~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

5.ナイトメア・インパクト(4)

「陛下!?」
サマエルは思わず叫んでいた。
彼の心に流れ込んできた強力な思考は、魔界王ベルゼブルのものだったのだ。

“地下にて巨大な力の発動を感知したゆえ、取り急ぎ参ったのじゃ、『黯黒の眸』がまたも何か、仕出かしおったかと思うてな。
するとどうじゃ、『黯黒の眸』は力を失い、無色透明になっておる!
この場に残る力の波動は、多少常と異なってはおるが、サマエル、そなたのものじゃ!
この顛末(てんまつ)、いかように釈明するつもりか!”
父王から発せられる心の声は、怒気を含んで鋭かった。

“そ、それは……。ともかくご説明致します、陛下。少々お待ち下さい。
──カンジュア!”
サマエルが唱えると、屋敷の壁に、直径一メートルほどの円が描き出された。
「──クローヴェン・フーフ!」
再びの呪文に応答し、何かの画像が、円内部に映し出される。
だが、ひどく歪み、さらに絶え間なく揺れ動いていることで、それが何なのか識別は不能だった。

「わー、この丸っこいの、何? お師匠様」
「魔界と通信ができる“窓”のようなものだよ」
サマエルが弟子の質問に答えているうち、不意に像が焦点を結び、魔界王が現在立っている部屋が映し出された。
ジルは知るよしもなかったが、そこは昨日、従姉が監禁されていた“要石の間”だった。
そしてひび割れた床の上、王の言葉通りに、特徴である禍々(まがまが)しい黒色をすっかり失った魔界の至宝が、模造宝石も同然に転がっていた。

サマエルは、父王の画像に向かって片膝をつき、うやうやしく礼をした。
「お久しぶりでございます、陛下。
……して、”黯黒の眸”は……まさか、壊れてしまったのでしょうか?」
“何を申す、さすがは魔界の至宝、力は失っても傷一つないわ! 
なれど、汎魔殿の“要石”にまで亀裂が入っておる、一体どういうわけじゃ!」
(くれない)の瞳を、さらに緋色に燃え上がらせたベルゼブルの映像は、息子に向かって指を振り立てた。

“そなたも知っておろう!
要石が崩壊するならば、すなわち汎魔殿は失われ、『黯黒の眸』が消滅するならば、魔界全土を覆う結界の力もまた半減するのじゃぞ!
この二つを壊すことは、魔界の命綱を断ち切るも同然じゃ!
そなたは、またも罪状を増やすつもりなのか!
一万年前、何ゆえ我らが血まなこになって『黯黒の眸』を捜索致したか、忘れたと申すか! 
この貴石が戻って参るまで、天界の侵攻が行なわれなんだは、奇跡に近い僥倖(ぎょうこう)なのじゃぞ!”

「待って! えっと、魔界王……様。ごめんなさい、お師匠様は悪くないの、やったのはあたしだから」
ジルが口を挟み、そのときになって初めて、ベルゼブルは少女の存在に気づいた。
“……む、何者じゃ、そなたは。
人族の娘が、夢魔たる者と共にいて、おのれの意志を失わずにおるとは……にわかには信じがたいことじゃが”
「こんにちは。あたし、ジル。
あ、初めまして、かな? 夢飛行でよく見てるから、初めて会ったって感じしないけど……」

「陛下、彼女はジル・アラディア、私の弟子です」
急いでサマエルは、映像の父親に少女を紹介した。
“……ほう、その方がジルか。息子らが世話になっておるようじゃな。
一度会うてみたいと、かねがね思うておった……のじゃが……”
魔界王は身を乗り出し、窓に映し出されたジルの姿形を、とっくりと眺めた。

それから密かに、息子にだけ聞こえるよう思念を送る。
“……この者は十七と申したな? それにしては丈が低いの。しかも到底美人とは申しがたい……。
ふ~む、一体どこに、タナトスとそなた、夢魔を二人も(とりこ)にする魅力があると申すのやら……?
いや、待て、この瞳は……? ふむ、力を秘めて不思議な輝きを放つ眼じゃの……”
“お分かり頂けましたか、陛下”
“うむ”
ベルゼブルはうなずき、再びジルにも聞こえるように思念を送ってきた。

