6.月の甘き誘惑(3)
「……なぁんだ、やっぱり、魔界の女はダメなのね、サマエル様は。
お相手が、あのイシュタル叔母様でも」
その声にサマエルが振り返ると、少し離れたところに、黒尽くめの人物の姿があった。
「リリス……キミは、今までどこにいたのかな?」
気配に気づいていた彼は、顔色も変えずに問い掛ける。
「あちこちよ。……でも、サマエル様はいいわね、冷静で。
タナトス様だと、あたしの話なんかろくに聞きもせず、すぐに飛びかかって来ちゃうもの」
少女は、すっぽりとかぶっていたフードを後ろにはねのけ、乱れた髪を整えた。
このじゃじゃ馬娘をどうしたものかと、密かに考えを巡らしながら、サマエルは訊いた。
「なぜ、イナンナをさらったのか、教えて欲しいものだが。
不満があったのなら、タナトスに直接言えばよかっただろうに」
リリスは頭を振った。
「出来るわけないでしょ、そんなの。聞く耳持ってくれないんだもの。
それに……」
「……それに?」
「彼女が…すごくキレイで……だから、口惜しかったの……」
うつむき加減に少女は言った。
「八つ当たり…というわけかな? その割には、ネビロスは彼女を……」
言いかけた彼を激しくさえぎり、リリスは叫んだ。
「やめてよ! あたし、そこまで
あの子は、タナトス様のこと本気で好きで、あんなに一生懸命なのに!
“要石の間”に置いて来たのは、あたしの気まぐれで、あいつには指一本、触れさせてないわよ!」
意外な真情の
「……リリス。キミは、本当に、タナトスのことが好きなのかい?」
大人びてはいてもまだ少女、リリスは、子供のように口をとがらせた。
「当たり前じゃない。王妃になるにはそれしかないわ。
だから、好きになるように頑張ってるわよ」
「……頑張る? ……それはやはり、本当は好きではない、ということなのでは……」
「いいじゃない~、そんな細かいことは~」
そのとき、突然、リリスの話し方が歌うように変わり、次いで人差し指を立てると、リズムに合わせて左右に振った。
「……あなたが王様になるんなら、あたし、あなただっていいのよ、サマエル様~?」
どこかで見たような仕草だとサマエルが思っているうちに、少女は、影のようにまとわりつかせていたマントを、はらりと脱いだ。
その下には、何も着ていなかった。
「リリス……」
「叔母様がダメでも、あたしならどう~? ねえ、サマエル様~」
妖艶に微笑みながら、彼女は、均整の取れた体全体がよく見えるように腕を広げ、豊かな胸を突き出して見せる。
サキュバスの甘い誘惑。並みの男なら、この時点ですぐに理性を失い、彼女を押し倒していたことだろう。
しかし、サマエルは魔界の王子、彼自身も最上級の男性夢魔であり、女性夢魔の誘惑には耐性があった。
それでもその気さえあれば、インキュバスとサキュバスの
眩しいほどの少女の裸体に、美術品でも鑑賞するような眼差しを注いでいたサマエルは、しばしの間の後、すいと彼女に近づいていき、その背中に腕を回した。
「……しばらく見ないうちに、さらに美しくなったね、リリス……ちょっと、味見してみたくなったな」
「ちょっとなんて言わないで。あたしを王妃にしてくれるんなら、幾晩でも……」
リリスは、彼に身をすり寄せて来る。
豊満な胸が着衣越しに彼の体に触れ、サマエルは、わずかに笑みを浮かべた。
「……素晴らしいね、では、遠慮なく……」
彼は少女の頬を掌で包み込み、ゆっくりと唇を近づけていった。
「ねぇ、リリス……」
「……何、早くして……」
リリスの声は、すでに熱く、かすれていた。甘い吐息が
「私の眼をご覧……」
「え……?」
その言葉につられて、つい、サマエルの眼をまともに見た瞬間、勝負はついた。
