6.月の甘き誘惑(4)
数日が経った。
そろそろ敵が動く頃合いだと考え、独りきりで回廊を歩いていたサマエルの前に、不意に飛び出して来た紫の影があった。
「何奴!」
「……失礼致シマシタ。さまえる様ニハ、ゴキゲンウルワシク……」
身構える魔界の王子に向かい、二本の足で立ち上がってうやうやしく頭を下げたのは、猫ほどにも大きい、バッタに似た使い魔だった。
「ワタクシノ主人ガ、オ会イシタイト申シテオリマス、少々オ時間ヲ頂ケマセンデショウカ」
「……ああ、構わないが」
彼が答えると、紫色をしたバッタは節のある前足で、使われていない客室の一つを指さした。
「コチラニテ、主人ハ、オ待チシテオリマス」
サマエルは慎重に周囲を探ってみたが、内部にいるのは一人きりで、危険な力の発動も一切感じられない。
それでも彼は、最大限に用心しながら部屋に入った。
「ご無礼の段、平にご容赦願います、サマエル殿下……」
のそりと、うずくまっていた影が起き上がった。
闇の中に緑の眼が、怪しく光っている。
「……何者だ?」
魔族の王子は、冷静な声で
「お久しぶりでございます。
お忘れになられたことと思いますが、わたしはヴァピュラ、千年以上前、あなた様に命を救われた者でございます」
暗がりの中、相手は深々と頭を下げた。
「私が命を助けた……だって?」
彼はあっけに取られた。
「はい。塔の窓からふざけて身を乗り出し、落ちてしまったところを、サマエル殿下に救われたのでございます。
当時、わたしはまだ、八百歳(人間の五、六歳くらい)でございました……」
(……そんなことがあったか? 千年前に……?)
サマエルは、首をかしげた。
「あ、失礼しました、灯りもつけませんで……」
不審そうに彼が無言でいると、ヴァピュラと名乗る者は、ぱちんと指を鳴らし、燭台に灯を入れた。
第二王子は改めて、相手の容姿に視線を注いだ。
揺らぐろうそくの火に浮かび上がったのは、短めの紅いたてがみと、深い緑色の眼、あまり毛深くはなかったものの、顔はライオンそのものだった。
しかし、体の方はそうではなく、完全に人型をし、貴族にふさわしい上等な服を着込んでいた。
その瞬間、悲鳴と共に子供が塔から落下して来る情景が、サマエルの頭をよぎった。
「──ああ、ああ、思い出したよ。
グーシオン公爵のところのおちびさんか、大きくなったね……」
相手に思い当たったこともあり、ようやく王子は、警戒を解いた。
「はい、その節は、誠にありがとうございました。
当時は、まだ羽も小さく、飛ぶことが出来ませんでしたので、危うく死ぬところでございました」
再び、ヴァピュラは礼をする。その背中には、コウモリに似た漆黒の翼が生えていた。
サマエルは大きくうなずいた。
「そうだったねえ。あの時は突然、お前が落ちてきたので驚いたよ。
とっさに受けとめることが出来て、本当によかった。
……たてがみが生え始めたのだね、もうそんな年になったのか。触れてもいいかい?」
「は、はい、喜んで。わたしも、やっと、一万二千歳(人間の十一、二歳)になりました」
公爵家の長男、ヴァピュラは、おずおずと近寄って来る。
ライオンそっくりな少年の頭は、ちょうど彼の腰と高さが同じだった。
炎の色をしたたてがみに、第二王子はそっと手を
「……二千歳か……。おお、柔らかいな、それに、美しい……」
綿毛のような感触と共に、安心感を与える温もりが伝わって来て、彼は眼を細め、かつて命を救った少年の頭を優しくなでた。
ヴァピュラは頬を赤らめた。
「う、美しいだなんて、そんな」
「本当だよ。今はまだ短いが、もっと伸びれば、さらに見事なものとなるだろう。
シンハのたてがみが、炎ではなく普通の毛だったなら、こんな感じになるのかも知れないね……」
サマエルは名残惜しげに手を引くと、少年は、獅子の頭を勢いよく左右に振った。
「シ、シンハ様とは、比べものになどなりませんよ。あの方は真実、魔界の宝物です。
サマエル殿下とお並びになった姿は、失礼ですが、タナトス殿下よりも、よほどお似合いだと、皆、申しております……」
魔族の王子は、わずかに眉をしかめた。
「……お前まで、私に、魔界の王になれと言うのかい?」
「い、いえ、ぼく……いや、えーと、わたしはただ、サマエル殿下がお望みなら……と思っただけです、ごめんなさ……いえ、も、申し訳ありません……!」
慌てる口調も、ぴょこんと頭を下げる仕草も幼くて、思わず、サマエルの唇に微笑が浮かぶ。
「『ぼく』と言って構わないよ、その方が話しやすいだろう?
