7.血の版図 (4)
「……私は……ここで、何をしているのだ……ひどい……臭い、がする……」
サマエルがつぶやき、しびれた手から、元の色が分からぬほど鮮血で染められた剣が滑り落ちたとき、どこからか、拍手が聞こえて来た。
「素晴らしい! これでようやく、おぬしの天下だな、サマエル」
手をたたきながら、客間に入って来たのは、自力で歩くのもようやくといった感じの、これ以上なくでっぷりと太った人物だった。
サマエルやプロケルにも似た白い髪をし、立派なひげもたくわえてはいるが、品性に欠けているのは隠しようもなく、威厳においても、魔界王ベルゼブルには遠く及ばない。
「さあ、あちらへ参ろう。
おぬしの魔界王就任を、とやかく言う者は、もはや、いずこにもおらぬ。
我と共に祝いの席に着き、勝利の美酒に酔いしれるがよい。
美しい女どもも、選り取り見取りだ」
得意満面な相手に、サマエルは冷め切った視線を向けた。
「……この陰謀の主は、あなたでしたか、伯父上。
ご親切にも、私を魔界王の位に就けてくれようと?」
「いかにも。知っての通り、おぬしが幼き時より、我は密かな賛美者であったのだぞ……」
魔界大公ベルフェゴールは、猫なで声で言い、馴れ馴れしく甥の肩に手を置いた。
「よして下さい、賛美者などと……寒気がする」
それを振り払われてもまったくめげずに、今度は甥の手を取り、口づけようとする。
唇が触れる寸前、サマエルの銀髪が無数の白蛇に
「うおっ!」
思わずのけぞる大公に、蛇達は声なき叫びを上げながら、さらに追い討ちをかけ、ところ構わず噛みつく。
「や、やめよ、サマエル! やめてくれい!」
「……ああ、申し訳ございませんね。つい、反射的に」
サマエルは、そっぽを向いたまま身を退き、蛇達をなでつけ髪に戻した。
「……おお、ひどい……まったく、左様に嫌わずともよかろうに……」
ベルフェゴールは、血だらけの手や顔を、さも痛そうにさすった。
「のう、サマエル。
我が弟も、次期魔界王に予定されておった口の悪い甥も、ついに
最後までタナトスと競っておったおぬしが、次の魔界王となるは
軽蔑し切った眼差しを、肉の
「ですが、“焔の眸”は、どうされるおつもりです?
代々、魔界王を決めて来たのですよ、彼の支持がなければ……」
「ああ、“あれ”か」
ベルフェゴールは指を鳴らす。次の瞬間、ドーム型の巨大な鳥籠が現れた。
それは黄金製で、高さは優に大人の背丈の二倍以上、広さはダブルベッドが楽に置けるほどもあった。
底には宝石箱の内張りに使われるような、柔らかな濃紺のヴェルベットが敷き詰められ、白いクッションがいくつか、投げ出してある。
持ち手のようになった部分には、魔力を封じるための魔法具が、装飾品めいて輝いていた。
「こら、いい加減にこっから出せ、ベルフェゴールのバカ、どヘンタイ野郎! オレは鳥じゃねーぞ!
あ、サマエルじゃねーか、助けてくれよぉ! こいつ、マジにヘンタイなんだぜぇ!」
籠の縁に取りつき、哀れっぽく手を差し伸べているのは、魔界の至宝の化身、ダイアデムだった。
捕らえられたときに抵抗したようで、透き通る布で出来たズボンはひどく破れ、すたずたになった上着がそばに放り出してある。
その上、左の頬が痛々しく腫れ上がり、体中傷だらけだった。
「解放して欲しくば、サマエルを魔界王と認めよ、“焔の眸”!」
ベルフェゴールは、魔法で取り出したムチを、ぴしりと鳴らした。
「ひっ!」
小さく悲鳴を上げて後ずさり、半裸の少年は、力なく言った。
「一体、どういうことなんだよぉ……さっぱり分かんねーや……」
その眼が、倒れている三人を認めると、彼は再び身を乗り出す。
「げ、ありゃ……賢明公に、そのガキんちょ? ……それに、タナトスじゃねーのか!?
……この血の臭い……ま、まさか!?」
「見ての通り、タナトスは死んだ。我が弟、ベルゼブルもな。
それゆえ、サマエルを、次の王に据えよと申しておるのだ、分かったか!」
大公が満足げに言うと、ダイアデムは口をぽかんと開けた。
「……ベ、ベルゼブルも死んだってぇ!?
