5.ナイトメア・インパクト(2)
「うわあっ!」
一言叫んで、サマエルは飛び起来た。
(ゆ、夢っ!? 今のが夢だと言うのか、まるで現実のようなあれが……!?)
どくどくと心臓が脈打ち、呼吸は乱れ、体が燃えるように熱い。
「落ち、着け……夢は、夢だ、夢に、過ぎない、のだ……」
呪文のように繰り返しつぶやき、深い呼吸を繰り返して何とか鼓動を落ち着かせ、彼は汗をぬぐった。
(何だったのだ……今のは? 通常の夢飛行とはまったく異なっている……。
そう、これではまるで、夢魔が創り出す悪夢……まさか、結界が破られて!?)
顔から血の気が引く思いで、彼は取り急ぎ意識を飛ばし、屋敷周辺に張り巡らしておいた結界を調べた。
だが、どこにも異常はない。
「……結界に手を加えずに、魔界の王子である私に、こんな夢を見せることのできる者となると……
これは、ひどくまずいぞ」
サマエルは独白し、間髪入れず魔界にいる兄に思念を送った。
“タナトス、聞こえるか? 私だ。
タナトス、どうした、タナトス!”
(妙、だな……よほど深く眠ってでもいるのか?)
“タナトス、重大な知らせがある、答えてくれ!!”
思念を強めて呼んでみても、やはり返事はない。
(何かあったのか? それとも、念話が妨害されているのか?
後者の方が確率は高そうだが……。
好き嫌いはともかくとして、兄弟と言う間柄上、私達が思念で会話できないときなど、今まではなかった……。
むう……いずれにせよ、思ったよりも事態は深刻だ)
指を鳴らし、一瞬で身仕度を整えると、彼は弟子に呼びかけた。
“ジル、ジル、起きておくれ。朝早くに済まないが、そちらに異常はないか?”
少しの間があった。サマエルの脳裏に、二年前の悪夢が
しかしすぐに弟子の少女は目覚め、返事を送って来た。
“……あれれ? お師匠様? あ、あたし、寝坊しちゃったの?”
サマエルは、ほっと安堵の息をついた。
“いやいや、そうではないよ、こんな早く起こして済まなかったね。
ちょっと気になることがあって。イナンナの様子はどうかな”
“え、イナンナ? ……ちょっと待ってね”
ジルは、すぐ隣で眠る、従姉の顔を覗いてみた。
いつもは別々に休んでいるが、昨夜はさすがに独りにするのは心配と、同じ部屋で眠りについたのだった。
“……んー、何ともないみたい、だけど。気持ちよさそうな寝息立ててるわ”
“そうか。念のために聞くが、キミは昨夜、何か…夢を見なかったかい?”
気を緩めずに彼は尋ねる。
“夢……? あ、そう言えば見たわ。
えっとね、なんか……お師匠様が、真っ暗なところに一人ぼっちでいて、周りに薄ぼんやりした光がいっぱいある、そんな夢だけど……”
弟子の答えに、サマエルは顔色を変えた。
“何だって!? あ、あれを見たのか!”
“えっ、じゃあ、お師匠様も?”
“すぐ行く。そこに結界を張る必要があるようだ”
“結界? どういうこと?”
“イナンナが操られている可能性が……いや、ほとんど確実に、操られていると言っていいな”
魔界の王子は暗い声で答えた。
“ええっ!?”
ジルが驚いたときには、すでにドアが開き、サマエルが、滑るように部屋に入って来ていた。
「あ、お師匠様」
“静かに”
サマエルは、横たわるイナンナの額に指を当てて呪文を唱え、さらに深く眠らせて、当分起きないようにした。
それから、手早くベッドの周囲に魔法陣を描き、彼女の首飾りにも呪文をかけて、二重に結界を張り巡らせた。
「よし、取り合えずはこれでいい」
安堵して、彼は額の汗をぬぐう。
「それにしても、やっかいな事態になってしまったな……。
この先、何があるか分からない、まずは食事を摂っておこう」
「う、うん。あ、いけない、パジャマのまんまだったわ」
大急ぎで着替えるジルに背を向け、サマエルは、呪文を唱えて朝食を出した。
彼らはそれを食べながら、先ほど見た夢の内容を話し合った。
「……やはり同じ夢のようだね」
「それじゃあ、イナンナが操られて、あたし達に夢を見せたの?
