~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

7.血の版図(はんと)(4)

「……私は……ここで、何をしているのだ……ひどい……臭い、がする……」
サマエルがつぶやき、しびれた手から、元の色が分からぬほど鮮血で染められた剣が滑り落ちたとき、どこからか、拍手が聞こえて来た。

「素晴らしい! これでようやく、おぬしの天下だな、サマエル」
手をたたきながら、客間に入って来たのは、自力で歩くのもようやくといった感じの、これ以上なくでっぷりと太った人物だった。
サマエルやプロケルにも似た白い髪をし、立派なひげもたくわえてはいるが、品性に欠けているのは隠しようもなく、威厳においても、魔界王ベルゼブルには遠く及ばない。

「さあ、あちらへ参ろう。
おぬしの魔界王就任を、とやかく言う者は、もはや、いずこにもおらぬ。
我と共に祝いの席に着き、勝利の美酒に酔いしれるがよい。
美しい女どもも、選り取り見取りだ」
得意満面な相手に、サマエルは冷め切った視線を向けた。
「……この陰謀の主は、あなたでしたか、伯父上。
ご親切にも、私を魔界王の位に就けてくれようと?」

「いかにも。知っての通り、おぬしが幼き時より、我は密かな賛美者であったのだぞ……」
魔界大公ベルフェゴールは、猫なで声で言い、馴れ馴れしく甥の肩に手を置いた。
「よして下さい、賛美者などと……寒気がする」
それを振り払われてもまったくめげずに、今度は甥の手を取り、口づけようとする。
唇が触れる寸前、サマエルの銀髪が無数の白蛇に変化(へんげ)し、太った鼻に鋭く牙を立てた。
「うおっ!」
思わずのけぞる大公に、蛇達は声なき叫びを上げながら、さらに追い討ちをかけ、ところ構わず噛みつく。
「や、やめよ、サマエル! やめてくれい!」

「……ああ、申し訳ございませんね。つい、反射的に」
サマエルは、そっぽを向いたまま身を退き、蛇達をなでつけ髪に戻した。
「……おお、ひどい……まったく、左様に嫌わずともよかろうに……」
ベルフェゴールは、血だらけの手や顔を、さも痛そうにさすった。
「のう、サマエル。
我が弟も、次期魔界王に予定されておった口の悪い甥も、ついに()った。
最後までタナトスと競っておったおぬしが、次の魔界王となるは必定(ひつじょう)、我も、陰ながら支える心積もりなのだぞ」

軽蔑し切った眼差しを、肉の(かたまり)のような伯父に注いでいた第二王子は、ふと気づいて言った。
「ですが、“焔の眸”は、どうされるおつもりです?
代々、魔界王を決めて来たのですよ、彼の支持がなければ……」
「ああ、“あれ”か」
ベルフェゴールは指を鳴らす。次の瞬間、ドーム型の巨大な鳥籠が現れた。

それは黄金製で、高さは優に大人の背丈の二倍以上、広さはダブルベッドが楽に置けるほどもあった。
底には宝石箱の内張りに使われるような、柔らかな濃紺のヴェルベットが敷き詰められ、白いクッションがいくつか、投げ出してある。
持ち手のようになった部分には、魔力を封じるための魔法具が、装飾品めいて輝いていた。

「こら、いい加減にこっから出せ、ベルフェゴールのバカ、どヘンタイ野郎! オレは鳥じゃねーぞ! 
あ、サマエルじゃねーか、助けてくれよぉ! こいつ、マジにヘンタイなんだぜぇ!」
籠の縁に取りつき、哀れっぽく手を差し伸べているのは、魔界の至宝の化身、ダイアデムだった。
捕らえられたときに抵抗したようで、透き通る布で出来たズボンはひどく破れ、すたずたになった上着がそばに放り出してある。
その上、左の頬が痛々しく腫れ上がり、体中傷だらけだった。