「……ああ」
一声ついて、白い髪の少女の体から、完全に力が抜ける。
「油断したね、リリス。この“魔眼”のことを忘れるなんて……。
いい夢をご覧。現実では決して叶えられることのない、極上の夢を、ね」
サマエルは、瞳から闇の炎を消し、唇だけで微笑んだ。
(よし、あとはタナトスに引き渡せば……)
周囲を見回し、空き部屋の一つのドアを開ける。
ソファにリリスを寝かせ、兄を呼ぼうとした、その刹那。
「リリスは返してもらうぞ!」
鋭い声と共に黒い影が、少女の身体を奪っていった。
一瞬の出来事だった。
「……ネビロス総統か」
背中に黒い翼を生やした魔界の貴族が、ぐったりしたリリスをマントに
「お前は、本気で、魔界王家にたてつく気なのだね」
サマエルの言葉は半分は問いだったが、半分は断定だった。
「そうだ! わたしは、リリスがいてくれさえすればいい、王家への忠誠は、もはや捨てた!」
「……彼女が、お前のことを何とも思っていなくとも?」
「──く!」
ネビロスは、歯を食いしばった。
「そう、冷静になってみるがいい、彼女は、お前のことなど、使い捨ての駒としか思っていないのだ」
「そ、そんなことはない! いや、たとえ、そうだとしても、わたしは……」
「──黙れ、ネビロス! 私を見ろ!」
突如、威厳ある大声をサマエルは出し、命令されることに慣れていた魔界の総統は、反射的に彼を見てしまう。
「あ……」
途端にネビロスの体は硬直し、第二王子から視線を外すことが出来なくなった。
「よし、そのまま戻って来なさい、ネビロス。お前は今も昔も、魔界王家に忠実な者のはず。
一時の迷いは捨て、リリスを連れて戻れ……」
サマエルの紅い瞳には、再び、揺らめく暗黒の炎が灯っていた。
ネビロスの眼から光が消え、頭が、炎の揺らめきに沿って揺れ始めた。
「さあ、早く、ネビロス……」
「は……い……」
虚ろな目つきの総統が、彼に向かって一歩踏み出したとき。
『正気に戻れ、ネビロス! 逃げろ!』
突如、叫び声がし、ネビロスは我に返った。
「くそ、危ないところだった! ──ムーヴ!」
急ぎ移動呪文を唱え、総統は姿を消す。
サマエルは耳を澄まし、声の主の気配を探ったが、すでにそれは消えていた。
「……逃がしたか。まあいい、まだ機会はある……」
(しかし、あのネビロスが、これほど、リリスにのめり込むとはね。
軍律一辺倒のコチコチ軍人だった彼が、身を持ち崩し妻も子も捨てたあげく、国までも……。
まあ、私も、他人のことはとやかく言えないが……。
それにしても、相手が女性だったら、あんな叫び声程度で逃げられることもなかったのだがな。
今度は、男を誘惑する術でも習得してみようか)
サマエルは、銀色に輝く、長い髪をかき上げた。
あらわになる、白いうなじ。そのまま、サラサラと髪を落としてゆく。
本人にはまったく自覚はなかったが、特別に訓練などしなくても、誘惑される男性がいるだろうと思わせてしまう、かなり
「……む。それはさて置き、ちょっと困ったことになったぞ。
サキュバスの残り
……ふう……体が熱い、参ったな」
彼が、手で顔を
「まあ、サマエル様、こんなところで、どうなされたのですか……?」
まるで、彼の肉体の変化を見計らったかのように、女官のお仕着せをきちんと着こなした女性が一人、近づいて来た。
「……キミこそ、こんな夜中に、どうしたのかな?」
ローブの中で油断なく身構えながら、彼は尋ねた。
「あの、公爵夫人様のお衣装を仕立てておりましたら、いつの間にか、こんな時間になっておりまして……」
「お
取り立てて怪しいところはないと見て、彼は立ち去りかけた。
「はい。あの……サマエル……様?」
