~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

7.血の版図(はんと)(5)

「おおお、こうしてはおられぬ、宴の前に、後始末をせねばな」
気を取り直した大公は、抵抗する気力もなくし、うずくまっていた宝石の少年を金の鳥籠に戻した。
「──出でよ、フィンズーズ!」
それから、使い魔を呼び出して死体を清めさせ、弟ベルゼブルの肉体と一緒に、不可視の結界に封じ込める。

(……くくく、素晴らしいものが手に入ったわ……魔界の貴族の死体が四つもとは。
一石二鳥とは、まさにこのことよ)
ベルフェゴールは、ほくそえんだ。
大っぴらにされてはいないが、魔力が強い者の死体ほど、いい魔法具や魔法薬の材料となるのだった。

その後、別室にて宴が始められた。
強い酒をいくら飲んでも、次々現れる、肌もあらわな美女達からあふれるほど精気を吸収しても、サマエルが酔えるわけもなかった。
それでも、時間の経過と共に、張り詰めていた緊張は自然と解けてゆく。
今までろくに眠れていなかったことも手伝って、彼は杯を手にしたまま、うたた寝を始めた。
その隙に、こっそりとベルフェゴールが退室したことに、サマエルはまったく気づかない。

「さ、どうぞ、サマエル様。我が家に伝わる、とっておきのお酒をお持ち致しましたのよ」
その声に眼を開けると、一人の美女が酒壷を差し出していた。
夜もかなり()けて、他の女達や召使の姿はすでになかった。
「……う、ああ。もらおうか」

注がれた酒を、彼は何の疑いもなくあおる。
と、次の瞬間。手から、ぽろりと杯が転げ落ちた。
「あら、眠ってしまわれたわ。ご寝所にお連れしましょうね」
にやっと笑い、魔力で王子を持ち上げた女の体は、徐々に薄らいでいき、しまいに透明化した。
美女の正体は、ベルフェゴールの使い魔フィンズーズだったのだ。

汎魔殿ほどではないにしろ、豪奢(ごうしゃ)な回廊を通って、使い魔は王子を運ぶ。
主であるグーシオンと、後継ぎヴァピュラを失った無人の回廊は、灯りさえもまばらで、ひっそりと静まり返っていた。

やがてフィンズーズは、とある部屋の前で立ち止まった。
巨大な扉には、グーシオン公爵家の紋章である、大きく口を開け咆哮(ほうこう)するライオンの頭部を(かたど)ったレリーフが、誇らしげに飾り付けられていた。
純金製の獅子の両眼には、鶏卵ほどもある緑柱石(エメラルド)が輝く。

“失礼致します。ご主人様、サマエル殿下をお連れ致しました”
「やっと来たか、待ちかねたぞ」
準備を整え、待ち構えていたベルフェゴールは、太った体で出来得る限り素早く立ち上がった。

開け放たれた扉の内部には、グーシオン公爵家で一番大きな、百人ほどが一度に入れる広間があった。
そこに、向こう端がかすむほどたくさんの香炉が()かれ、床には巨大な魔法陣が描かれて、青白い燐光を発している。
大公は、使い魔から受け取った第二王子を、その中央にそっと横たえた。

「長かったわ……ついに、我が野望が叶う時が……」
ぐったりと目の前に横たわる甥を見ながら、しみじみと彼がつぶやいた時、部屋の隅に、二つの影が湧き出した。
「とうとう、この時がやって参りましたね」
「……まことに、めでたいことでございまするな」

それは、無論、彼──アルファこと、ベルフェゴールの仲間である、陰謀の主達だった。
「お、おぬしら、ついに──ついに、この時が参ったのだぞ──!」
感極まった王兄は、太い両腕を、天井目がけて突き上げた。

「ベルフェゴール殿下、感慨にふけるのはもう少し後です。
さ、リリスの邪魔が入らぬ前に、すべてを済ませてしまいましょう」
ベータに促され、ベルフェゴールは我に返った。
「……お、おお、左様であったな、ベータ……いや、もはや本名でも構わぬであろう、カルニヴェアン。
あの忌々しいじゃじゃ馬娘めが、我らの(つか)わした女より先に、サマエルを誘惑したときには驚いたものだが」