それに、皆が、陰で色々言っているのは、私も知っている。
今さら、魔界王の位など、欲しくもないけれどね……」
少年は、小首をかしげた。
「じゃあ、やっぱり、お早目に、人界へお帰りになられた方がいいんじゃないでしょうか?
父が言っておりました、陛下はひょっとして、この機会にサマエル様を……って」
「……さすがは賢明公グーシオン、当たらずとも遠からずだ……」
沈んだ口調で答えるサマエルに、獅子頭の少年は驚愕の眼差しを向けた。
「──ええっ、ほ、本当に!? そ、それは大変だ、今すぐ魔界をお出にならないと!」
そして、すぐにでも帰らせようとするかのように、王子のローブを引っ張り始める。
サマエルは、慌てふためく少年の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、落ち着きなさい、ヴァピュラ。手を離して。
たしかに、陛下は初め、私を捕えようとした。
けれど、……まあ、ちょっとした取り引きが成立してね。
それに、私は“カオスの貴公子”、少なくとも二千年後までは、殺されはしないさ」
ヴァピュラは、ほっとしたように動きを止める。
「……そうですか、それなら……よかった。
でも、陛下はひどいことをなさいますね……同じご兄弟なのに、どうしてサマエル様にだけ、……」
「──しっ」
第二王子は口に指を当て、少年の話をさえぎった。
「それ以上、言ってはいけない。どこで誰が聞いているか、分からないからね」
「す、すみません、でも……」
謝ったものの、ヴァピュラは、明らかに言い足りない様子だった。
「……いいさ、もう慣れているから。
そうだ、母君はお元気かな」
王子が話題を変えると、公爵の息子ははっとし、それから眼を伏せた。
「あ、あの……母は十年前、二番目の弟を産んで……」
サマエルは息を呑んだ。
「……そうか、すまない。それはお気の毒だったね、綺麗な方だったが」
少年は気を取り直し、ライオンの顔を上げた。
「はい、美しさでは、サマエル様に当然勝てませんでしたけど、ぼくにとっては、最高の母でした。
けど、弟達がまだ小さくて、大変で……だから、一昨年、父は再婚したんです」
「そう。新しいお母さんとは、うまくいっているの?」
「……え? ええ、まあ……」
ヴァピュラは、ちらりと彼を見、言葉を濁した。
(ははあ、あまりうまくはいっていないのだな……)
サマエルはそう直感し、同情を込めて言った。
「……そうか。お前も結構大変なのだね……。
もしよかったら、話してご覧。話すだけでも、気が晴れるかも知れないよ」
「はい」
少年は素直にうなずき、自分の頭を指差した。
「……別に、仲が悪いってわけじゃ、ないんですけど、
何となく、それが伝わってきちゃって、ぼくもなつけなくて……それで、何か、ぎくしゃくしちゃうっていうか……」
「……ふうむ」
サマエルは頭をひねった。
「それは不思議だね。魔界では、獅子頭の子供が産まれるのは
どこの家でも、盛大に祝うものと決まっているのに」
ヴァピュラは緑の眼を
「でも、義母上は……そうはお考えになってられないみたいで……」
「それはまた、なぜ」
不審そうな彼に、少年は話し続けた。
「義母上は、伯爵家からお嫁に来たんです。
あちらでは、獣めいた姿をした者がいないのが自慢で……。
そういう子供が生まれると、こっそり座敷牢に閉じ込めちゃう、なんて噂もあります。
だから、きっと、義母上も……」