“たしかにそなたの力は絶大じゃな。
『黯黒の眸』の暗き力を相殺しただけでなく、地下に深く根付いた汎魔殿の基礎までも破壊しかけ……しかも、それを次元を超えて易々(やすやす)とやってのけたとは”
「あ、それ、あたしだけの力じゃないの。お師匠様が力を貸してくれたから、できたのよ」
あっけらかんとジルは言ってのける。

途端に映像の魔界王は眼を怒らせ、またもサマエルに指を突きつけた。
“何じゃサマエル、やはり、そなたの差し金ではないか!”
「違うってば、あたしが頼んだの、あの黒い宝石には一度、思い知らせなきゃダメって」

その言葉に、王は息を整え、少女に視線を戻した。
“……思い知らせるとな……? そなたと従姉の仕返しを致したと申すのか?”
ジルは首を振った。
「そうじゃなくって、ううん、あたし達のこともだけど、昔の戦争の原因ってあいつなんでしょ、でも、全然懲りてないって言うか、反省してないんだもの。
なんか頭に来ちゃったの」
“……うむ……たしかに、こやつには、いい薬になったであろうがの”
ベルゼブルは足元の宝石にちらりと眼をやり、渋々と言った風に同意した。

サマエルは再び頭を下げた。
「……それでも陛下、申し訳ありません、要石までダメージを与えるつもりはなかったのです。
ですが……。イナンナが、そこに置き去りにされたことは、お聞き及びでしょう。
そのとき“黯黒の眸”に操られかけた暗示がまだ残っていたとみえて、私とジルは悪夢を見させられました。
すぐに彼女を結界で保護し、ジルと夢のことを話しているところへ、“黯黒の眸”が思念を送ってきたのです。
そこで自己防衛のため、やむなく……」

しかし、事情を説明する彼に向ける、魔界王の視線は厳しかった。
“自己防衛……ふん、怪しいものじゃ。
まさか……近頃、魔界で進行しておる陰謀の真の黒幕とは、そなたではあるまいな”
「何をおっしゃいます、陛下。私は決して、陰謀など企んではおりません」
きっぱりと否定しつつ、自分が父親に、まったく信用されていないことを彼は痛感する。

“それはどうであろうかの。そなた、この機会に、おのれが王になろうと画策致しておるのではないのか?”
疑り深い魔界王の態度に、ジルはたまりかねたように叫んだ。

「やめて! お師匠様は悪いことなんて、何もしてないわ!
大体、何千年も人界にいるのに、どうして魔界で起きてることに関係できるの!? 
ずっと、プロケルさんが見張ってたんだから聞いてみればいいのよ、よく調べもしないで、いい加減なこと言わないで!」

一瞬の沈黙の後、ベルゼブルは我に返ったように、思念を送ってきた。
“……むう、考えてみればそうじゃの。余としたことが迂闊(うかつ)であった、相すまぬ”
「……あたしも悪かったわ。オジサンのお城まで壊すつもりはなかったの、それはごめんなさい」
ジルはぺこりとおじぎをした。
“オ、オジ……サンじゃと!?”
魔界の王は眼を()いた。

“……サマエル、この娘には、口の利き方から教えこむ必要があるようじゃぞ、従姉とはまた、ひどい違いじゃ!”
「彼女には彼女の良さがあります、一概に誰かと比べることは」
“それはそうじゃが……。まさしくプロケルが申した通りじゃわい……”
画像の王は白いひげをなでつけた。

「プロケル公爵が? 何と?」
“人界で暮らさせた方がよいと申しておったわ。
……たしかに、様々な意味合いからも、我が従兄の観察眼が正しいのかも知れぬが、な。
ところで娘よ、そなたに会うことがあったなら、ぜひとも尋ねたいと思っておったことがあるのじゃが”
ベルゼブルは再び、身を乗り出した。

「何? オジサン?」
“……そなた、タナトスとサマエル、どちらが好みなのじゃな?”
「ええっ、ど……どっちって……」
ジルは、ちらと師匠に視線を走らせ、顔を赤らめた。
その仕草は雄弁に、彼女の心を物語っていた。

