7.血の版図 (2)
(……これは、夢だ。またいつもの悪夢だ……!)
サマエルは頭を抱え、がくりと膝をついた。
(……ああ、また、私は陛下に殺されるのか……。これで何度目だろうな……。
この前は心臓だった。その前は頭を割られ、首を斬られて……今度は……)
サマエルは、この場から逃げ出すことすら思いつかずに、突進して来る父親をただぼんやりと見ていた。
のろのろと、時間が進む。
少しずつ、少しずつ、鋭い輝きの凶器が、自分目がけて近づいて来る。
冷たく光る
“何をしておる、サマエル! 剣を避けよ!
これは夢ではない、現実だ! 憎くてたまらぬ父親を討つ、絶好の機会ぞ!”
頭の中に声が響く。
それが聞き覚えのある声のように感じられたと思う間もなく、反射的にサマエルは身をかわして、切っ先をよけていた。
「今の声は……あ、動ける……? 夢……ではない、のか……?」
戸惑っている彼に向かい、魔界の王は剣を突きつける。
「生意気な、我が剣を避けるとは! 大人しゅうしておれば、楽に死なせてやったものを!」
「へ、陛下、お待ち下さい、これは罠です!」
ようやく我に返ったサマエルは、必死に声を振り絞る。
しかし、対するベルゼブルも、すでに正気とは思えなかった。
「黙れ、この謀反人め、死ね!」
再び剣を構え直し、王が突っ込んで来るところを、彼は素手で受け止めた。
……つもり、だったのだが。
「──うぎゃあっ!」
絶叫が響き渡ったのは、その刹那だった。
「………!?」
いつの間にか、サマエルの手には、剣が握られていたのだ。
しかも、その先端からは、紅い雫が滴り落ちている。
彼は、しばし呆然とし、何が起きたかを把握出来ないでいた。
聞き慣れた声が、彼の名を呼び、袖を引いた。
「とうとう……やってしまわれたのですね……。
いつかは、こうなるんじゃないかって、父は、ずっと心配していました……」
はっとして眼をやると、そこに立っていたのは、公爵家のヴァピュラだった。
サマエルは、ライオン姿の少年をまじまじと見、それから頭を振った。
「ヴァピュラ……私は、一体……どうしたのだろう……。
よく、覚えていないのだ……。陛下に、呼び出されて……それから……?」
衝撃のあまり、彼の記憶は混乱してしまっていた。
少年は眼を丸くし、指差した。
「覚えてないですって?
だって、サマエル様は、たった今、陛下を、その剣で……」
「……剣? ──あ……っ!」
サマエルは、雷にでも打たれたかのように剣を放り出し、紅い液体で濡れた両手を見つめた。
「こ、これ……は、血……?」
「……ええ。ぼく、見てしまいました……」
そう答えるヴァピュラのたてがみは逆立ち、顔も引きつっていた。
「さ、叫び声が聞こえて……、急いで、ここに駆け込んだら、サマエル様が……へ、陛下に、剣を……突き刺してる、ところで……」
「そんな……そんな……。そうか、夢だ、これはまた悪夢だ、早く醒めてくれ……!」
激しく体が震え出し、サマエルはその場にうずくまった。
「と、とにかく、ここにいちゃ駄目です、僕の屋敷に行きましょう」
ヴァピュラは、必死に彼を揺さぶった。
サマエルは、やっとの思いで、顔を上げた。
「や、屋敷……グーシオンの……?」
「そうです」
ライオン頭の少年は、力強くうなずき、続けた。
「あ、その前に、陛下のご遺体をどこかに……。
そうだ、サマエル様のお部屋は、今は使われてませんよね、とりあえずそこに隠しましょう。
後から、ぼくか父が、もっと見つかりにくいところに移しますから。
ご遺体が見つからなければ、時間的な余裕ができます。
屋敷に落ち着いてから、ゆっくりと、今後のことをお考えになればいいと思います、よろしいですね」
まるで、こうなることを予期していたかのような、てきぱきとした段取りのつけ方だった。
その上、控えの間には、常に小姓と兵士が控えていている。
こんな騒ぎが起こったら、すぐに駆けつけて来そうなものなのに、それもない。
思えば、先ほどのことも、誰かが剣を、父王の手から彼の手へ転送したのだと考えれば、つじつまが合う。
一瞬、正気に戻ったサマエルは、疑いの視線を少年に向けた。
「ヴァピュラ……もしや、お前……」
「どうかなさいましたか、サマエル様?」
だが。見返す少年の眼差しは無邪気に澄み切っていて、彼の疑惑を裏付けるものは何もなかった。
そして、自分が犯してしまった罪──正当防衛とは言え、父親を殺してしまったのだ──その重さに思い至ったサマエルの眼は濁り、焦点を失っていく。
「……いや……お前に任せ……る……」
「はい、では、行きましょう」
ヴァピュラは、まず、魔界王の動かない体を天井近くまで浮かせ、結界で覆って見えなくした。
さらに、魔法で、床やサマエルについた血と臭いを消す。
こうして、手際よく始末をつけた少年は、死体と、抜け殻のようになった第二王子を伴い、執務室を後にした。
急ぎながらも、なるべく人目を避けて、ようやく目的地に着くと、ヴァピュラは辺りに気を配りながら、小声で促す。
「開けて下さい」
サマエルは、言われるまま掌を扉にあてがい、光と共に、音もなくそれは開いた。
ライオンの顔をした少年は、
「……さて、ご遺体をどこへ……」
彼は、壁に作り付けのクローゼットを開けてみた。