第二王子は肩をすくめた。
「……やれやれ、まだそんな迷信に囚われている、過去の遺物が存在するとはね……。
ああ、さしずめ、あの石頭のフールフール伯爵だな。
気にすることはないよ、ヴァピュラ。獣に似た姿を恥じる、その方がおかしいのだから。
我ら魔族は、たとえ人型で生まれたとしても、第二次性長期には必ず
すると、ヴァピュラは涙をぬぐい、にっこりした。
「でも、もう、大丈夫なんです。
だって、去年、赤ちゃんが……ぼくにとっては三番目の弟が産まれて、少し、義母上も変わられたんです。
……っていうより、変わらなきゃいけなくなったって言うか」
「ほう。どう変わったのかな。ひょっとして……」
「ええ、その弟、ヴァレフォルは、獅子頭だったんです!」
少年は自慢げに叫び、サマエルは微笑んだ。
「……それは皮肉だね。でも、よかったではないか?」
「はい」
ヴァピュラは、ライオンの頭で大きくうなずいた。
「初めは、義母上もびっくりしてたんですけど、父は大喜びで。
一家に、二人も獅子頭の子供がいるなんてめでたいって言って、伯爵もお呼びして、とっても盛大にお祝いをしたんです。
……それで、義母上も気を変えられたみたいで、ぼくに対する態度も、よそよそしさが減ったみたいで……」
そこまで言うと、少年は緑の瞳を輝かせ、身を乗り出した。
「そ、それに、弟が可愛いんです、すっごく!
内緒ですけど、義母上よりぼくになついてて、ぼくがあやすの、一番うまいんです!
そのお陰で、この間、やっと『ははうえ』ってお呼び出来たんです。義母上も、喜んでくれて!」
「そう、それはよかったね、偉いぞ」
ヴァピュラと話すうち、サマエルの表情は、魔界に来てから初めてと言っていいほど、柔和になっていった。
「ゴ主人様、ソロソロ、オ屋敷ニ戻ルオ時間デス……」
「あ、いけない。
長々とお引き留めしてしまって、どうもすみません、しかも、こんな場所に……」
ヴァピュラは、ぺこりと頭を下げた。
「時間などは構わないが、どうして、私の部屋に来なかったのだね?」
サマエルが尋ねると、少年は顔を赤らめた。
「……あ、あの、実は……何度か、お訪ねしようと思ったのですが、お部屋の前は、いつも女性達で一杯で……そのぉ……」
夢魔の王子は苦笑した。
「……そうだったか。
いや、気にしないでいいよ、あのお色気過剰なサキュバス達の群れを、子供がくぐり抜けるのは至難の
それでも、今日は、お前と話が出来てよかった。久しぶりに心から楽しませてもらったよ。
今度は、私から公爵家を訪ねよう。末の弟にも、会ってみたいしね」
「はい、是非いらしてください、お待ちしています。
父も、改めてお礼をしたいと申しておりましたから」
少年は、心底うれしそうにうなずく。
「では、近いうちに、ぜひ、寄らせてもらうよ」
「はい、では、失礼致します」
深々と礼をして第二王子と別れたヴァピュラは、すぐには屋敷に戻らず、使い魔を従えて汎魔殿の中をかなり歩き、とある部屋のドアをノックした。
「誰だ」
「ヴァピュラです」
「入れ」
「失礼します」
中に入ると、獅子頭の少年は、やはりていねいに頭を下げ、部屋の主に報告をした。
「……という感じで、お話をして来ましたが、これでよろしかったのですか?」
「うむ、上出来だ。公爵家のヴァピュラよ、これからも、陰ながらサマエルを支えてやって欲しい。
サマエルは敵多く、味方はほとんどおらん。