「まさか、我らの計画に感づいておるのでは……?」
ガンマこと、アリオーシュ男爵が口を挟む。
この男は灰色の髪をし、鶴のようにやせていた。
魔界大公の、超がつくほどの肥満体と並ぶと、互いにその体つきの短所を強調してしまう二人である。

ベルフェゴールは、否定の身振りをした。
「アリオーシュよ、左様なことはあるまい。我らはあれほど、密かに行動しておったのだぞ」
「……ふぅむ……」
アリオーシュは腕組みをした。
「……あの時、アラストルが声をかけなければ、リリスは今頃、牢の中にいたでしょうにね。
あ、そういえば、奴はどこに……」
ねずみに似ているとよく言われる、黒髪の小柄なカルニヴェアン子爵は、小動物めいた仕草で周囲を見回した。

「奴のことは気にするな、そのうち、ふらりと現れるであろうよ。
左様なことより、カルニヴェアン、アリオーシュ、おぬしらにも手伝ってもらおう。
面倒ではあるが、この呪符をすべて手書きで、サマエルの全身に記さねばならぬのでな」
ベルフェゴールは、漆黒の分厚い書物を開き、古代の魔界文字で書かれたページを指し示して見せた。
予備知識を持たない者が見ても、立ち昇る禍々(まがまが)しい瘴気(しょうき)が分かるような、おぞましい呪文が、羊皮紙一面にびっしりと書き込まれている。

「……かような作業なぞ、使い魔にでも、やらせればよろしいのではございませぬか」
不服そうにアリオーシュが言うと、大公は首を横に振った。
「いやいや、この作業は、強い魔力を持った者が行ったときのみ、効果があるのだ。
使い魔ごときに任せるわけにはゆかぬ」
「なれど……」

「よいではありませんか、我らの手で直接、(はかりごと)の仕上げが出来るのですよ」
カルニヴェアンの言葉に、ベルフェゴールも同調する。
「子爵の申す通りだ。
最後に我ら自身の手を加えることで、計画の仕上げが出来るとは、喜ばしいことではないか」
「……まあ、たしかに……左様ですかな」
不承不承とはいえ、アリオーシュが受け入れたと見るや、さっそく、王兄は甥の着衣を脱がせにかかった。

いつも着ている漆黒のローブを取り去ると、サマエル気に入りの鮮やかな青いシャツが眼を奪う。
裾に行くに従い、わずかに広がる黒のズボン、加えて下着までを剥ぎ取り、透き通るようなサマエルの裸身すべてが、陰謀家達の眼にさらされる。
見る者の心を()きつけずにはおかない、不思議な(なまめ)かしさを漂わせる引き締まった肉体。
黒い翼は死角になっているため、額に生えた白い角と床に広がる銀糸のような髪とが、完璧な美貌を備えた第二王子を、伝説に(うた)われる一角獣の化身のごとく見せていた。

「ほう……まるで、彫像のような……」
アリオーシュが眼を見張れば、大公もつぶやく。
「いつ見ても、惚れ惚れするわ、サマエルの肢体(したい)は……」
「……はあ……」
カルニヴェアンもまた、彼に見とれ、感嘆のため息をついていた。

「……いや、(ほう)けておる場合ではないわ」
最初に我に返ったのは、ベルフェゴールだった。
「それ、ぼやぼやせずに始めようぞ。
()く取りかからねばと申したのは、おぬしだろうが、カルニヴェアン」
「あ、そ、そうでしたね」
「うむ、見ようと思えば、これからいつでも見られるのですしな……」
アリオーシュも同意し、三人は、さっそく、先ほど使い魔に集めさせておいた犠牲者達の血を使って、作業に没頭し始めた。

二時間ほど後。
ようやく謀反人達は、第二王子の角の先から爪先まで、すべてに細かい呪文を書き終えた。
意識のないサマエルの体は、返り血を浴びたとき以上に、禍々しい紅に染まっていた。

「おお、ようよう終えたか……眼が疲れたわい」
アリオーシュ男爵が眉間をもみほぐす。
「……やってみると、想像以上の重労働ですね」
カルニヴェアン子爵は腰に手を当て、とんとんとたたいた。
「いや、今少しかかるが、しばし休息を取ろうぞ。
──フィンズーズ!」
ベルフェゴールは、ソファと一緒に使い魔を呼び出し、皆に飲み物を供させた。

