~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

6.月の甘き誘惑(1)

「改めまして、お久しぶりでございます、陛下。帰還をご許可頂きまして、お礼の言葉もございません」
たった一度口づけを交わしただけで、最愛の少女と別れて来たサマエルは、父王に対面し、千年ぶりのあいさつをした。

ベルゼブルは、不機嫌なのを隠そうともしなかった。
「礼などいらぬわ! ()く黒幕をあぶり出し、さっさとこの汎魔殿より出てゆくがよい!
そなたが魔界へ戻っておるとなれば、不必要な憶測が飛び交い、タナトスの即位も危ぶまれる事態にもなりかねぬ。
よもや、そなた、タナトスを廃し、おのれが魔界の王となるつもりで、戻って参ったわけではあるまいな!」

「……お疑いでしたら、今すぐ、私の息の根をお止めになったらいかがです? 陛下。
まあ、それは無理と言うものでしょうけれどね。
私は、三十八万年振りに試練を乗り越え、”カオスの貴公子”となることに成功した唯一の者、代役はおりません。
それに、私が死ぬようなことになったら、ジルが黙ってはおりませんよ。
彼女は、自分の命と引き換えにしてでも、この汎魔殿を破壊するでしょうね」
サマエルは、何の感情も込めない眼で父親を見つめ、そう言ってのけた。

「むむむ……。父たる余を脅すつもりか、そなた!」
魔界王は歯ぎしりをするような口調になったが、サマエルは静かに首を振った。
「いいえ、これは単なる保身です。
陛下は、私を信用しては下さいませんし、いつなんどき、捕えられてしまうか分かりませんので、保険をかけておくことにしたのですよ。
ジルは、どうしても、私の妻になりたいようですのでね」

父王は彼を睨みつけた。
「そなた……そうやって今まで幾人のおなごを、その毒牙にかけてきたのだ!」
「人聞きの悪いことを仰りますね。彼女達は、皆、みずから進んで、私に精気を……」
「もうよい、そう仕向けておるのであろうが、自発的に(みつ)がせるようにな!
さあ、()く仕事にかかるがよい。
助力が必要ならば申し出よ、余は執務があるゆえ、戻らねばならぬ」
苛々と、ベルゼブルが言ったときだった。

「い、嫌だってば、離せよぉ!」
澄んだ少年の声が聞こえて来たのは。
「大人しくしろ、貴様の力が入り用なのだ、サマエルは、貴様を取って食いはせんぞ!」
タナトスが、暴れる“焔の眸”の化身を、小脇に抱えて現れていた。
魔界王は眉をしかめ、息子と紅毛の少年を交互に見た。
「そなたか、サタナエル。何を致しておるのじゃ」

「見れば分かるだろう、手助けが必要だろうと、こいつを連れて来たのだ。
だが、サマエルが戻っていると知った途端、じたばたし始めおって。
貴様、いい加減諦めて大人しくせんと、また殴るぞ!」
「わ~ん、ベルゼブルぅ!
助けてくれよぉ、お前の息子どもは、どっちもヘンタイなんだから!」
ダイアデムは手足をばたつかせ、暴れた。

「貴様、何を言い出す!」
下を向いて怒鳴った弾みに、タナトスの腕が緩んだ。
「今だっと!」
その隙を突いて、少年は王子の腕から逃れ、素早く主人のマントに飛び込むと、顔だけ突き出した。
「だってそーだろ、タナトスはサドで、サマエルはマゾじゃんか!
──や~い、ヘンタイ兄弟!」

「き、貴様──!」
「よさぬか、サタナエル。そなたらの一面を突いておるではないか、自覚が足りぬぞ」
「ふん、余計な世話だ!」
第一王子はそっぽを向いた。

「力尽くで引きずって来られたら、誰だってやる気をなくすよ。そうだろう、ダイアデム?」
「ひやあっ! 助けてくれ、壊されちまうっ!」
サマエルは穏やかに声をかけたのに、ダイアデムは、悲鳴を上げてベルゼブルにしがみついた。
魔界の君主は面食らった顔をした。
「これ、“焔の眸”。何を大仰(おおぎょう)なことを申しておるのじゃ」

サマエルは、立腹した様子も見せず、宝石の化身の説得にかかった。
「ダイアデム、落ち着いて聞いておくれ。
“カオスの貴公子”の名にかけて、私は、お前に何もしないと誓う。
だから、手伝ってくれないかな?」

「……ホ、ホントか? ホントに何もしない?」
魔界王は、自分にしがみつく少年の体が、小刻みに震えているのに気づいた。
「何ゆえそなた、それほど(おび)えておる?
考えてもみよ、サマエルが、そなたに危害を加える理由など、なかろう」

サマエルはうなずき、相手の心を解きほぐすような笑みを浮かべた。
「陛下の仰る通りだ。それに、私は誓いを破ったことはないよ。
さ、こちらへおいで。そんなところに隠れていては、まともに話も出来ない」
「……う、わ、分かった」
彼が手招きすると、紅毛の少年はベルゼブルから離れ、おずおずと前に出て来た。