どうしてだ? まさか、てめー、魔界王になれなかった腹いせに、二人共殺っちまったのか、この、ブタ野郎!」
「ブタとは何だ、まったく。我ではない、手を下したのは、このサマエルだ」
顔をしかめながら、ベルフェゴールは第二王子に向かって手を振った。
「えええっ!? 」
宝石の化身は、深紅の眼を見開いた。
その瞳の奥で、黄金色をした炎が激しく揺らぎ、少年はサマエルに視線を向けた。
「ウ、ウソだろ!? な、なあ、サマエル、こいつ、ウソついてんだよな?」
「………」
サマエルの、いつもは後ろで束ねられている見事な銀髪は、今は解けて、その美しい顔を覆っていた。
彼は、その奥で眼を伏せたまま、何も答えることが出来なかった。
ベルフェゴールは、にやりとした。
「偽りなどではないわ、積もり積もった憎しみと恨みとがついに爆発し、こやつは、おのれの父と兄とを手に掛けたのだ。
我は、しかと、この眼で見たぞ」
「そ、そんな……ホントなのか、サマエル」
いつになく真剣な口調で、再度、紅毛の少年は尋ねた。
サマエルは、ようやく重い口を開いた。
「……そう……殺した、よ。
正当防衛……などという、ありきたりな言葉で……自分の行為を、正当化するつもりは、ない……。
いずれにせよ……私が殺したことに、違いはない……のだからね……」
ダイアデムは顔を暗くし、首を横に振った。
「そ、そんじゃあ、お前を魔界王にするわけにゃいかねーぜ。
なあ、サマエル。今からでも遅くねーよ、全員、生き返らせようぜ。
知ってんだろ、オレらなら、それが出来んの……」
死者を
これを使いこなすには、“
魔界でこの術を使いこなせるのは、今のところ、魔界王家に仕える“眸”達だけであり、様々な観点から、それは王家の最重要機密とされていた。
サマエルもまた魔界の王子、当然知っていたものの、彼は否定の仕草をした。
「……無理、だ……。
今さら、甦らせたところで……陛下は……私を許しては下さらない、よ……」
「ンなコトことねーって! オレが取り成せば平気だって、絶対!
そ、それに、タナトスだって、魔界王にしてやんねーぞって言えば、きっと大丈夫だから!
な、だから、あいつら、生き返らせよ、な?」
ダイアデムは、一生懸命言い諭す。
たった独り生き残った魔界の貴公子は、乱れた髪の間から、宝石の化身を見上げた。
「そのタナトスが、私を……屈辱的立場に置くのを、楽しみにしている……としたら……?
殺す前、あいつは、私に……『魔力を奪った上で裸にし、鎖につないで犬同然に扱ったあげく、女の体に変えて俺の子を産ませてやる』……
生き返らせたりしたら、あいつは即、私を捕らえて実行に移すだろう……しかも、ジルを、その手に抱きながら、ね……」
「げ。ンなコト、言いやがったのか、あのバカ!」
紅毛の少年は、思い切り鼻にしわを寄せた。
「……こんな
濃過ぎる血ゆえに……おそらく、ひどい奇形か……精神の障害……あるいは、その両方を背負った、おぞましい子……一体、誰が……愛してくれる、というのだい……?
私以上に、ひどい目に、遭い……生まれて来たことを、呪う……のでは、ないのか……?
産み落とした瞬間、私は、気が狂い……我が子を……手にかけてしまうだろうよ……。
ああ、“焔の眸”よ……。
さらなる禁忌を……犯さねばならぬ、ほどに……私の罪は、重い……のだろうか……?」
不意に足から力が抜け、サマエルは鳥籠の細い針金を両手で握るも、力は入らず、ずるずると崩れ落ちて、しまいに膝をついた。
出来るものなら、彼は涙を流していただろう。
しかし、悲しいという感情は、遥かな昔に硬く凍りつき、第二王子は、決して泣くことが出来ない。
「サマエル!」
ダイアデムが思わず、その手に触れると、氷のように冷たかった。
蒼白な王子の顔を覗き込み、少年は必死に声を振り絞った。
「ンなコトさせねーから!
オレ達でお前を守ってやるよ、絶対、女になんかさせねー、ンな子供、産ませたりなんか……!
それによ、タナトスは、冗談で言ったんだって!
趣味悪りぃけどさ、ほら、あいつ昔から、お前をからかったり、
──な? だから、本気じゃねーって!」
宝石の化身の説得にもかかわらず、第二王子は眼を閉じ、首を左右に振るばかりだった。
かつて、神族に追われ、魔族の人口が激減して以降、苦肉の策として、異母の兄弟姉妹間ならば、婚姻が許されてはいた。
太古、魔族は母系社会で、父親は同居せず、子供のみが母親の下で育ったため、異母の場合は、血縁意識が薄かったせいもある。
それでも、可能ならば、近親婚は避けた方がいいのは明白だった。
サマエルとタナトスは少なくとも同母であり、その上、魔法で無理矢理性別を変える、などという反自然的行為に出た場合、子供にどんな障害が出るかは、予測がつかなかった。
そして、魔界では、子殺しは最大の禁忌とされていた。
長年に渡る近親婚の弊害と、苛酷な環境により、赤ん坊が成人に達する率が極端に低かったからだ。
「もうよい、“焔の眸”!」
それまで、苛々と、二人の会話を聞いていたベルフェゴールは、突然声を上げ、音高く鳥籠の扉を開けた。
宝石の化身をわしづかみにし、外に引きずり出す。
「い、痛え、何すんだよ、放せ……っ!」
「これ以上の
まだ、ムチが足りぬか!」
怒鳴りつけられても、ダイアデムは負けていなかった。
「い、いくらぶたれたって、ンなコト、出来るわきゃねーだろ!