一息入れると、彼は言った。
「後は我一人でよいゆえ、おぬしらは休んでおれ、アリオーシュ、カルニヴェアン」
「おお、任せましたぞ」
「よろしくお願い致します、殿下」
陰謀仲間の熱い視線を受けながら、ベルフェゴールは、甥の額、両掌と足裏を小さく傷つけ、そこに豆粒ほどの紅い貴石を埋め込んだ。
最後に、血まみれの剣を体の上に置く。

「これで、よし……さて、始めるぞ」
大公は、先ほどの分厚い魔法書を広げた。
「『──創造の主であり、全にして一なる御方よ。……我が魂の闇なる御方よ。我が力に祝福を与えたまえ。
……(たた)えんかな、真実にして真なる御方よ、悪と死と闇なる御方よ、我、御身(おんみ)に感謝を捧げるとき、御身は恵みを与えたもう。
母よ、我が力の力なる母よ、我、御身に感謝を捧げん。我が内なる御身の()言葉により、御身を称え(たてまつ)らん。……我が内に満てる命なる御方よ、我らを救いたまえ。
闇なる御方よ、我らが(もう)(ひら)きたまえ。女神よ、我らに邪悪なる霊を授けたまえ。
邪霊は、御身の言葉を守護するものなればなり。
……永遠なる御身より、我、祝福と我が求めるものを受けたり。御身の御心により、我、平安を見出したり』
──“混沌の貴公子”、ルキフェルよ! 魔界王兄バアル・ペオルの名に於て命ず!
おのれの意志を手放し、とこしえに我が傀儡(くぐつ)となれ! 」
長い呪文の詠唱直後、“禁呪の書”と共に、床に描かれた魔法陣までもが、熱い光を発し始める。

数分後、ようやく光は消え、反逆者達は、暑さに火照った顔を見合わせた。
「……これでよいのですか?」
恐る恐るカルニヴェアンは尋ね、ひっきりなしに汗をふいていたベルフェゴールは、同意の仕草をした。
「うむ、成功したはずだ。“禁呪の書”の呪文は、失敗すれば術者に跳ね返ると申すでな」
「なるほど。ならば、さっそく、何か命じてみてはいかがでしょうかな、ベルフェゴール殿」
アリオーシュの言葉にうなずき、ベルフェゴールは命じた。
「では、試しに。
……起きよ、サマエル!」

書物が光を発すると、その命令に呼応して、サマエルがぱちりと眼を開け、魔法陣の中で起き上がった。
「立ち上がって、こちらへ来い」
光に呼ばれるように、魔族の青年は音もなく彼らの前に立つ。
その紅い眼は虚ろで、何も見てはいない。

「これなる“禁呪の書”を持つ我が、今日からおぬしの主人だ。
我が(ため)に生き、我が為に死ね」
またも書が輝き、サマエルは、操り人形も同然にひざまずく。
見事な銀髪が、さらさらと小川のように流れ、大理石の床に広がった。

「かしこまりました、ご主人様。
私は、これから、あなた様の(おん)為に生き、あなた様の御為に死にます」
「うむ、うむ。想像以上にうまくいったものだ……!」
ベルフェゴールは満足げに、短い首をこくこくと振った。

その様子を見たアリオーシュは、勢い込んで大公の持つ“書”に手を触れた。
「今度は、わたしが命じてみますぞ、よろしいですかな」
「あ、ああ、無論」
大公がうなずくのももどかしく、男爵は命じる。
「立つがよい、サマエル」
「はい」
今度も本が光ると共に、サマエルは間髪を入れずに立ち上がった。
「おお、やりましたぞ」
アリオーシュは満面の笑みを浮かべ、大げさに天を仰いだ。

「しかし……見れば見るほど、美しい……! 男にしておくのが惜しいほどですね……」
カルニヴェアンは、類稀(たぐいまれ)なる芸術家によって彫り出された像のごとくに立ち尽くす魔界の第二王子を、うっとりとした眼差しで見つめた。
女性的なところは見当たらない……強いて言えば、色が白いことぐらいだったが、それでも、夢魔の貴公子であるサマエルの体からは、一種フェロモンのようなものが発せられている。
その効果もあり、見る者は心が騒ぐのである。

