~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

6.月の甘き誘惑(2)

「……行ったか?」
「大丈夫だ」
王子達が移動魔法で去った後、またもや要石の間に数人の人影が現れた。

「おぬしの言う通りになったな、デルタ。ついに、サマエルを、魔界に戻すことに成功した」
ガンマの言葉に、デルタはにたり、と笑った。
「……ふふ、細工は流々(りゅうりゅう)、さっそく第二段階に移るとしよう」
「サマエルの意志を乗っ取り、血で染まった玉座に傀儡(かいらい)の王として()かせ、我らが後ろで糸を引く……。この分では、存外簡単に行きそうですな」
ベータが言うと、ガンマはゆっくりと首を横に振った。
「いいや、油断は禁物だ。慎重かつ迅速に事を運ばねばなるまい……」
「ふむ…今のところは順調だが、これからはどうなるかわからぬとでも?」
アルファが顔をしかめる。

それでも、デルタの自信は揺るがなかった。
「心配無用。サマエルには、いくつも心に傷がある、それらを責めれば、すぐに堕ちよう。
それにまた、父親を心底憎んでいることも利用出来る。
ほんの一押しするだけで、うまくゆけば、我々が手を下すまでもなく、みずからの意志でベルゼブルを手に掛けさえするかも知れんしな……その後で、あやつの精神を乗っ取れば」

「我らの天下、というわけか」
ベータがうきうきと話を引き取る。
「その通り」
デルタはうなずいた。
「おお、おお、待ち遠しいぞ、そのときが」
ガンマは、芝居がかった大げさな身振りで、胸に手をやった。

「一つ望みがある。ぜひとも、我自身の手で、ベルゼブルの息の根を止めてやりたい。
そうでなくば、どうにも気が収まらぬわ」
アルファの握り締めた拳が、わなわなと震える。
しかし、デルタの答えはただの一言だった。
「無理だ」

「何じゃ、その言い草は」
アルファはむっとした顔になる。
デルタは肩をすくめた。
「計画の変更は、もう出来んと言っているのだ。それとも、失敗してもよいと言うのか?」
「く……ならば、好きに致せ!」
アルファの表情は険悪だった。

「……まあまあ、ベルフェ……いやいや、アルファ殿。
それに致しても、サマエル……魔界史上最高との呼び声が高いインキュバスを、手に入れることが出来るだけでも、(もう)けもの。存分に楽しめましょうぞ」
ガンマになだめられ、アルファは気を取り直す。
「ふむ、たしかに、あれが紡ぎ出す夢世界は、他には例を見まいな……。
まさしく、“ヴェルベットの夜”とはあのこと。
……あやつの体共々、一度味を占めたなら、おぬしらも忘れられぬこと請け合い……」

「ほう……それほどとは」
「素晴らしいですな……」
ガンマとベータは、ごくりと喉を鳴らす。
そんな陰謀仲間に、どこか冷ややかな視線を注ぎ、デルタは言った。
「さあ、もう行くぞ、時が惜しい」
「うむ、任せたぞ、デルタ」
ガンマが答えた。
刹那、四つの影は霧散して、床に転がった宝石の、透明な結晶面に映り込んでいた幕間(まくあい)劇は、終わりを告げる。

魔界に来てから、サマエルは、氷のオーラとでも呼ぶべきものをまとうようになった。
相変わらず、闇色のローブを身に付け、唇には常に微笑みが浮かんでいたものの、フードで隠された眼は、ほとんど和むことはなく、常に暗い光を帯びていた。
兄に対する態度も、魔界を出る以前に戻って刺々しくなり、気軽に声をかけられなくなったタナトスは、そのことで苛ついた。

そして、魔界王が危惧(きぐ)した通り、彼の突然の帰郷が様々な憶測を呼び、貴族達だけでなく召使や女官達までが、寄ると触るとその理由を詮索(せんさく)し始めた。

その日も、汎魔殿に幾つもある見晴らしがいいテラスの一つに、重臣達を始め魔界の貴族達が集まって、噂話に花を咲かせていた。
白いチェアと丸テーブルがあちこちに置かれ、貴族達が話に興じる中、飲み物や軽食を供する使い魔達が行き交う。