「解放して欲しくば、サマエルを魔界王と認めよ、“焔の眸”!」
ベルフェゴールは、魔法で取り出したムチを、ぴしりと鳴らした。
「ひっ!」
小さく悲鳴を上げて後ずさり、半裸の少年は、力なく言った。
「一体、どういうことなんだよぉ……さっぱり分かんねーや……」
その眼が、倒れている三人を認めると、彼は再び身を乗り出す。
「げ、ありゃ……賢明公に、そのガキんちょ? ……それに、タナトスじゃねーのか!? 
……この血の臭い……ま、まさか!?」

「見ての通り、タナトスは死んだ。我が弟、ベルゼブルもな。
それゆえ、サマエルを、次の王に据えよと申しておるのだ、分かったか!」
大公が満足げに言うと、ダイアデムは口をぽかんと開けた。
「……ベ、ベルゼブルも死んだってぇ!?
どうしてだ? まさか、てめー、魔界王になれなかった腹いせに、二人共殺っちまったのか、この、ブタ野郎!」

「ブタとは何だ、まったく。我ではない、手を下したのは、このサマエルだ」
顔をしかめながら、ベルフェゴールは第二王子に向かって手を振った。
「えええっ!? 」
宝石の化身は、深紅の眼を見開いた。
その瞳の奥で、黄金色をした炎が激しく揺らぎ、少年はサマエルに視線を向けた。
「ウ、ウソだろ!? な、なあ、サマエル、こいつ、ウソついてんだよな?」

「………」
サマエルの、いつもは後ろで束ねられている見事な銀髪は、今は解けて、その美しい顔を覆っていた。
彼は、その奥で眼を伏せたまま、何も答えることが出来なかった。
ベルフェゴールは、にやりとした。
「偽りなどではないわ、積もり積もった憎しみと恨みとがついに爆発し、こやつは、おのれの父と兄とを手に掛けたのだ。
我は、しかと、この眼で見たぞ」

「そ、そんな……ホントなのか、サマエル」
いつになく真剣な口調で、再度、紅毛の少年は尋ねた。
サマエルは、ようやく重い口を開いた。
「……そう……殺した、よ。
正当防衛……などという、ありきたりな言葉で……自分の行為を、正当化するつもりは、ない……。
いずれにせよ……私が殺したことに、違いはない……のだからね……」

ダイアデムは顔を暗くし、首を横に振った。
「そ、そんじゃあ、お前を魔界王にするわけにゃいかねーぜ。
尊属(そんぞく)殺しは、魔界で第二の重罪だ、まして、自分の親であると同時に、主君でもある魔界王を……。
なあ、サマエル。今からでも遅くねーよ、全員、生き返らせようぜ。
知ってんだろ、オレらなら、それが出来んの……」

死者を(よみがえ)らせる、“死人(しびと)返し”の術。
これを使いこなすには、“死霊術(ネクロマンシー)”を始めとする闇魔法のみならず、聖魔法をも極めていなければならない。
魔界でこの術を使いこなせるのは、今のところ、魔界王家に仕える“眸”達だけであり、様々な観点から、それは王家の最重要機密とされていた。

サマエルもまた魔界の王子、当然知っていたものの、彼は否定の仕草をした。
「……無理、だ……。
今さら、甦らせたところで……陛下は……私を許しては下さらない、よ……」
「ンなコトことねーって! オレが取り成せば平気だって、絶対!
そ、それに、タナトスだって、魔界王にしてやんねーぞって言えば、きっと大丈夫だから!
な、だから、あいつら、生き返らせよ、な?」
ダイアデムは、一生懸命言い諭す。

たった独り生き残った魔界の貴公子は、乱れた髪の間から、宝石の化身を見上げた。
「そのタナトスが、私を……屈辱的立場に置くのを、楽しみにしている……としたら……?
殺す前、あいつは、私に……『魔力を奪った上で裸にし、鎖につないで犬同然に扱ったあげく、女の体に変えて俺の子を産ませてやる』……嬉々(きき)として、そう言っていたよ……。
生き返らせたりしたら、あいつは即、私を捕らえて実行に移すだろう……しかも、ジルを、その手に抱きながら、ね……」
「げ。ンなコト、言いやがったのか、あのバカ!」
紅毛の少年は、思い切り鼻にしわを寄せた。

