」

「降りておいで、ダイアデム。皆がお前の話を聞きたいのだそうだ」
サマエルが手招きしても、少年は嫌々と首を振り、浮き上がったままでいた。
「ダイアデム」
王子の声にほんのわずか、厳しいものが混じる。
「あわわ」
すぐに“焔の眸”の化身は着地した。

それを待ち構えていたパイモンが、他の貴族達を身振りで抑えて、訊いた。
「ダイアデム閣下、サマエル殿下のお話は、まことなのですかな」
「……んー」
紅毛の少年は、ちらりとサマエルを見、それから肯定の身振りをする。
「あ……ああ、そうだ。こいつはハメられただけだ。
オレは、タナトスの死体を見たし、だから……その」
再び、ダイアデムは言葉を切り、第二王子に視線を走らせた。

「だから、次の魔界王は私……ということになるわけだね、ダイアデム。
そう言いたいのだろう?」
「……そ、そういうことだ、うん」
サマエルに促された少年は、またもうなずいたが、相変わらずその眼はきょときょとせわしなく動き、その奥にある炎もまた、動揺を隠せない。
こめかみから汗が流れ、彼はそれを手の甲でごしごしとふいた。

「というわけだ。もし私が罪人ならば、彼は私を王にふさわしいとは認めず、魔界王には選ばないだろう。
……これで、間接的にだが、私の潔白が証明されるのではないかな」
第二王子は胸を張り、言ってのけた。
操られているお陰か、その仕草からは、普段の彼には見られない、自分の正しさを確信している様子が見て取れる。

マンモンは、ひどいしかめ面をした。
「されど……お言葉を返すようですが、あなた様は、一時は王位継承権を剥奪されたお身でございますぞ」
「左様、左様。他の方がよいとわたくしも思いますぞ。
他にも、王位継承権をもつお方がおられましょうに、王にふさわしきお方でなくば、魔界が滅びます」
不服そうなエギュンも、ここぞとばかり力説した。

「はん、王にふさわしい奴って、他に誰がいんだよ……このデブか?」
少し元気を取り戻したダイアデムが口を挟み、ベルフェゴールを指差す。
「──げ、まさか、滅相(めっそう)もない」
不意を突かれたエギュンが反射的に首を横に振ってしまい、大公の面目は丸つぶれの形となる。
王兄は、不快極まりないといった顔をした。

その表情に溜飲(りゅういん)を下げたダイアデムは、薄笑いを浮かべ、さらに続けた。
「……んじゃあ……っと、あとはリリスだよなぁ。あいつがいいのか?」
「そ、それこそ、ご免こうむりますぞ。
あの娘が女王では、王兄殿下より一層始末が悪……いや、オッホン、失礼」
慌てて、ウリクスは咳払いでごまかす。
ベルフェゴールは、ますます渋い顔になり、宝石の化身のにやにやは強まった。

「おう、忘れておった。イシュタル殿下がおられるではないか」
その時エギュンが、はたと膝を打ち、マンモンもうなずいた。
「左様、左様。あのお方ならば聡明で皆にも慕われておるし、申し分ない」
すると宝石の化身は、大げさにため息をついた。
「はーあ。馬鹿か、お前ら。世継ぎはどうすんだよ」

その言葉に、皆が凍りついたように動きを止めた。
「イシュタルは、子供産めないんだってこと、もう忘れたのか?
一万年前、ベルゼブルの子を身ごもったのはいいけど、結局流産してさ、石女(うまずめ)になっちまったんだろーが。
だから、王妃にしてやるって何度言われても、あいつは辞退してるんじゃねーかよ」
開き直ったのか、ダイアデムの話は先ほどまでとは違い、よどみがなかった。

「……こんなときにあの秘法、“反魂(はんごん)の術”の使い手がいれば……」
パイモンは天を仰いだ。
“反魂”は、“死人(しびと)返し”と同じものである。
「え……っ」
紅毛の少年はぎくりとした。紅い瞳の奥の炎が、激しく揺れ動く。
「いや、その呪文は、オレら……」
ダイアデムが、思わず秘密を漏らしてしまいそうになったとき。

「何を寝ぼけたことを。左様なことができるのならば、誰も苦労などせぬわ!」
ベルフェゴールが、さも軽蔑した口調でさえぎり、彼を睨むとサマエルへ向けてあごをしゃくった。
第二王子の方を見るまでもなく、宝石の化身は唇を噛んで黙り込むしかなく、“眸”達が術を使いこなせることを知らないパイモンは、がっくりと肩を落とした。
「……単に、希望を述べたのみ、忘れて下され」

「もういいよ、ダイアデム。皆も納得したと思うし」
サマエルが話に割り込み、促す。
「さ、大きな声で宣言してくれないかな。次の王は、誰か?」
「ああ、言ってやるよ。
──サ、サマエルが次の魔界王だ!」
やけくそのように、宝石の化身は声を張り上げた。

こうなると、誰も異議を挟むことは出来ない。“焔の眸”の宣言は絶対だった。

「これで、私が次期魔界王に決定したな。
王座の空位を敵に悟られるわけにはいかぬゆえ、先に戴冠式を済ませることとしたのだ。
期日は、書面で通達した通り一週間後。陛下と兄上の葬儀は、その一ヵ月後だ。
これは、魔界王としての正式な命令だ、私に従え、家臣達よ」
サマエルは、よく通る声で宣した。
「──御意(ぎょい)!」
四人のデーモン王達は、次期魔界王の威光に打たれて片膝をつく。

その瞬間、固唾(かたず)を飲んで経緯を見守っていたベルフェゴールとカルニヴェアンは、顔を見合わせてにやりとした。