「……よりによって、間もなく、タナトス殿下の戴冠式もあろうかというこの時期に、あのサマエル殿下がご帰還とは……」
魔界王の下、魔界を四つに分割統治するうちの一人である、東のデーモン王、ウリクスが口火を切れば、西のデーモン王、バイモンも眉をしかめた。
「まことに。よく、陛下がご許可なされたものだ」

「やはり、タナトス殿下では心(もと)ないと、考え直されたのでは……」
北のデーモン王、エギュンが口をはさむ。
「しかし、弟君は、いまだ罪が許されてはおりませんぞ」
と、子爵カルニヴェアン。
「……ようやく、陛下は、サマエル殿下をご赦免(しゃめん)されるおつもりになったのやも知れませぬなあ……」
感慨深げに言ったのは、幼い頃から第二王子の味方をして来た、グーシオン公爵だった。

「うむ、うむ」
以前、タナトスに吹き飛ばされたことがある、でっぷり太った南のデーモン王、マンモンは幾度もうなずき、続けた。
「その上に、皆様、考えてもご覧なされ。
このまま、第一王子殿下が王位に就かれたところで、つつがなく魔界を統率して行けるとは到底思えませぬわ」

「たしかに、あの我ままぶりは目に余りますが、かと言って、ここまで来ているというのに……」
男爵アラストルが、首をかしげたとき。
「こんなところで、皆、何をこそこそとやっておるのだ?」
突然現れたのは、現魔界王ベルゼブルの兄、ベルフェゴールだった。

普段はあまり好かれないこの王兄も、この時ばかりは、熱烈な歓迎を受けた。
「これは、ベルフェゴール殿下。ささ、こちらへ」
カルニヴェアンがさっと立ち上がり、席を空ける。
「おうおう、これはいいところへ」
アリオーシュ男爵が、大げさな身振りで歓迎の意を表す。
「ぜひ、お話を伺いたい」
アラストルも言った。

「はぁて、話とは何のことやら、とんと分からぬがのぉ?」
マンモン以上の巨漢であるベルフェゴールは、よいしょとばかり席に座ると、亀を思わせる仕草で、肩をすくめた。
重さに耐えかねた小さな椅子は、みしみしと音を立てる。
「おお、いかん」
王兄は丸々と太った指を鳴らし、一瞬で、それを座り心地のいいソファへと変化させた。

いつもながらのもったいぶった態度に、内心舌打ちながら、ウリクスが口を開く。
「いや、サマエル殿下の唐突なご帰還について、皆で話しておったところでございますよ。
さだめし、あなた様ならお詳しいことでしょう、ぜひとも、お話しを伺いたいもの」

全員の期待の眼差しを一身に受けたベルフェゴールは、満足げに白いひげをなでつけ、おもむろに口を開いた。
「いや、我も詳しくは知らぬ……なれど、もしや、と思うところはあるがな」
「して、それはどのような?」
バイモンが促すと、重々しくうなずき、王兄は続けた。
「……これは、以前より感じておったことなのだが。
陛下は、この際、障害を取り除くおつもりなのではあるまいか……とな」

「……それは、どういう意味ですかな?」
カルニヴェアンは眉を寄せた。
「つまりだ、目障りな存在であるサマエルを、この際、亡き者にしようと考えているのではと……」
「め、滅多なことを申されるものではありませぬぞ! まさか、陛下がそのような!」
ベルフェゴールをさえぎって、グーシオン公が叫んだ。

「ですが、それも一理あるのでは?」
アラストルがうなずく。
「赦免すると言って魔界へ戻し、隙を見て? まさか……」
バイモンは半信半疑の様子だった。
「いや、陛下が、左様なことをなさるわけなどありませぬ」
ウリクスは、きっぱりと断言する。

「そうですとも、実の、血のつながった親子なのですぞ」
憤慨(ふんがい)した口調でグーシオンも同意する。
「分からぬぞ、あの二人の確執は、かなり深刻なものとなっているようだからな……」
ベルフェゴールは、グーシオンらの抗議を尻目にうそぶき、居合わせた貴族達は顔を見合わせた。

それでも、大体において、魔界の女達には、サマエルの帰還は好意的に迎えられた。
彼は、どこにいても女性に取り囲まれ、また、独りでいるところを見計らっては、自分の精気を捧げようとする女達が、引きも切らなかった。