“ふん……左様か。
じゃがの、考慮の余地はあると思うぞ、サマエルなぞより、タナトスの妃となることを選び、魔界へ参らぬか?
短気で身勝手なところもあるが、あれも次期魔界王じゃ、輿(こし)入れすれば、何でも好き放題じゃぞ”
「……オジサンも、タナトスや、ミカエルとかとおんなじこと言うのね。
あたし、魔界になんか興味ないわ。お師匠様とずっと一緒にいるの」
人族の少女は、魔族の第二王子に寄り添った。

魔界王は険しい表情をした。
“それは許されぬ。魔物と人間とは、元々相容れぬ定めなのじゃ。
そなたも精気を吸い尽くされ、死ぬのが落ちじゃぞ”
「でも、タナトスだって夢魔でしょう、オジサンだって、人族の女の人と結婚したのに。
お師匠様のお母さんが死んじゃったのって……あ、もしかしたら、オジサンが精気を吸い取っちゃった……とか?」

無邪気に言い放たれた少女の言葉に、ベルゼブルの顔から血の気が引く。
“さ……左様なことは断じてない!
我はアイシスを、この上なく大事に扱ったのじゃ、タナトスとて、そなたを左様に扱うであろう!”
「だったらどうして、お師匠様がそうしないって思うの?」

魔界王は大きく息を吸った。
“……サマエルは前科がある。
そなたは知らぬであろうが、おなごとも数多(あまた)の問題を起こし、ついには、魔界を追放処分も同然に出る羽目と成り果てたのじゃぞ」

「でも、それも昔のことでしょ。お師匠様は反省してるわ。
可哀想なくらい、落ち込んでるときがあるし、そうなっちゃったのも、誰からも優しくしてもらえなかったからじゃないの?
さっきも“夢”で、お師匠様のお母さん、謝ってたわ……」

“何と。サマエル、この娘の言っておることは、まことか。アイシスに夢飛行で会うたと”
ベルゼブルは息子を見据えた。
サマエルはうなずいた。
「はい、たしかに。危険が迫っていると、母上は仰っておられました」

“……ふむ。アイシスは強い魔力と予知能力を持つ女性であった。
イシュタルや“焔の眸”の予知もある。やはり、容易ならざる事態のようじゃの……”
考えを巡らす父王に対し、サマエルは居住まいを正した。
「その通りです、陛下。そこで、お願いがあるのですが。魔界へ戻る許可を頂けないでしょうか。
この陰謀を未然に阻止したいのです……イナンナのこともありますし」

魔界王は、体をのけぞらせんばかりに驚いた。
“何、魔界への帰還を望むと!?
な……ならぬ、ならぬ! 何千年経とうとも、そなたは罪人なのじゃぞ!”
「お言葉を返すようですが、タナトスには……いいえ、今現在、魔界にいる者達には、この事態を収拾する能力がないのではありませんか。
この際、ぜひとも私に、汚名を(すす)ぐ機会をくだされたく……」

“何じゃと、無礼な! そなた、おのれを何様じゃと思うておる!”
ベルゼブルはそう叫んだものの、この第二王子以上に頭脳明晰な者は魔界にはいない、と言うことは、たしかに認めざるを得なかった。

さらに考え込みながら、魔界の支配者は続けた。
“……むう、しかし……そなたのうぬぼれた発言にも一理ある……か。
されど、家臣どもは黙っていまい……。
──よし、ならば、かように致そう。
事が終わったのち、大人しく(ひとや)につながれ、二千年後を牢内にて待つと申すならば、そなたの魔界への帰還を容認致そうではないか”
「ダメ! そんなのダメよ!」
ジルは必死に叫んだ。

“そなたには関りのないことじゃ、娘よ。
元々、罪を犯した時点で処罰されねばならなかったのじゃが、この者は、『混沌の貴公子』の称号を持つ、カオス神殿の神官であり、二千年後に迫った特別な儀式を()り行なう義務があるのじゃ。
それまでは何があろうと、生かしておかねばならぬ……厄介なことじゃ、まったく!”
魔界王は、次元を超える“窓”越しに、息子を睨みつけた。