中には、かつてサマエルが着ていた服がそのまま並んでいたが、子供服は着丈が短いため、下の方には余裕がある。
「ここにしましょう。サマエル様のご不在のときに、こんなところを開けようなんて、誰も思わないだろうし」
獅子頭の少年は、いったん遺体を床に下ろし、結界を解いた。
「最後のお別れをなさいますか、サマエル様?」
「………」
「サマエル様!」
揺さぶられて、呆然としていた第二王子は我に返った。
「あ……ああ、何……?」
「陛下に、最後のお別れをなさった方が、いいんじゃないんでしょうか」
「あ……そ、そう……だね」
サマエルは、おずおずと、自分が殺してしまった父親の顔を覗き込んだ。
「……本当に……死んでいらっしゃるのですか、陛下」
言わずもがなな事を口にし、震える指で、そっと父の頬に触れてみる。
まだ温もりは残っているものの、呼吸は完全に停止し、胸に耳を当ててみても、鼓動は聞こえない。
彼は、しばらく、父王の胸に顔をつけたままでいた。
ややあって、静かにサマエルは口を開く。
「……ああ……死とは……あっけないものだね。
私も……死んだらこんなふうに、誰にも気づかれずに
──ねぇ、ヴァピュラ、教えようか。
記憶にある限り、私が陛下に触れることが出来たのは……これが初めてなのだよ……」
「ええっ、初めて……ですって?」
ヴァピュラはぽかんと口を開けた。
「そうだよ。物心ついてからというもの、陛下には、頭をなでてもらったことすらない……。
陛下は……ずっと私を……まるで汚いもののように……視線を向けることさえ避けておられたのでね……」
「サマエル様……」
少年は、何と答えていいか分からない様子だった。
いつの間にか、サマエルの唇には、透き通るような笑みが浮かんでいた。
「ねぇ、ヴァピュラ、今度は、私が結界を張ってもいいかい?
何だか、こうなって初めて、この人は自分の父親だ……そう実感できた気がするのだよ……。
……おかしいね、私が殺してしまったというのに……」
「ど…どうぞ……結界をお張りになって下さい……」
うなずく獅子頭の少年の眼から、抑えようもなく涙が流れ出す。
優しく微笑んだまま、サマエルは、ライオンの頭部をそっとなでた。
生えたてのたてがみが、以前と変わらず優しい感触を彼の手に伝えて来る。
「……お前はいい子だね……私の代わりに、泣いてくれるのか?」
「だって、だって、サマエル様……うっく、うう……」
ヴァピュラの涙は止まらなかった。
「……お前がうらやましいよ。私は泣くことが出来ない……。
カオスの闇に、感情の大部分を食われてしまったのでね……。
それに、今は、全然悲しいとは思えない……むしろ、父が私のものになったようで、喜びすら感じる……やはり、頭がおかしいのだね、私は……くくっ」
彼は諦めたように首を振り、名残惜しげに父親から体を離して、結界を張った。
喜んでいると口では言い、笑いさえしながら、サマエルの心は、どうしようもなく切ない思いで満たされていたのだった。
獅子頭の少年は涙をぬぐい、壊れ物を扱うように、白く
「さ、さあ、参りましょう、サマエル様。……父の屋敷に」
魔族の王子は、あらぬ方を見ながらうなずいた。
ごく当然のように、汎魔殿の巨大な城門をくぐる。
魔界の第二王子と公爵家の長男となれば、ケルベロス達が怪しむ理由もなく、すんなりと、彼らは門の外へ出られた。
「大丈夫ですか? サマエル様」
「……あ、ああ……」
サマエルの顔は、紙のように白くなっていた。
「すぐに着きます、もう少し我慢していて下さいね。
──ムーヴ!」
ヴァピュラは彼を気遣いながら移動呪文を唱え、公爵家の領地へと向かった。
* * *
「サマエル殿下!」
駆け寄って二人を出迎えたグーシオン公爵の顔色もまた、蒼白だった。
ヴァピュラを助けたことが縁で、何かにつけ自分を
「ああ、グーシオン……私……私は……取り返しのつかないことをしてしまったよ……!」
「ヴァピュラから、念話で、一通りの話は聞きました、ですが……早まったことをなさって……」
公爵は彼を、自分の子供でもあるかのように抱きしめた。
「夢だ、夢のせいだ。
誰かが私を陥れようと、悪夢を送り込んで来て……懸命にその源をたどろうとしたのだが、分からなくて……」
サマエルの言葉に、グーシオンは緑の眼を見開いた。
「悪夢、ですと? 夢魔の王子であられる、あなた様を陥れることが出来る者など、この汎魔殿には……」
「私は、王子などではないのかも知れない……陛下の子ではない……のかも……」
足から力が抜け、サマエルは玄関に膝をついた。
「ま、まさか、そんなことは……ああ、しっかりなさって」
「父上、サマエル様は、ひどくお疲れです、お話は後になさった方が」
ヴァピュラが口をはさむ。
「お、おお、そうだな。ヴァピュラ、そちらを支えて差し上げなさい。
さ、殿下、こちらへどうぞ」
両脇を抱えられるようにして、おぼつかない足取りでサマエルは、自分の城ほどではないにしろ、豪華な造りの公爵家の客間に足を踏み入れた。
その刹那、彼は、おのれの眼を疑った。
「ふん……来たな、サマエル。父親殺しの大罪人め!」
「タ、タナトス!?」
腕組みをしながらそこに立っていたのは、兄である魔界の第一王子、タナトスだったのだ。