~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

5.ナイトメア・インパクト(2)

「うわあっ!」
一言叫んで、サマエルは飛び起来た。
(ゆ、夢っ!? 今のが夢だと言うのか、まるで現実のようなあれが……!?)
どくどくと心臓が脈打ち、呼吸は乱れ、体が燃えるように熱い。
「落ち、着け……夢は、夢だ、夢に、過ぎない、のだ……」
呪文のように繰り返しつぶやき、深い呼吸を繰り返して何とか鼓動を落ち着かせ、彼は汗をぬぐった。

(何だったのだ……今のは? 通常の夢飛行とはまったく異なっている……。
そう、これではまるで、夢魔が創り出す悪夢……まさか、結界が破られて!?)
顔から血の気が引く思いで、彼は取り急ぎ意識を飛ばし、屋敷周辺に張り巡らしておいた結界を調べた。
だが、どこにも異常はない。

「……結界に手を加えずに、魔界の王子である私に、こんな夢を見せることのできる者となると……
これは、ひどくまずいぞ」
サマエルは独白し、間髪入れず魔界にいる兄に思念を送った。

“タナトス、聞こえるか? 私だ。
タナトス、どうした、タナトス!”
(妙、だな……よほど深く眠ってでもいるのか?)
“タナトス、重大な知らせがある、答えてくれ!!”
思念を強めて呼んでみても、やはり返事はない。

(何かあったのか? それとも、念話が妨害されているのか? 
後者の方が確率は高そうだが……。
好き嫌いはともかくとして、兄弟と言う間柄上、私達が思念で会話できないときなど、今まではなかった……。
むう……いずれにせよ、思ったよりも事態は深刻だ)
指を鳴らし、一瞬で身仕度を整えると、彼は弟子に呼びかけた。
“ジル、ジル、起きておくれ。朝早くに済まないが、そちらに異常はないか?”

少しの間があった。サマエルの脳裏に、二年前の悪夢が(よみがえ)る。
しかしすぐに弟子の少女は目覚め、返事を送って来た。
“……あれれ? お師匠様? あ、あたし、寝坊しちゃったの?”
サマエルは、ほっと安堵の息をついた。
“いやいや、そうではないよ、こんな早く起こして済まなかったね。
ちょっと気になることがあって。イナンナの様子はどうかな”
“え、イナンナ? ……ちょっと待ってね”
ジルは、すぐ隣で眠る、従姉の顔を覗いてみた。
いつもは別々に休んでいるが、昨夜はさすがに独りにするのは心配と、同じ部屋で眠りについたのだった。

“……んー、何ともないみたい、だけど。気持ちよさそうな寝息立ててるわ”
“そうか。念のために聞くが、キミは昨夜、何か…夢を見なかったかい?”
気を緩めずに彼は尋ねる。
“夢……? あ、そう言えば見たわ。
えっとね、なんか……お師匠様が、真っ暗なところに一人ぼっちでいて、周りに薄ぼんやりした光がいっぱいある、そんな夢だけど……”

弟子の答えに、サマエルは顔色を変えた。
“何だって!? あ、あれを見たのか!”
“えっ、じゃあ、お師匠様も?”
“すぐ行く。そこに結界を張る必要があるようだ”
“結界? どういうこと?”
“イナンナが操られている可能性が……いや、ほとんど確実に、操られていると言っていいな”
魔界の王子は暗い声で答えた。

“ええっ!?”
ジルが驚いたときには、すでにドアが開き、サマエルが、滑るように部屋に入って来ていた。
「あ、お師匠様」
“静かに”
サマエルは、横たわるイナンナの額に指を当てて呪文を唱え、さらに深く眠らせて、当分起きないようにした。
それから、手早くベッドの周囲に魔法陣を描き、彼女の首飾りにも呪文をかけて、二重に結界を張り巡らせた。

「よし、取り合えずはこれでいい」
安堵して、彼は額の汗をぬぐう。
「それにしても、やっかいな事態になってしまったな……。
この先、何があるか分からない、まずは食事を摂っておこう」
「う、うん。あ、いけない、パジャマのまんまだったわ」
大急ぎで着替えるジルに背を向け、サマエルは、呪文を唱えて朝食を出した。
彼らはそれを食べながら、先ほど見た夢の内容を話し合った。