「ひどいわ、そんな言い方! それに、あたしはお師匠様の弟子なんだから、関係あるわよ!」
「落ち着いて、ジル。昔から言われているから、もう慣れてしまったよ」
憤慨する少女に、サマエルは悲しげな微笑を送る。彼はすでに、諦め切っていた。

「諦めちゃダメ、お師匠様!
オジサン、お師匠様を牢屋に入れる気なら、あなたのお城をぜ~んぶ壊しちゃうわよ、あたし!」
“何を申すやら、この娘は。左様なことなぞ、可能なわけがないじゃろう。
第一、汎魔殿は、規模といい、堅牢さといい、魔界においては唯一無二の存在なのじゃぞ、それを……”

「お師匠様、また力を貸して!」
言うなりジルは再び、怒りのままに力を放出し始めた。
「ジル、待ちなさい……」
「嫌よ! あたし、もう、お師匠様と離れるのは嫌なの!」
“いい加減目を覚ますがよい、娘よ!
これはそなたのためでもあるのじゃぞ、サマエルはこの世の中で、もっとも危険な男なのじゃ!”
「──ああもう、うるさいオジサンねぇ!
こうなったら……いいわ、決めた、あたし、お師匠様のお嫁さんになる!」
ジルは大声で宣言した。

“な──何じゃとぉ!? こ、この娘は! 冗談も休み休み申すがよい!”
叫ぶ父親にかまわずに、サマエルは、弟子の手を取った。
「……ジル、本当に? 本当に、私の妻になってくれるのか?」
「うん、生きて帰って来るって約束を守ってくれたら。
だって、もうすぐ誕生日が来るわ、あたし十八歳になるのよ」
「ああ……ジル、うれしいよ」
暗く沈んだ紅い眼に希望の光がともったのも束の間、彼はジルの手を離した。

「いや、やはりダメだ。
いっときの感情に任せて、こんな大事なことを決めてはいけない、もっと頭を冷やして、よく考えなければ」
「あたし、頭は冷えてるし、散々考えたわよ、お師匠様」
「しかし、キミはまだ若い……」

「たしかにね。それに、二年前……異界で助けられた頃は、結婚なんてぜ~んぜん、考えられなかったわ。
お師匠様のことは、お父さんみたいに思ってたし。
でも、会う人会う人、み~んなが!」
少女は彼の手を一旦離すと、腕全体を使って、思い切り大きく円を描いてみせた。
「お師匠様と一緒にいちゃいけない、って言うでしょ!」

「それは当然だよ、皆、キミのことを思って……」
「うん、分かってる」
ジルはうなずき、続けた。
「だからね、初めのうちは、一生懸命我慢してたの、お師匠様がいなくても、大丈夫なようにならなくちゃって。
……けど、もう限界。この頃そう言われることに、どうしようもないくらい、うんざりしてきちゃった。
それでね、たった今だけど……だったら、結婚しちゃえばいい、って思いついたのよ。
奥さんになれば、もう、誰からも文句言われないでしょう? ね、お師匠様?」

「そ、それはそうだが、ジル、やはりもう少し考えた方が……」
「ううん、決めたわ。だって、色々言われるのももう嫌だし、お師匠様とずっと一緒にいたいのよ、あたし」
「ジル。それほど言ってくれるなら……」
二人は再び手を取り、見つめ合った。
ベルゼブルは天を仰いだ。
“……何ゆえ女どもは、みずから進んで、毒蛇の牙にかかろうとするのじゃろうな……”

「ほら、オジサ……ううん、お師匠様のお父さん、あたしにだって、ちゃんと関係があるでしょ。
お師匠様が事件を解決したら、絶対人界に帰して!」
“……相わかった、余の負けじゃ。
サマエル、魔界への渡航を許可するゆえ、疾く企みの全貌を明らかにし、その娘の許へと戻るがよい”
魔界王はついに諦め、二人の仲を認めた。
「ありがたき幸せ……」
サマエルは深々と頭を下げ、ジルもまた一緒にお辞儀をした。

「そして、ジル、キミにも……ありがとう……」
壁の映像が消えると同時に、サマエルは、そっと愛する少女を引き寄せ、口づけた。