7.血の版図 (1)
(……陛下、な、何をなさるのです!?)
「サマエル! やはり、この陰謀の首謀者はそなただったのじゃな!
覚悟致せ! 余が直々に
目の前に仁王立ちした父、ベルゼブルは、腰に
その紅い眼は、今まで彼が見たこともないほど、強く燃え上がっていた。
(おやめ下さい、陛下! 違います、私は……私は、陰謀の首謀者などでは!)
叫ぼうとしても、舌があごに張り付き声は出ず、逃れようとしても、体もなぜか動かない。
「死ぬがよい、サマエル! もっと前に、こうすべきであった!
アイシスの子ゆえと、かけた情けが仇になったな!」
父親の持つ剣が、自分目がけて振り下ろされるのを、彼はどうしようもなく、ただ見つめていた。
スローモーションのように、ゆっくりと、剣の切っ先がおのれの胸に突き刺さる。
その瞬間は痛みはなかったが、冷たい剣が肉を切り裂き、深々と貫いて、心臓に達した途端、全身を鋭い痛みが走り抜けた。
同時に、大量の血が斬り口から噴出して、辺りを真紅に染める。
「うわああああっっっ!」
サマエルは飛び起きた。
そこは、紅龍城の自室のベッドだった。
荒い息をつき、周囲を見回すが、暗い室内には誰の姿もない。
「イ──イグニス!」
わななく声で灯りをつけても、揺らぐ炎に照らし出された豪華なベッドには、血の跡などはなく、鋭い痛みを思い出して胸に触れてみても、体のどこにも傷一つなかった。
「く、くそ、またか、また……!」
彼は、歯を食いしばり、汗に濡れた手で布団を握り締めて、しばらくの間、心の痛みに耐えていた。
このところ、サマエルは、まともに眠ることが出来ずにいた。
魔界に帰って来たという緊張感からだけではなく、ちょっとうとうとしたりするだけで、決まって今夜と同じように、父や兄、時には伯父や叔母にまで殺される夢を見るせいだった。
魔族は元々夜の民、数日程度ならば、眠らずにいたところでどうと言うこともないが、それが数週間も続くとなると、さすがに
女達にも
しかし、彼自身も半分は夢魔であるがゆえに、一時間ほどで苦しくなり、そこから出なければならなかった。
もちろん、彼は、この悪夢を送ってくる相手を見極めようと奮闘していたが、汎魔殿を覆う強力な結界のために難航し、何度か術を行った場所は特定出来たものの、誰もが使える共有スペースだったりして、陰謀の主達を捕らえるところまでは至っていなかった。
汎魔殿の結界の中で、王子である自分に悪夢を見せることが出来る魔族などいるわけがない……単独では。
サマエルは、敵が魔界王家の血を引く者で、しかも、複数犯であることを確信した。
しかし、その間にも、悪夢は日に日に酷さを増していった。
親族に殺される夢は、幼い頃より見慣れたものとは言え、特に彼を悩ませたのは、つい最近見るようになった、母に殺される夢だった。
「か、母様……どうし、て……?」
今度は、かすれていたが声が出た。
夢の中、母アイシスは、小さな子供に戻った彼に向かって、厳しい顔で指を突きつけていた。
「お前は、生まれて来てはいけなかったのよ、サマエル。
お前のせいで、わたしは死ななければならなかったのだし、それに……それにお前は、魔族の王子などではないのだから!」
「え……」
少年のサマエルは、その意味するところを把握出来ずに、ぽかんと母を見上げた。
そんな彼に、無慈悲な声が降って来る。
「お前は、魔界の偉大な王である、ベルゼブル陛下の子供ではないって言っているのよ!
お前は、あの白い悪魔、大天使ミカエルの子なの!
わたしはあの忌まわしい男に襲われて……ああ、何度
母は髪をかきむしった。
「……!」
刹那、彼の体はびくりとし、紅い眼は、これ以上ないほど見開かれた。
そういう噂があるのは、彼も知っていた。
父王が、自分をまったく相手にしてくれないのは、そのせいかも知れないと思ったりもしたのだ……だが、もし噂が真実ならば、自分はとっくに殺されているだろうとも思った。
それでも、夢とはいえ、面と向かって母に、偉大な父親の子でないどころか、敵との間に愛もなく出来た子だと告げられる衝撃は、計り知れなかった。
口も利けずにいる彼に、アイシスは畳みかけた。
「だから、お前の精気を全部──そう、命をわたしに寄越しなさい、サマエル。
それを使って、時間を巻き戻すわ、お前を産み落としたあの時に。
お前の精気をすべて吸い取って、わたしは生き延びるのよ……!
いいでしょう、サマエル。愛する陛下も、可愛いタナトスも、それを望んでいるのだから!」
「う──嘘だ!」
それまで、ただ呆然としていたサマエルは、話の矛盾に気づいて叫んだ。
「か、母様は夢魔じゃない! 人族の女性は、精気なんか吸わないんだぞ、お前は偽者だ!」
すると、アイシスは、にたりと不気味な笑みを浮かべた。
「あら、わたしは夢魔よ。ベルゼブル陛下に魔物にして頂いたの。
……ほら、わたしの腕を伝って、お前の精気がわたしを
以前、“夢飛行”で見た、優しげな母親とは似ても似つかない歪んだ表情だった。
それを眼にして身震いするサマエルの首に、細い指がかかる。
「うっ、……!?」
「いい子ね……このまま、意識を手放しなさい。
そうすれば楽になれるし、それにわたしも、生き返ることが出来るのよ……!