「……こんな(てい)たらくでは……ジルのことは、諦めざるを得ないから……百歩譲ってそれに甘んじるとしても、その結果、生まれて来るのは、禁忌(きんき)の子供……。
濃過ぎる血ゆえに……おそらく、ひどい奇形か……精神の障害……あるいは、その両方を背負った、おぞましい子……一体、誰が……愛してくれる、というのだい……? 
私以上に、ひどい目に、遭い……生まれて来たことを、呪う……のでは、ないのか……? 
産み落とした瞬間、私は、気が狂い……我が子を……手にかけてしまうだろうよ……。
ああ、“焔の眸”よ……。
さらなる禁忌を……犯さねばならぬ、ほどに……私の罪は、重い……のだろうか……?」

不意に足から力が抜け、サマエルは鳥籠の細い針金を両手で握るも、力は入らず、ずるずると崩れ落ちて、しまいに膝をついた。
出来るものなら、彼は涙を流していただろう。
しかし、悲しいという感情は、遥かな昔に硬く凍りつき、第二王子は、決して泣くことが出来ない。
「サマエル!」
ダイアデムが思わず、その手に触れると、氷のように冷たかった。

蒼白な王子の顔を覗き込み、少年は必死に声を振り絞った。
「ンなコトさせねーから!
オレ達でお前を守ってやるよ、絶対、女になんかさせねー、ンな子供、産ませたりなんか……!
それによ、タナトスは、冗談で言ったんだって!
趣味悪りぃけどさ、ほら、あいつ昔から、お前をからかったり、(いじ)めんの大好きだろ?
──な? だから、本気じゃねーって!」
宝石の化身の説得にもかかわらず、第二王子は眼を閉じ、首を左右に振るばかりだった。

かつて、神族に追われ、魔族の人口が激減して以降、苦肉の策として、異母の兄弟姉妹間ならば、婚姻が許されてはいた。
太古、魔族は母系社会で、父親は同居せず、子供のみが母親の下で育ったため、異母の場合は、血縁意識が薄かったせいもある。
それでも、可能ならば、近親婚は避けた方がいいのは明白だった。

サマエルとタナトスは少なくとも同母であり、その上、魔法で無理矢理性別を変える、などという反自然的行為に出た場合、子供にどんな障害が出るかは、予測がつかなかった。
そして、魔界では、子殺しは最大の禁忌とされていた。
長年に渡る近親婚の弊害と、苛酷な環境により、赤ん坊が成人に達する率が極端に低かったからだ。

「もうよい、“焔の眸”!」
それまで、苛々と、二人の会話を聞いていたベルフェゴールは、突然声を上げ、音高く鳥籠の扉を開けた。
宝石の化身をわしづかみにし、外に引きずり出す。
「い、痛え、何すんだよ、放せ……っ!」
「これ以上の御託(ごたく)はいらぬ、痛い目に遭いたくなくば、サマエルを魔界王に指名せよと申しておる!
まだ、ムチが足りぬか!」

怒鳴りつけられても、ダイアデムは負けていなかった。
「い、いくらぶたれたって、ンなコト、出来るわきゃねーだろ!
ホント、頭悪りーな、ノーミソの代わりに脂肪が詰まってんだろ、この底なし胃袋ヘンタイジジイ!」
「な、何を申すか、無礼な! たかが石の分際で、減らず口を!
思い知らせてやる!」
ベルフェゴールはムチを振り上げた。

サマエルは伯父の腕を押さえた。
「お待ち下さい、伯父上。そんな野蛮なことをせずとも、私が彼を説得しますから」
「……ふん、ならば、やってみるがいい!」
ベルフェゴールは鼻息も荒く、紅毛の少年を突き放した。
「な、何されたって、こーなったらもう、オレが、残ったいっちゃん偉い魔界の貴族なんだ、てめーら謀反(むほん)人の命令なんざ聞かねーぞ、絶対に!」
ダイアデムは腕組みをして、あぐらをかく。