「……相変わらず、もてるわねぇ、サマエル」
イシュタルが、あきれたように言った。
彼らは一緒に、美女達に取り囲まれてしまっていたのだ。

「……今のうちに精気を捧げておけば、私が魔界王になったとき、寵愛(ちょうあい)を受けられると考えているのでしょう」
サマエルは、さらりと答えた。
「だったら、皆、タナトスの方に行くはずでしょう、あの子が、次の魔界王になると決まっているのだから」

第二王子は、叔母の言葉に肩をすくめる。
「ですが、様々な憶測が飛び交っているようですよ。
私としては、すべて陛下にお任せしていますと、答えるしかありませんが」
「そうね。……ああ、うるさいわ、ゆっくり話も出来やしない。
さっさと精気をもらって、わたしの部屋に行きましょう」

促されたサマエルはうなずき、女達に向かって両手を広げた。
「ああ……」
「サマエル様……」
女達の口から一斉にため息のようなあえぎが漏れ、ゆらゆらと体が揺れる。

上級夢魔ともなると、触れなくとも、相手の精気を吸い取ることが出来る。
その代わりに、“夢”を見せてやるのだ。
二度と目覚めなくてもいいとさえ、思ってしまうほど極上の夢を。
見ている間は、それが現実ではないとはまったく感じさせない、幸福な夢である。
一度夢魔の(とりこ)になってしまうと、破滅するまでそれを求めてしまうと言うが、さすがに魔界の女達は耐性が高く、溺れ込んでしまうことはほとんどない。
それでも、より質の高いものを求めるのは当然の欲求で、最上級夢魔であるサマエルの“夢”は、男女問わず人気があった。

「──タィフィン!」
数十人もいた女達がすべてその場に倒れこみ、深い眠りについてしまうと、彼は使い魔を呼び出した。
「お呼びですか、サマエル様」
「彼女達を、それぞれの部屋へ」
「かしこまりました」
姿の見えない使い魔は、もう慣れ切っていて、驚くこともない。
「さ、叔母上、参りましょう」
「ええ」

部屋のソファに落ち着くと、イシュタルは、体を密着させるように彼の隣に座り、白い手を取った。
「ごめんなさいね、サマエル。あれから、わたし、人界へは行けなかったわ」
「いいえ、叔母上が謝られるようなことはありませんよ。陛下が禁止なされたのでしょう」
淡々と、サマエルは答える。
「い、いえ、そうではないのよ、でも、ちょっと、色々あって……」
「構いませんよ、いつものことですから」

諦めきった彼の返事に顔を曇らせたイシュタルは、それを振り払うように、妖艶(ようえん)な笑みを浮かべた。
「そんなことより、ね、サマエル。
……今日こそは、ゆっくりと……夢魔式のあいさつをしましょう……」
いつもよりさらに胸元が大きく開いたドレスから、白い谷間がくっきりと覗き、サキュバスの、(みだ)らなまでに(つや)やかな紅い唇が近づく。

だが、サマエルは、自分の人差指に口づけて、叔母の唇にそっと押し当てた。
「申し訳ありません、叔母上。
ご好意はありがたいのですが、遠慮しておきますよ」
「まあ、なぜ?」
イシュタルは藍色の眼を見開いた。

「……私は、ジルを(めと)る決心をしました。
魔界人ならば、平気でしょうが、ジルは人族の女性です。
婚約した以上、私が他の女性と……関係を持ったと知ったら、悲しむか、不快に思うかするでしょうから」

「そう、とうとう決心したのね!」
てっきり立腹すると思いきや、イシュタルは、手放しで喜んだ。
「部屋に連れて来たのは、お前が淋しくつらい思いをしているのではないかと思ったからよ、こちらに戻って来てから、お前、少しやつれたよだったから……」

王子は、ほんのわずか微笑んだ。
「ご心配をおかけしました。ですが、それは、ジルと離れているからですよ。
私は、彼女なしではいられませんし、彼女もまた、しかりです」

「ま、ご馳走様ね」
イシュタルは、母親のような笑みを浮かべた。
「何があっても、わたしはお前の味方よ。これから、大変でしょうけれど、頑張りなさいね」
サマエルは、黙って頭を下げ、叔母の部屋を後にした。