~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

5.ナイトメア・インパクト(3)

“甘いのぉ、ルキフェル。
『混沌の貴公子』ともあろうものが、人族の女ごときに、そこまで骨抜きにされるとは……”
それが“黯黒の眸”の思念だと気づいたサマエルは、フードの奥で眼を光らせ、激しく応じた。
“お前か、『黯黒の眸』! 今すぐイナンナを操るのをやめろ! ジルに夢を見せるのもだ!”

しかし、黒い宝石の化身は、動じた様子もなかった。
“キキキ……もっと現実に即した夢の方がよかったであろうかの?
たとえばおぬしの本性を、細部に渡ってよぉく見せてやる、などとか?”
王子は拳を握り締めた。
“……壊されたいのか、お前……!”

“おう、くわばらくわばら。
せっかくの二人きりの時間を邪魔したのは詫びよう。
なれど、知っての通り、我は激しく暗い感情に惹きつけられるのだ。
魔界へ戻って参れ、そして我が足下にひれ伏し許しを請うならば、我は再びおぬしを受け入れ、カオス神殿の司祭となそう”

“……やはりそれが目的か、『黯黒の眸』。断る、と言ったら?”
“さすれば、悪夢が続くぞ? しまいには、ジルとか申す娘は、すべてを知るであろうなあ。
なれどそれもよいではないか、おぬしが口に出せぬことを、代わりに我が明瞭に伝えてやるのだからな。
礼を述べてもらいたいほどだぞ、くふふ……”

“お前……!”
珍しくもサマエルは感情を面に表し、ぎりっと歯を食いしばったが、そ知らぬ風で、暗い宝石はさらに続けた。
“すべてを知った衝撃で、その娘がおぬしを選ばなんだら。
ことに、おぬしの兄、タナトスの方を選んだとしたら……?
ククク……どのような感情の閃きを見せてくれるものやら、それを思うと、今から楽しみだわい……ぞくぞくするわ”

“く、覚えておくがいい!
想いを遂げられぬ者全員を、お前の傀儡(くぐつ)として操ることなど、できはしないということを!
それに、もし万が一にでも、私がお前に操られ、ジルに危害を加えそうになったら、私はおのれの命を絶つ。
タナトスもおそらく同じだろう。だが、その時はお前も道連れだぞ!”
抑えようもない怒りを込めた第二王子の言葉を、しかし、“黯黒の眸”はせせら笑った。
“ふふん、忘れたか、おぬしの体内に封じられている『カオスの力』は、他ならぬ我が、おぬしに与えたものだということを。
残念だったな、奈落へは孤独な旅路をたどるがいい、『混沌の貴公子』よ”

“分かっていないな。
『カオスの力』を構成する負の感情は、お前が集めたものだから、耐性があるつもりでいるのだろうが、甘いぞ、『黯黒の眸』。
私と同化した瞬間に、あの力は、お前の意志を完全に離れているのだ。
その暗き野望ごと、混沌の深淵へと引きずりこんでやる、私を操るつもりなら、覚悟しておくことだな!”
サマエルが、氷のように冷たい思念を投げつけたときだった。
弟子の少女が、不意に彼の顔を覗き込んだ。

「お師匠様、またあいつね? あの黒い石……」
「キミにも聞こえていたのか!」
サマエルは顔色を変えたが、それも一瞬で、すぐに穏やかな口調に戻った。
「“黯黒の眸”がどうあがこうと、こちらにつけいる隙がなければ、どうもできない、気にするほどのことはないよ」
「全然()りてないみたいね。ちょっとお仕置しちゃっても、いい?」

「それは構わないが、珍しいね、キミがそんなことを言うとは……」
「だって、イナンナのことだけじゃないでしょ。
昔、たくさんのヒトが死んじゃった、“三つの大陸”が沈んだあの戦争……。
それをやったのはお師匠様のお父さんやタナトスだけど、元々の原因はあいつでしょ。
それも暇つぶしのためだなんて、ひど過ぎるわ!」
ジルの大きな栗色の瞳が、またもうるんでいた。