ベルフェゴールも、再度、まじまじと甥を見やり、同意した。
「たしかに。年を追うごとに美しくなるわい、こやつは。
……こうして見ると、母親に生き写しだな」
「アイシス王妃にですかな? うむうむ、まことにもって(おっしゃ)る通り」
アリオーシュも、同意の身振りをする。
「かの女性も美しくあられましたが、さすがに王妃ともなると高嶺(たかね)の花。
当然ながら、手を出すわけには参りませなんだ……。
ふふふ、では、さっそく楽しまさせて頂くとしましょうかな。
──サマエルよ……」
「いや、それは、よしたがよいぞ」
アリオーシュの命令を、ベルフェゴールは途中で止めさせる。

「それはまた、何ゆえ? まさか、独り占めする気でしょうかな、大公殿下」
嫌味たらしく尋ねる陰謀の共犯者に、王兄は否定の身振りをして見せた。
「左様な事ではない、焦ることはなかろうと申しておるのだ。
この呪文は、時が経てば経つほど心に深く浸透し、呪縛する。
されど、初期の段階で意に沿わぬことを強要すれば、術が解ける恐れがある……と書いてあるぞ。
……ほれ、ここだ」

「ふぅむ……残念」
「……惜しいことですね」
美貌の甥に未練がましい視線を送る仲間二人に、ベルフェゴールは笑いかけた。
「なぁに、時間はたっぷりある。家臣どもが何と騒ごうと、“焔の眸”の宣告は絶対。
戴冠式を終えてしまえば、もうこちらのものだ。
……その後で、ゆるりと、楽しめばよかろう」
「ふふふ、なぁるほど……」
「それもそうですね、くくく……」
アリオーシュとカルニヴェアンもつられて笑う。

「楽しそうだな、済んだのか?」
その時、いきなり背後から声がかかり、三人の男は身構えた。
「な、何奴!」
「慌てるな、俺だ」
それは、もう一人の同志、デルタこと、アラストル男爵だった。
深い緑の眼と髪とを持つ、冷ややかな表情をした男。
頭の回転の速さから、彼らが密かに参謀とするため、男爵の位を買い、彼に与えたのだ。
それゆえ、貴族の血は継いでいないはずだったが、なかなか気品のある容貌をしている。

「またおぬしか、アラストル!
いずこへ参ったものかと思うておったが、気配を殺して近づくなと申しておろう、まったく悪趣味な!」
ベルフェゴールは声を荒げたが、アラストルはどこ吹く風といった様子だった。
「ふふん、随分と楽しそうだったからな、声をかけるのも、はばかれるほど。
まあ、永年の望みが願いが成就(じょうじゅ)したのだ、浮かれるのも当然と言えば当然だが」

王兄は気を取り直した。
「まあよい、おぬしにも世話になった。
こうしてサマエルを我が物となすことが出来たのも、ひとえにそなたの働きのお陰だ」
その言葉に、アラストルの瞳がきらりと光った。
「では、俺の望みを叶えて頂こうか」
「……おぬしの望み? ……ええ、何であったかな?」
大公は、太った指をわざとらしく額にかざした。

アラストルは険しい顔をした。
「今さらとぼける気か!? 俺の女を、王妃の位に就けること!
そう言ったはずだろう!」
ベルフェゴールは、はたと膝を打った。
「おお、相済まぬ、うっかり失念しておっただけだ、そう怒るでない。
左様なものでよいとはと、不思議に思うたものだったが。女の名は後で、と申しておったな」

すると、男爵はにやりとした。
「くく……いや、まだだ。戴冠式の当日に教えてやる。それまで楽しみにしているがいい。
大層な美人だぞ、お前達だけでなく、家臣どもも皆、驚くこと請け合いだがな」
「何も、そうもったいぶらんでもよいではないか」
ベルフェゴールは不満げに言ったが、アラストルは謎めいた笑いを浮かべたまま、何を訊いてもそれ以上口を利かなかった。

ヘルメス魔術・文学・医学・オカルトの知恵を(つかさど)る神。

注)ベルフェゴールが唱えた呪文は、「ヘルメス讃歌」を参考に、光→闇、生→死、善→悪、父→母、聖→邪など、反対語に置き換えて作ったものです。