「……やはり同じ夢のようだね」
「それじゃあ、イナンナが操られて、あたし達に夢を見せたの? 
でも、誰が? やっぱり“黯黒の眸”?」
サマエルはうなずいた。
「そうだ、と思う。タナトスの話では、いったんは取り憑かれてしまっているからね……」

ジルは途方にくれたような表情になった。
「どうしたらいいの? どうしたらイナンナを助けられるの?」
「心配はいらないよ。
“黯黒の眸”に術を解かせればいいのだ、タナトスと連絡が取れたら、すぐにやってもらおう」
少女は笑顔になった。
「そう、よかった。でもあいつ、どうしてあんな夢をあたし達に見せたのかな?」

彼はフードの中で眼を伏せた。
「私に対する嫌がらせ、だろうな。
“黯黒の眸”から力をもらったのに、結局はあいつを見捨てたも同然に魔界を出て来てしまったから。
あれをきっかけにして、辛い思い出ばかりが蘇って来る……。
“黯黒の眸”は、それを意図していたのだろう……」
「ひどいヤツね、やっぱり。陰険だわ。
でも、そんなに辛いことばっかりだったの? 一つくらいは、楽しいこともあったでしょう?」

サマエルは即座に否定の身振りをした。
「いや。楽しいこと、うれしいこと……何一つなかった。生き地獄だったよ……」
「生き地獄って……?」
栗毛の少女は、無邪気に首をかしげた。
「……私は幼い頃、魔法が使えなかったのだよ。魔界では、小さな子供のうちから、ごく自然に魔法を使う。
それが、王子でありながら、まったく使えないとなればどうなると思う?
生きている価値がない、というより、実際問題として、生存することが不可能なのだよ。
魔界は過酷な環境だ、汎魔殿の中にいれば人間でも……たとえば私の母のように生きていけるが、
出外にれば、一日ともたず死んでしまうのだから」

ジルは、栗色の眼を丸くした。
「え、お師匠様のお母さんって、人間だったの!?」
「そう。父は、魔族並みに力の強かった人族の女性を見初め、妃とした。
だから私とタナトスは、人族と魔族の混血、というわけさ……」
人族の少女は深く何度もうなずいた。
「ふうん、そうだったの。
なんかちょっと普通の魔族と感じが違うなーって思ったのは、そのせいなのね……」

サマエルの目線がふっと遠くなった。
「……父が真実、母に愛情を感じていたかどうかは、疑問だけれどね……。
近親婚を繰り返し、弱まりつつあった魔族の生殖力を、新しい血を入れることで強めようとしただけかも
知れない……」
「そんな、そんなことない! きっとお父さんは、お母さんが好きだったと思うわ!」
「ありがとう、ジル」
むきになる弟子の様子に、彼の唇はわずかに笑みを形作った。
「それで……おそらく人間の血が色濃く出てしまったためだろう、魔力のない私を、どうするかで家臣達の意見も割れたそうだ。
抹殺するか、人界へ戻すべきだと主張する者もいたらしいが、結局父は、そうはしなかった……」

「ほらー、やっぱりお父さんだもん、一緒にいたかったのよ」
笑いかけて来る弟子の少女に向かって、サマエルは首を横に振り、きっぱりと言い切った。
「いいや、母はともかく、私に対する慈愛の心など、父は一切持っていない……昔も今もね。
私を手元に置いたのは、ある目的のため……それだけのために、私を飼っておいたのだよ」
「飼うだなんて、そんな……。
でも、その……目的、って何だったの? お師匠様」

刹那、紅い眼に闇の炎が燃え上がり、ローブの陰でサマエルは拳を握り締めた。
「どうか……どうか、それは聞かないでくれないか、済まないが。
そのせいで、ますます私は苦しくなり、しまいには、狂気にさえ囚われてしまうようになったのだから……。
それに、私がどういう目に遭って来たかなど、口が裂けても言いたくはない……キミに知られるくらいなら、
舌を噛んで死んだ方がマシだ……!」
そこまで言うと彼は急に、目線を落とした。
「この夢は、だから、一種の脅しかも知れない……。
キミに本当のことを知られたくなかったら、こちらの言うことを聞け、という」