“ふん!
いかに膨大な魔力を持つとはいえ、人界からここまで力が届くわけもあるまい、小娘よ、うぬぼれぬことだな。
それに、十万年にもわたって生きる悪魔達にとっては、恋愛ごとき、所詮(しょせん)お遊び、退屈しのぎに過ぎぬのだぞ。
幾人もの娘を、また人妻を、散々もてあそび泣かせてきた『混沌の貴公子』の、(たわむ)れ文句を真に受けるとは、まことめでたき娘よ、きっきっき……”

ねちねちと続く“黯黒の眸”の思念を聞いているうち、ジルの中で何かが切れた。
「いい加減にして! お師匠様は、あんたなんかと違うわ!」
叫びと共に、すさまじい魔力が、彼女の体からほとばしり出る。

「くっ……」
とっさにマエルは、片手でテーブルの端をつかみ、体を支えた。
触れ合った部分を通じ、サマエルに流れ込んで来る少女の強大な力は、彼の力と混じり合い、さらに増強されてゆく。
やがて聖と魔が融合した途方もない力は、魔法陣を通じて次元を超えて魔界へと渡り、汎魔殿の最下層にまで到達したかと思うと、迷うことなく“黯黒の眸”に襲いかかった。

“ぐわぁっ! おぬし! 一体どうやってここまで!?
な、何という力だ、熱い、体が焼ける、苦しいーっ!”
宝石の化身がもだえ苦しんでいるのが、時空を超えて二人にも伝わって来る。

「熱い? 苦しい? 二万年前に死んでったヒト達もそうだったのよっ!
あんたはセリンに取り憑いてた時も、一緒に苦しんではいなかったんでしょ!?
ヒトの苦しむところを見て喜ぶのは、もうやめなさい、さもないと……!
──!」
ジルはさらに増幅呪文を唱えようとした。

「くっ、ジル、それ以上はやめてくれ……!
私の体がもたない、キミの力はまさに光……私の闇の魂には……!」
サマエルは、弟子の少女が潜在能力を発揮して、邪悪な魔法使いや天使を吹き飛ばすところを
見てはいたが、こうして、心と心をつないだ状態で、彼女の力を直に感じたのは無論初めてだった。

この感じは、何かに似ている……彼がそう思った瞬間、体がぐらりとかしいだ。
「う、こ、これは……!」
「お、お師、匠様……な、なんかヘン……」
「ジ、ジル、気をつけろ……」
そして二人の意識は同時に薄らぎ、次々にソファに倒れ込んでいってしまった。

小さなベッドに、生まれたばかりの赤ん坊が眠っている。すぐ隣のベッドに横たわっているのは、その母親だろう。
難産だったため、少しやつれている頬、枕の上に乱れて広がる漆黒の髪、透き通る白い肌、熟れたザクロのように紅い唇は熱を帯び、少し乾いているように見える。

「母様!」
サマエルが叫ぶと、まるでそれが聞こえたかのように、アイシスは静かに眼を開けた。その瞳は、“砂漠のオアシス”と(たた)えられる、印象的な輝きのサファイア色だった。

そのとき、ばんと、荒っぽくドアが開けられた。
「アイシス、今戻ったぞ!
……あ、す、済まぬ、静かにせねば、赤子が起きてしまうな」
騒々しく入室してきたのは、魔界王ベルゼブルだった。
髪は白かったが、紅い眼は溌剌(はつらつ)とした光を宿し、ヒゲを生やしていないためか、今よりかなり若く見える。

「これは陛下、お早いお着きでしたのね」
(この声は!)
サマエルは息をのんだ。初めて耳にしたはずなのに、聞き覚えがあったのだ。
「堅苦しくするな、二人きりの時は名前で呼ぶようにと……いや、左様なことより、よくやったぞ、アイシス。
再び男子とは、まことにめでたい。早く名を付けてやらねば」
魔界王は、満面に笑みを浮かべていた。