そんな彼の背中に、女官がおずおずと声をかけて来る。
「何かな?」
振り返ると、女官は手を握り締めて顔を赤らめ、眼を
「あ、あの、わたくし……ずっとずっと、あなた様をお
念入りに塗られた口紅と濃いアイシャドウが、夜目にも鮮やかだった。
(……おやおや。
サマエルは、密かにため息をついた。
「で、ですから、その……も、もし、お嫌でなかったら、わたくしを今夜の
「そこまで」
彼は人差し指を、女官の唇に軽く押し当てた。
「私の眼を見て。お眠り。いい夢をね」
第二王子は、無造作に魔眼の力を使って女官の気を失わせ、抱き上げると、先ほどリリスを連れて入った部屋のソファに寝かせる。
「今の騒ぎで小腹が空いたな。すまない、ほんの一口、もらうよ」
女の体に掌をかざし、ごくわずか、精気を頂く。
「私に会ったことも、こうして夢を見せられたことも忘れて眠るがいい……。
……私に関わっても、いいことなど、一つもないのだから……」
備え付けの毛布をそっとかけてやってから、部屋を出る。
「……さて、と。叔母上のお誘いはお断わりしてしまったし。
仕方がない、夜風にでも吹かれて、
サマエルは、四階のテラスに出てみた。
丸い小型のテーブルと白い椅子が、いくつか人待ち顔で置いてあり、
“青ざめた兄”と“
本当は、月ではなく、これらの天体とこの魔界とは、三重連星なのだと言われている。
結界を張るため、魔族の先祖達が魔力で空間バランスを変化させ、“ロッシュの限界”を越えて、現在の状態を保っているのだと。
「……二つ月、か。懐かしいと言うより、旅行者の気分だな……。
私にとって、この世界は、もう故郷でも何でもない気がする……」
つぶやくと、彼は椅子の一つに座り、魔法でお気に入りのワインを取り出してグラスに注いだ。
第二王子の透き通るような肌と銀髪に、青と紅の月光が降り注ぎ、陰影をつけて美しさをさらに引き立てるさまが、優雅な形状をしたワイングラスに映し出される。
「ねぇ、リリス。
魔界の女性が駄目というよりは、キミも含めて、女達が油断ならな過ぎるのだよ」
サマエルは、目前の席に従妹が座っているかのごとく、話し始めた。
「……たとえば、さっきの女官だ。
今まで裁縫をしていたと言いながら、眼をしょぼつかせるでもなく、服にも糸くず一本付いているでなし、大体、服装自体が整い過ぎている……。
顔だって、たった今、念入りに化粧して来たばかりのようだ……あれでは、私を待ち伏せしていたとしか思えない。
……自発的にか、誰かに命じられたか、それは分からないけれど」
サマエルは、言葉を切り、端正な眉をかすかに曇らせた。
幼少期、貴族達には、まるでそこにいないかのように扱われ、女達には、病気持ちのように避けられていたことを思い出したのだ。
魔界王に
しかし、彼が、“紅龍の試練”を乗り越えた途端、事態は一変した。
女達は突如、今と同様、熱狂的に彼を追い掛け回し始めたのだが、このことはかえって彼の不信感を助長し、魔界の女性を恋愛対象とする気を完全に失わせてしまった。
そんな風に育って来た魔族の第二王子は、見返りも求めず、ただひたすら自分を慕ってくれて、救われた気持ちにさせてくれる人族の少女……ジルが、かけがえのないものに思えていた。
「ああ、ジル。キミは今、何をしているのだろうね。
もう、眠りについている頃だろうか……」
サマエルは、ワイングラスを高く掲げ、恋しい少女の面影を月に投影させながら、それを干した。
流動物体が天体の潮汐力によって破壊されずに、その主星を軌道回転できる限界の距離(固体物体の場合は、ロッシュの限界内でも潮汐力がその物体の構造強度を超えない限りは破壊されない)。
多くは惑星とそれを回る衛星との関係において説明される。