「そんな、なんて卑怯なの!」
ジルは、ぱっと立ち上がり、再び叫んだ。
「落ち着きなさい、ジル。精神攻撃とはそういうものだ。心の一番弱いところを重点的に責めるのだよ。
でも大丈夫、精神攻撃だと知っていれば、防御するのは私達には容易なことだからね」
サマエルは穏やかに弟子をなだめた。

「……そう、ならいいけど」
ほっとしたように、少女は椅子に座り込んだ。
「あたしも初め、夢飛行かなって思ったわ。
でも、前見たときは全然聞こえなかった音が、昨夜のはお師匠様の声も他の音も全部聞こえたし、
何かヘンだなって……」

「慣れれば、音は夢飛行でも聞こえるよ。
キミもそのうち、自由自在に心を飛ばすことができるようになるだろうね……。
そうなれば、何を隠しておいても無駄になるわけだ……
本当は、今、この場ですべてを打ち明けるのが最良の策……そう分かっていながら……私は……」
うつむいた肩が、抑えようもなく震える。

ジルは、急いで言葉を継いだ。
「あ、大丈夫よ、あたし、お師匠様が嫌なら、昔のことを見たりしないし、無理に聞こうとも思わないわ。
ずっと黙ってていいから」
「ありがとう、ジル……だが、キミは見たのだろう?
あの“試練”の最後の方で、私の体がまったく別のものへと変化(へんげ)したのを……。
きっと怖くなっただろうね、私のことが……」
孤独な魔族の王子はそう尋ねながら、最愛の少女を見ることができなかった。

しかしジルは、何の事だか分からないと言いたげな表情をした。

え? ううん、見てないないわ。夢の中のお師匠様は、ずっと苦しそうにしてたけど、それだけよ」
「本当かい?」
「うん」
少女は大きくうなずく。
それを見て取り、彼は大きく息をつくと、再び訊いた。
「……キミは本当に、私のことが怖くはないの?」

ジルは可愛らしく小首をかしげた。
「怖い? なぜ? どんなとき?」
「どんな……そうだね、怒ったときとか、私の眼が暗い炎に覆われるときがあるだろう?」
「あ、タナトスと喧嘩したときとかね?」
「そうだね」
うなずきながら、サマエルはさらなる質問を発した。
「……で、そんなときに、キミは私に大して恐怖を感じたりは……しないのか、な?」

「……ん~」
ジルはちょっと考え、答えた。
「そりゃあ、全然怖くないって言えば嘘になるけど……でも、お師匠様はお師匠様でしょ、
怒ってても、笑ってても。
あたしだって機嫌いい時もあれば、悪い時もあるもの。誰だってそうよ。
それにタナトスって、けっこうしつこいじゃない!
あたしも頭に来て、思いっきりぶっちゃったりもしてるしね。
だから平気よ、あたし。お師匠様の怖い顔も」
弟子の少女がそう言ってくれても、彼の心は晴れなかった。

「私は、他人に利用されるためだけに、この呪われた生を受けた。
この顔、体、魔力、命ですらも、利用価値の高い“もの”だとしか、彼らの眼には映らない……
大天使ミカエルしかり、兄であるタナトス、そして……父親でさえも……。
彼らは、私の想い、何をどう感じるか……などはまったく考慮に入れない。
それどころか、私の意志や感情を縛り、操ろうとする……昨夜の夢を見せた“黯黒の眸”のように。
親身になってくれたのは、叔母くらいなものだ。だが、当時は叔母もかなり若かったし、甥の世話
などより、恋人との逢瀬(おうせ)の方が楽しいに決まっていて……夜はいつも、独りで眠りに着いていた……」

「お師匠様……」
栗毛の少女は、心配そうに彼の顔を覗き込んで来る。
サマエルは思い切って、自分の考えを告げることにした。
「ジル、聞いておくれ。キミの恋人のリストから、私の名を削ってはもらえないだろうか」
ジルは、ぽかんと口を開けた。
「えっ? どうして? あたし、何かいけないことした?」