「そう、それでいい。手伝ってくれるね、“焔の眸”? 
重大な魔界の危機だ、お前の力が是非とも必要なのだよ。
私が睨んだところ、“黯黒の眸”やリリスは、何者かの命を受けて動いている節がある。
イナンナの、真の仇を取りたくはないか?」
優しく言い諭されたダイアデムは、眼を丸くして彼を見上げた。
「げっ、リリスに、“黯黒の眸”まで動かせるヤツだってぇ!? そりゃ大変だ!
そーだ、イナンナは、大丈夫なんだろーな!?」

「安心しなさい、もう操られたりしないように、結界で二重三重に囲み、プロケルについてもらっているよ」
彼に保障された少年は、神妙な顔つきでうなずいた。
「そっか、分かった。何でもやるよ、オレ。
いつまでも、イナンナを結界の中に入れといたら、可哀想だもんな」

ベルゼブルは、息子の技量に眼を見張った。
「ほう……見事な手並みじゃな、まるで猛獣使いじゃ。
余でさえ手を焼く“焔の眸”を、かくも容易に従わせるとは……」
「ち、だが覚えておけよ、“焔の眸”。次の主人は俺なのだからな!」
タナトスは、不服そうに自分の胸をたたく。

それを横目で見た宝石の化身は、つい今し方のしおらしさはどこへやら、頭をカリカリ掻いて、小生意気な態度に戻った。
「……っせーな、わあってるよ、ンなコト。
おい、ベルゼブル、お前のガキどもってさ、足して二で割りゃ、ちょーどよかったのにな。
そーすりゃ、バカを一匹、抱え込むだけで済んだのによ。
す~ぐカッカして、何も考えず吹っ飛んでっちまう戦バカと、机の上で陰険な作戦練ってる割りにゃ、イザってときの決断力が全然ねー軟弱者、どっちも半人前だよなー。
……ったく、魔界の未来は暗いぜ」

例によって、ダイアデムが無遠慮に言ってのけた、その時だった。
ぴしりという鋭い音と共に、魔界王は、少年の頬を張り飛ばしていた。
「親父!?」
「ど、どうなさったのです、陛下」
タナトスだけでなく、サマエルでさえも驚いていた。

「……ベルゼブルの嘘つき」
紅くなった頬を押さえ、ダイアデムは主人を睨みつけた。
眼の中の揺らぐ炎が、不信感からか、針そっくりに細く尖っている。
「す、すまぬ、つい……」
ベルゼブルは、はっとしたようにおのれの手を見、それから、自分が打ってしまった箇所に触れようとした。

「もういい、嘘つき男! お前もやっぱ、他のヤツとおんなじだ!」
ダイアデムは、ぱっと王から離れ、サマエルを振り返った。
「すまねーけど、オレは宝物庫に帰る。用が出来たら呼んでくれ、サマエル。ちゃんと手伝うぞ。
オレは絶対、約束は守るかんな。
──ムーヴ!」
「ま、待て、ダイアデム、余が悪かった、話を聞いてくれ……」
宝石の化身に次いであたふたと、魔界王も姿を消した。

「……ち、ダイアデムのヤツ、相手によって、まったく違う態度をとるのだな、初めて知ったぞ。
ふ、それでも、くそ親父の狼狽ぶりは笑えたな、あれではまるで痴話(ちわ)ゲンカだ」
第一王子は唇をゆがめ、第二王子は軽く肩をすくめた。
「ある意味そうだろう、“焔の眸”は、魔界王の伴侶なのだから。
いや……むしろ、若い女に入れ揚げたあげく、独占欲を押さえかね、愛想を尽かされかけている老人……と言った方が近いかな」

「く、あっははは、それはぴったりだ!」
弟の酷評にタナトスは笑い出すも、サマエルは表情を崩さなかった。
「そんなことより、今までのことをもう一度、詳しく話してくれ、タナトス。
私の方も色々ある。まずは情報交換といこう」
「ああ、そうだな。俺の部屋で話すとするか」
「お前の部屋でか」
サマエルは露骨に嫌な顔をした。

「貴様、俺がそこまで見境ないとでも思って……!」
顔を真っ赤にしたタナトスに、とどめを差そうと彼は続けた。
「まあいい、今度、私に触れたりしたら、ジルに全部話す」
「な……っ……貴様っ!」
「今まであったこと、すべてをね」
驚愕のあまり動けないでいる兄を見やる彼の眼差しは暗く、強烈な光を放っていた。

「……そ、そんなことを、貴様が、彼女に言えるものか……」
どちらが被害者が分からないくらいに、その声は、タナトスらしくもなく弱々しかった。
「彼女なら、もう何があろうと、全面的に私の味方になってくれるさ」
対照的にサマエルは唇に微笑を刻み、胸を張って言ってのけた。

今は空腹でふらついているわけではないし、兄を跳ねのける自信はある。
それでも、再度、隙を突かれてもてあそばれたとしても、そんな恥ずかしいことを彼女に告げる気は無論なく、これもまた、一種の牽制(けんせい)に過ぎなかったが、それと知らない単純なタナトスは、二の句が告げずにいた。

「……では、そうだな……ああ、“例の場所”へ行かないか? 
あそこなら、知っているのは私とお前だけだ。盗み聞かれる心配もない」
兄の様子にほくそえみながら、サマエルは幼い頃の遊び場所を指定した。
タナトスは唇を噛んだ。
「……好きにしろ」
「では行こう。──ムーヴ!」