ホント、頭悪りーな、ノーミソの代わりに脂肪が詰まってんだろ、この底なし胃袋ヘンタイジジイ!」
「な、何を申すか、無礼な! たかが石の分際で、減らず口を!
思い知らせてやる!」
ベルフェゴールはムチを振り上げた。
サマエルは伯父の腕を押さえた。
「お待ち下さい、伯父上。そんな野蛮なことをせずとも、私が彼を説得しますから」
「……ふん、ならば、やってみるがいい!」
ベルフェゴールは鼻息も荒く、紅毛の少年を突き放した。
「な、何されたって、こーなったらもう、オレが、残ったいっちゃん偉い魔界の貴族なんだ、てめーら
ダイアデムは腕組みをして、あぐらをかく。
「……乱暴なことなどしなくとも、お前は、私に協力してくれるさ。
本当は、王の位など、どうでもいいような気もするけれど……。
こうなったからには、私が王を継がなければないのだろうな……責任上ね」
サマエルは片膝をつき、宝石の化身の紅い眼を覗いた。
「あ、ああ……」
漆黒の炎が瞳に灯ると、少年の体がガタガタと震え出す。
「私はこの力を、“黯黒の眸”から授かった。
いわば、お前とは親戚関係にあるというわけだ。
そのお前に、手荒なことはしたくない、分かるね?」
その口調は、優しいとさえ言えるものだった。
魔族の王子はさらに、ダイアデムのあごに手をかけた。
「ひぃ……っ!」
血なまぐさい臭いと、ひやりとした感触に、紅毛の少年は弱々しく悲鳴を上げ、逃れようとする。
サマエルは、か細い少年の手首を両方捕え、壮絶に返り血を浴びた顔を一層近づけた。
「大人しく言うことを聞いてくれないかな、“焔の眸”?
私は、美しいお前を……壊してしまいたくないのだよ……。
まあ、壊れてしまった方がマシだと思うような目に遭わせ、言うことを聞かせることも、私になら出来るけれど……」
魔界の王子の全身から、夜より暗い思念が、黒い翼を広げるように湧き上がり、周囲を満たしてゆく。
やがて、獲物を求める触手のように、それは少年の体にまとわりつき、口や鼻、耳から体内に侵入しようとし始めた。
「うわ、入って来んなぁ! やめろぉ!」
宝石の化身は必死に首を振り、もがき、サマエルの手を振りほどこうとしたが、出来ない。
闇に触れられた部分はしびれ、力が抜けてゆく。
「お前は、“黯黒の眸”とは同一の結晶体から切り出されたのだったね。
“カオスの力”にも耐性があるのかも知れないが、闇のエネルギーに支配されるのは、あまりいい気分とは言えないと思うよ……」
ダイアデムの顔から血の気が引いた。
「い、嫌だ、オレ、経験あんだもん、それ!
やめてくれよぉ、あ…あんなの、もう嫌だ、たくさんだぁ!」
暴れる紅毛の少年の腕を、見かけに似合わぬ力で押さえつけ、サマエルは表情一つ変えずに続けた。
「たった一言でいいのだよ、ダイアデム。『サマエルを魔界王と認める』、と。
そうすれば、お前は私の妻も同然だ、決して粗末には扱わない。
タナトスなどより、ずっと優しくしてあげるよ。
殴ったりなどしないと約束しよう。
……そらそら、早く決断しないと、闇がお前の中に入って行くよ……。
そうしたら、お前は……暗黒に満たされ……輝くことも出来なくなって……意ある宝石とは……呼ばれなくなってしまうだろうね、可哀想に……。
いや、その方が、幸せかも知れない……どうかな……どちらがいい……?」
話しながら、サマエルの口調は、うっとりとしたものになっていき、視線も焦点を失って、さ迷い始める。
「私としては……紅く輝いているお前の方が好きだけれど……漆黒の貴石と化したお前を手元に置き……毎日、綺麗に磨き立てるというのも……ふふ、案外……楽しいかも知れないね……」
その口元には笑みが浮かんで、正気とはとても思えない状態になっていく。
「わ、分かった、お前を魔界王って認める!
だ、だから、こいつらをしまってくれよ、早く……!」
顔を紙のように白くした魔界の至宝は、悲痛な声を振り絞った。
到底太刀打ちできない圧倒的な力……偉大な狂気の前に、ついに屈伏したのだった。
切羽詰ったその声は、バランスが崩れかけていたサマエルの精神を、現実に引き戻した。
「……ああ、“焔の眸”……。
いい子だ。他の家臣達の前でも、そう宣言してくれると思っていね?」
「せ、宣言する、必ずすっから、もう、もう、カンベンしてくれよぉ!」
ダイアデムは、眼をうるませて叫んだ。
「初めから、そう言ってくれたらよかったのに」
サマエルは、にっこりして少年を解放したが、その