彼は、(かぶり)を振った。
「いや、そうではないよ。私はこれから、魔界へ戻ろうと思っているのだ。
私を利用したがっている者達ばかりが群がっている闇の巣窟へ、ね。だから……」
「魔界に戻るの? さっきの夢のせいで?」
「そうだ。イナンナの件は、ほんの序章に過ぎない、そんな気がする」

「え、まだ終わってないの!?」
ジルはまたも眼を丸くし、サマエルは確信を込めてうなずいた。
「ああ。おそらく“黯黒の眸”でさえ、誰かに利用されているのだろう。
だから、イナンナを真に解放するには、魔界へ行ってその陰の首謀者を突き止め、捕えるしかない。
分かってくれるね?」
少女は渋々うなずいた。
「う、うん……でも、その後で帰ってくればいいでしょう?」

彼は暗い表情で、またも否定の仕草をした。
「いや、そう簡単にはいくまい。まず、敵が一筋縄ではいかないという気がする。
長年に渡って、用意周到な計画を練って来ているようだ。
単純なタナトスでは、黒幕をあぶり出すことはおろか、陰謀の阻止など、到底無理だと思う。
叔母上やダイアデムと力を合わせれば何とか……しかし、敵が単独かどうかさえ分からないし、
命に関わるかも知れない。
第一、魔界に戻れば陛下が黙ってはいまい。捕えられ、地下牢に幽閉されてしまう可能性もある……。
もしそうなったら、ここへは二度と帰って来られない。だから、私のことは、リストから抹消し、忘れておくれ。
キミの力はもう、十分に強い。タナトスが嫌なら、人間の男性を伴侶に選んで幸せにおなり。
それがキミのためには、一番いいと思う……」

「そんな……嫌よ! どこにも行かないで、ここにいて!」
巻き毛の少女は勢いよく立ち上がり、彼に抱きついた。
「ジ、ジル、そんなことをしては……いけない、離れなさい……!」
サマエルは青ざめ、自分の体に回された、か細い腕を何とか傷つけずに引きはがそうと試みた。
だが、少女は死に物狂いで、すがりついて来る。
「いやよ、離れないわ、行っちゃ駄目、お師匠様!」

「……済まない。私がいるせいで、キミらを巻き込んでしまった。
それを精算するためにも、私は魔界へ行かなければならないのだよ、分かっておくれ」
「じゃあ、約束して。必ず帰って来るって。絶対生きて帰って来るって」
ジルの声は、すでに涙声だった。
「それは無理かも知れない、さっき言ったろう? 努力はするが……」
「駄目、努力じゃなくて、絶対帰って来て。
あたし、お師匠様がいないと、あのお花達みたいに枯れちゃうの、生きていけないの! 
ね、必ず帰って来て!」

愛する少女にうるんだ瞳で懇願されて、きっぱりと別れるつもりだった魔界の王子の心は揺らぎ、
結局は同意せざるを得なかった。
「……分かったよ。そうまで言ってくれるなら、約束しよう。必ず、生きて帰って来ると」
言いながら彼は、ジルを強く抱き締めたいと思った。
しかし考えたあげく、それはせず、彼は少女の華奢な体からゆっくりと手を離し、眼を閉じた。

(今はただ、記憶に留めておこう、この瞬間を……。
私の正体を知りながら、どこにも行かないで、必ず帰って来てと言ってくれた少女がいたことを……。
たとえ彼女が、私のことを父親のように思っているとしても、最終的に私を選んでくれないとしても、
私は忘れないだろう、永遠に……。
……ああ、このまま時を止めることができれば……ずっとこのままで……)

その時ふと、彼の心にあるイメージが浮かんだ。
卵の中の少女が、懸命に殻を割ろうとしている。サマエルは、早く出してやりたい、と思う一方で、
ずっとこのまま閉じ込めて、自分一人のものにしてしまいたい、とも思った。
(これではまるで、愛しい王女を鏡に閉じ込めた(いにしえ)の魔物と同じではないか。
そんなことは私にはできない、できるハズがない……。
第一、彼女はその魔力で、私の檻など軽々と破ってしまうだろう、そして、私を許さないに違いない……)

そんな激しい想いを、魔族の王子が持て余していたとき、黒々とした思念が、彼の心に流れ込んで来た。