女どもは、ただ外見に魅かれ、灯りに集まる虫よろしく、周囲をぶんぶん飛び回っているだけだ」
謎の男は、彼をねぎらった。
「はい、分かりました」
再び礼をし、ヴァピュラは部屋を後にした。
部屋の主が、少年が出て行ったドアを見つめ、考えを巡らしていた時、ふと室内の空間が揺らいだ。
「公爵家のヴァピュラか……可愛いものだのぉ、あのような
太った男が部屋の中央部に現れて、デルタは心の中で顔をしかめた。
「あんたか、アルファ。俺には、そんな趣味はない」
アルファも、不機嫌な顔つきだった。
「おぬしに礼儀を期待するのは無駄と分かっておるのだがな、せめて“あんた”呼ばわりだけはやめて欲しいものだ」
「ああ、そうだったな、済まん、忘れていたよ」
そう答えたものの、デルタは、これからも“あんた”で通そうと固く心に決めていた。
「……それはさて置き、あのようなやり方、サマエルを元気づけるだけではないのか?」
アルファの問いかけに、デルタは軽く肩をすくめる。
「ふん……あやつが頼りにすればするほど、裏切られたときのショックは大きかろうさ。
当然、グーシオン公爵にも手を回すが」
アルファは、脂肪に埋もれかけた紅い眼を見開いた。
「賢明公に? なれど、容易ではあるまいぞ。
ヤツは、イシュタルを除けば、サマエルびいきを隠さぬ、唯一の貴族なのだからな」
「新しい妻、生まれたばかりの赤ん坊……脅すネタはいくつもある」
デルタは、表情も変えずに言ってのけ、アルファは亀のように短い首をすくめた。
「陰険よな、おぬしは」
「──何を言う、あんたらが、手ぬる過ぎたのだ!
ベルゼブルとタナトスを亡き者にし、サマエルを通じてこの魔界に君臨するために、俺を仲間に引き入れたのだろう!」
このぶくぶく太った男と話しているとき、いつも感じる苛立たしさを抑えかねて、ついに、デルタは強く机をたたいた。
「まあまあ、そう熱くなるでないて」
アルファは手をひらひらさせ、なだめるような声を出す。
「それより、“眸”どもはいかが致す? ことに、“焔の眸”が認めねば、魔界王とはなれぬのだぞ」
デルタは顔を背け、この男と一緒の空間にいるという、
「そのことか。そもそも、“眸”どもは魔界王の
それに、サマエルは、タナトスよりよほどうまく“焔の眸”を扱えると言ったのは、あんただろう」
「左様な回りくどいことをせずとも、この際、殿下みずからが、王位に
その時、もう一つの影が、部屋の中に出現した。
「ガンマか」
デルタはどうでもよさそうに言った。
アルファは鼻にしわを寄せ、相手を睨んだ。
「何を今さら。幾度も申しておるではないか、我では、家臣どもが従わぬであろうと。
……そなたこそ、何ゆえ、おのれでそうせぬのだ」
後から現れたガンマは、顔色を変えた。
「な、何を馬鹿な、殿下が出来ぬものを、さらに格下の我が、どうして出来ましょうや……!」
「ふん! それではおぬしも、こちらのことを、とやかく言えんではないか!」
「いい加減にしろ、もめごとは、どこかよそでやれ!
俺はこれから、次の段階への準備にかかる、邪魔をするな!」
いたたまれなくなったデルタは、口論する二人を怒鳴りつけた。
仲間に引き入れるために貴族へと引き上げた男に睨みつけられ、二人の貴族は我に返った。
「お、おう、デルタ。これは済まぬことをした」
「おぬしだけが頼りじゃ、邪魔をするつもりはない、のう、アルファ殿。我らは早々に退散致すゆえ」
二つの影は慌しく引き上げていき、険しい顔で残った男は、端正な