お死に、死になさい、サマエル……!」
「うう、く、苦し……母、さ……!」
とても女とは思えない力で締め付けられて、サマエルは息が詰まった。
「いい子ね、もうお休み、サマエル……辛かったでしょう、でも、もう、すべて終わりよ。
死ねば、苦しみから解放される、お休み……お休み、サマエル。
お前が死んで初めて、わたしはお前を愛せるわ……そう、愛してるわ、サマエル、愛しい子」
女のサファイア色をした眼が、淫らなまでに濡れ濡れと輝き、
その指には、いつの間にか長く鋭い爪が生え、彼の首に食い込んで痛々しい
「う、や、やめ、誰、か……」
サマエルは女の手をつかみ、死を望む気持ちと懸命に戦っていた。
「なぜ、抵抗するの。お前は、ずっと死にたがっていたのでしょう?
生きていても、いいこと一つなかったというのに、そして、これからも何もないというのに、なぜ、まだ生きようとあがくの、サマエル?」
女は彼の首を締め上げながら、耳元でささやいた。
(……ああ、このまま眠ってしまいたい……でも、イナンナを、助けなければ、ジルが、悲し、む……。
──ああ、ジル!)
徐々にサマエルの体から力が抜け、気が遠くなっていく。
“闇の誘惑に屈しないで、ルキフェル。『光をもたらす者』よ!”
(──母様!)
突如、心の中に光が満ち、失神に至る寸前に我に返ったサマエルは、女の腕を引き剥がし床に転がって、難を逃れた。
「ごほっ、ごほっ、嘘だ、偽者だ! お、前は母様じゃない!」
喉に手を当て彼が叫ぶと、女は一瞬で
「な、何を言うの、この子は……。サマエル、わたしが分からないの……?」
サマエルは激しく首を振った。
「違う! お前は母様じゃない、母様は僕を、そんな風には呼ばない!」
「サ、サマエル、いい子ね、わたしはお前の母よ……」
女は焦った表情をし、手を差し伸べて来たが、彼は力いっぱい、それを払いのけた。
「黙れ、消えろ、幻め! 母様は、僕をそう呼んだことはないぞ!
僕は騙されないっ、失せろ、幻──!!」
絶叫した瞬間、第二王子は目覚め、激しく呼吸をした。
喉元には、再び手形がくっきりと現れていたものの、彼がそれに触れると、すぐに消えた。
汗で額に張りつく幾筋もの銀髪をかき上げ、彼は天を仰いだ。
「これは、タナトスが私を殺し損ねたときのものだ……母上に殺されかけたのではない。
こんなことで、私を追い詰めたつもりなら、大間違いだ」
口ではそう言いながらも、サマエルは生まれてきたこと、涙を流せないこと、そして、自分に関わるすべてのことを呪っていた頃に引き戻される自分を感じて、頭を抱えた。
(……ああ、このままでは、本当に狂ってしまう……。
もう、いっそのこと、本当に……いや、いけない、ジルはどうなる。
私の帰りを待っていてくれると言った、彼女は……。
ああ……でも、私などと一緒になって……彼女は、本当に幸せになれるのか……?)
こうして、悪夢は日ごとに現実感を増し、元々精神の安定していないサマエルは、次第に、夢と現実に起きている出来事とを区別出来なくなり始め、ジルと人界で過ごしていた生活の方が夢のように思えて来て、心は暗い絶望一色に塗りつぶされていくのだった。
* * *
そんな状態が、一月ほども続いた、ある日のことだった。
サマエルは、父王に呼び出された。
「お呼びでしょうか、陛下」
彼は、魔界王の執務室に入って行き、片膝をついて正式な礼をした。
「そなた、いつまで魔界におるつもりじゃ? 何かと理由をつけて、このまま居座るつもりではあるまいな?」
相変わらず、彼に向けられるベルゼブルの口調も眼差しも、刺々しかった。
家臣達が、サマエルの帰還のわけを憶測して盛り上がっているのを、小耳に挟むことがあっただけでなく、この頃では、それとなくではあったものの、直接理由を尋ねて来る者まで現れていて、王は、苛立ちを隠せなくなっていたのだった。
「居座るつもりなど、私には毛頭ございません。
ですが、敵は私に悪夢を見せるだけで、一向に、表立っては動こうとはしないのです。
探索には、未だ時間がかかると思われます、今少しのご
サマエルは、ていねいに頭を下げる。
しかし、息子を見下ろす魔界王の瞳には、この上なく険悪なものが宿っていた。
「いいや、もはや待てぬ! やはり、首謀者はそなたじゃな!
かように、のらりくらりと滞在期間を延ばしたあげくに、陰謀の
覚悟せい、サマエル! 余が直々に
魔界王は、紅い眼を燃え上がらせ、腰に帯びた黄金製の剣を、勢いよく抜いた。
サマエルは驚愕し、後ずさった。
「お、おやめ下さい、陛下! 違います!
私が陰謀の首謀者などと、そ、そんな……!」
「黙れ、問答無用じゃ、この反逆者めが!」
必死の叫びも空しく、父王は聞く耳をもたず、ぎらぎらと光る剣を手に、彼に迫って来る。
そのシチュエーションは、彼がいつも見る悪夢と、そっくり同じだった。