「……乱暴なことなどしなくとも、お前は、私に協力してくれるさ。
本当は、王の位など、どうでもいいような気もするけれど……。
こうなったからには、私が王を継がなければないのだろうな……責任上ね」
サマエルは片膝をつき、宝石の化身の紅い眼を覗いた。

「あ、ああ……」
漆黒の炎が瞳に灯ると、少年の体がガタガタと震え出す。
「私はこの力を、“黯黒の眸”から授かった。
いわば、お前とは親戚関係にあるというわけだ。
そのお前に、手荒なことはしたくない、分かるね?」
その口調は、優しいとさえ言えるものだった。

魔族の王子はさらに、ダイアデムのあごに手をかけた。
「ひぃ……っ!」
血なまぐさい臭いと、ひやりとした感触に、紅毛の少年は弱々しく悲鳴を上げ、逃れようとする。
サマエルは、か細い少年の手首を両方捕え、壮絶に返り血を浴びた顔を一層近づけた。
「大人しく言うことを聞いてくれないかな、“焔の眸”? 
私は、美しいお前を……壊してしまいたくないのだよ……。
まあ、壊れてしまった方がマシだと思うような目に遭わせ、言うことを聞かせることも、私になら出来るけれど……」

魔界の王子の全身から、夜より暗い思念が、黒い翼を広げるように湧き上がり、周囲を満たしてゆく。
やがて、獲物を求める触手のように、それは少年の体にまとわりつき、口や鼻、耳から体内に侵入しようとし始めた。
「うわ、入って来んなぁ! やめろぉ!」
宝石の化身は必死に首を振り、もがき、サマエルの手を振りほどこうとしたが、出来ない。
闇に触れられた部分はしびれ、力が抜けてゆく。

「お前は、“黯黒の眸”とは同一の結晶体から切り出されたのだったね。
“カオスの力”にも耐性があるのかも知れないが、闇のエネルギーに支配されるのは、あまりいい気分とは言えないと思うよ……」
ダイアデムの顔から血の気が引いた。
「い、嫌だ、オレ、経験あんだもん、それ!
やめてくれよぉ、あ…あんなの、もう嫌だ、たくさんだぁ!」
暴れる紅毛の少年の腕を、見かけに似合わぬ力で押さえつけ、サマエルは表情一つ変えずに続けた。

「たった一言でいいのだよ、ダイアデム。『サマエルを魔界王と認める』、と。
そうすれば、お前は私の妻も同然だ、決して粗末には扱わない。
タナトスなどより、ずっと優しくしてあげるよ。
殴ったりなどしないと約束しよう。
……そらそら、早く決断しないと、闇がお前の中に入って行くよ……。
そうしたら、お前は……暗黒に満たされ……輝くことも出来なくなって……意ある宝石とは……呼ばれなくなってしまうだろうね、可哀想に……。
いや、その方が、幸せかも知れない……どうかな……どちらがいい……?」

話しながら、サマエルの口調は、うっとりとしたものになっていき、視線も焦点を失って、さ迷い始める。
「私としては……紅く輝いているお前の方が好きだけれど……漆黒の貴石と化したお前を手元に置き……毎日、綺麗に磨き立てるというのも……ふふ、案外……楽しいかも知れないね……」
その口元には笑みが浮かんで、正気とはとても思えない状態になっていく。

「わ、分かった、お前を魔界王って認める!
だ、だから、こいつらをしまってくれよ、早く……!」
顔を紙のように白くした魔界の至宝は、悲痛な声を振り絞った。
到底太刀打ちできない圧倒的な力……偉大な狂気の前に、ついに屈伏したのだった。

切羽詰ったその声は、バランスが崩れかけていたサマエルの精神を、現実に引き戻した。
「……ああ、“焔の眸”……。
いい子だ。他の家臣達の前でも、そう宣言してくれると思っていね?」
「せ、宣言する、必ずすっから、もう、もう、カンベンしてくれよぉ!」
ダイアデムは、眼をうるませて叫んだ。

「初めから、そう言ってくれたらよかったのに」
サマエルは、にっこりして少年を解放したが、その凄艶(せいえん)な笑みは、そばで見ていたベルフェゴールの背筋をさえ、凍らせた。