「はい、ベルゼブル様。わたくし、真の名の方は考えておりましたが……」
「どのような名だ? 余も色々考えていたのだが、まだ決められずにいてな」
魔界の貴族達は、高等な術を使うときや、敵に邪悪な魔法をかけられることを避けるため、普段使うものとは別に、“真の名”と呼ばれる秘密の名前を持っている。

「はい、“ルキフェル”と……。
人界の言葉で“明けの明星”、“光をもたらすもの”と言う意味なのですが」
「魔界王の息子が“光をもたらすもの”とはな……」
ベルゼブルはわずかに躊躇(ちゅうちょ)する風にも見えたが、すぐにうなずいた。
「ふん、天界への当てつけにはちょうどいいかも知れぬな。そなたが望むなら、構わぬぞ。つけるがいい」
「ありがとうございます」
王妃は頭を下げた。

「通り名の方は、“サマエル”でどうだろう。“紅龍王”と讃えられた、魔界王家の遠い先祖の名だ」
「すばらしい名前ですわ」
アイシスは微笑み、身じろぎした。
「そうか……お、どうした、無理をするな」

「すみません……」
魔界王の手を借りて起き上がった王妃は、ベビーベッドを覗き込み、息子の柔らかな頬にそっと触れた。
幼子は目覚め、鮮紅色の瞳で、泣きもせずに母を見つめ返した。

「いい子ね、ルキフェル。わたくしには、お前の歩む道が視えるわ……」
そこまで言うとアイシスは、不意に顔を上げた。
いきなり真っ正面から見られて、ベッド近くに立つサマエルはどきりとした。
夢の中の出来事なのだから、母にこちらの姿が見えているはずはないのだが。
しかし、夜を閉じ込めたような濃いブルーの瞳で、魔族の第二王子をひたと見つめたまま、アイシスは言ったのだ。

「……ルキフェル。大人になったお前を、身近に見ることができてうれしいわ。
お前の流す涙も、心に受ける傷も決してムダにはならない。
……“光をもたらす者”よ、お前は必ず、魔界に光を運んで来てくれるでしょう」
そして予知能力に優れた魔界の王妃は、微笑みながら手を差し伸べた。
その笑顔は、息子に瓜二つだった。

「か、母様、どうして……」
衝撃で、サマエルは、そう言うのがやっとだった。

「気をつけて。危険が迫っています。
でも、どんな試練が目の前に立ち塞がったとしても、お前はそれを乗り越えて、光を手に入れることができるわ……必ずね。
ジルさんも助けてくれるでしょう。たとえ短い間でも、お前の心から闇を追い払うことができるのは、現在は彼女だけよ。
……ごめんなさいね、ルキフェル。
わたしがお前に忠告してあげられるのは、これが最初で最後……死者は生者に関わってはいけないの……幾度詫びても(つぐな)うことはできないわ……お前の成長を、生きて見守ることができなかったわたしを許して……」

「──母様!」
再びサマエルが叫ぶと同時に、その情景はすうっと薄れ、消えてしまった。
(最初見たあの夢は……母様が見せてくれたものだったのか、道理で懐かしい感じがしたわけだ……。
結界のせいで、はっきりと伝えられなかったのか……)

*          *          *


「お師匠様、今のは……」
ジルの声に、サマエルは目覚めた。彼女は少し青ざめ、まだ彼の手を固く握っていた。
「……ああ、ジル、大丈夫かい。今のは、母上が送ってくれた夢だったのだよ、私の身を案じて」
「うん、あたしにも見えたわ。お師匠様のお母さんって、きれいで優しい人ね」
「ありがとう。しかし、危険は確実に迫ってきている、対処法を考えなくては……」

身を起こしながら、サマエルがそう言ったときのことだった。
“……サマエル、これはそなたの仕業か!?”
次元を超え、何者かの思念が伝わって来たのだ。