でも、誰が? やっぱり“黯黒の眸”?」
サマエルはうなずいた。
「そうだ、と思う。タナトスの話では、いったんは取り憑かれてしまっているからね……」
ジルは途方にくれたような表情になった。
「どうしたらいいの? どうしたらイナンナを助けられるの?」
「心配はいらないよ。
“黯黒の眸”に術を解かせればいいのだ、タナトスと連絡が取れたら、すぐにやってもらおう」
少女は笑顔になった。
「そう、よかった。でもあいつ、どうしてあんな夢をあたし達に見せたのかな?」
彼はフードの中で眼を伏せた。
「私に対する嫌がらせ、だろうな。
“黯黒の眸”から力をもらったのに、結局はあいつを見捨てたも同然に魔界を出て来てしまったから。
あれをきっかけにして、辛い思い出ばかりが蘇って来る……。
“黯黒の眸”は、それを意図していたのだろう……」
「ひどいヤツね、やっぱり。陰険だわ。
でも、そんなに辛いことばっかりだったの? 一つくらいは、楽しいこともあったでしょう?」
サマエルは即座に否定の身振りをした。
「いや。楽しいこと、うれしいこと……何一つなかった。生き地獄だったよ……」
「生き地獄って……?」
栗毛の少女は、無邪気に首をかしげた。
「……私は幼い頃、魔法が使えなかったのだよ。魔界では、小さな子供のうちから、ごく自然に魔法を使う。
それが、王子でありながら、まったく使えないとなればどうなると思う?
生きている価値がない、というより、実際問題として、生存することが不可能なのだよ。
魔界は過酷な環境だ、汎魔殿の中にいれば人間でも……たとえば私の母のように生きていけるが、
出外にれば、一日ともたず死んでしまうのだから」
ジルは、栗色の眼を丸くした。
「え、お師匠様のお母さんって、人間だったの!?」
「そう。父は、魔族並みに力の強かった人族の女性を見初め、妃とした。
だから私とタナトスは、人族と魔族の混血、というわけさ……」
人族の少女は深く何度もうなずいた。
「ふうん、そうだったの。
なんかちょっと普通の魔族と感じが違うなーって思ったのは、そのせいなのね……」
サマエルの目線がふっと遠くなった。
「……父が真実、母に愛情を感じていたかどうかは、疑問だけれどね……。
近親婚を繰り返し、弱まりつつあった魔族の生殖力を、新しい血を入れることで強めようとしただけかも
知れない……」
「そんな、そんなことない! きっとお父さんは、お母さんが好きだったと思うわ!」
「ありがとう、ジル」
むきになる弟子の様子に、彼の唇はわずかに笑みを形作った。
「それで……おそらく人間の血が色濃く出てしまったためだろう、魔力のない私を、どうするかで家臣達の意見も割れたそうだ。
抹殺するか、人界へ戻すべきだと主張する者もいたらしいが、結局父は、そうはしなかった……」
「ほらー、やっぱりお父さんだもん、一緒にいたかったのよ」
笑いかけて来る弟子の少女に向かって、サマエルは首を横に振り、きっぱりと言い切った。
「いいや、母はともかく、私に対する慈愛の心など、父は一切持っていない……昔も今もね。
私を手元に置いたのは、ある目的のため……それだけのために、私を飼っておいたのだよ」
「飼うだなんて、そんな……。
でも、その……目的、って何だったの? お師匠様」
刹那、紅い眼に闇の炎が燃え上がり、ローブの陰でサマエルは拳を握り締めた。
「どうか……どうか、それは聞かないでくれないか、済まないが。
そのせいで、ますます私は苦しくなり、しまいには、狂気にさえ囚われてしまうようになったのだから……。
それに、私がどういう目に遭って来たかなど、口が裂けても言いたくはない……キミに知られるくらいなら、
舌を噛んで死んだ方がマシだ……!」
そこまで言うと彼は急に、目線を落とした。
「この夢は、だから、一種の脅しかも知れない……。
キミに本当のことを知られたくなかったら、こちらの言うことを聞け、という」
「そんな、なんて卑怯なの!」
ジルは、ぱっと立ち上がり、再び叫んだ。
「落ち着きなさい、ジル。精神攻撃とはそういうものだ。心の一番弱いところを重点的に責めるのだよ。
でも大丈夫、精神攻撃だと知っていれば、防御するのは私達には容易なことだからね」
サマエルは穏やかに弟子をなだめた。
「……そう、ならいいけど」
ほっとしたように、少女は椅子に座り込んだ。
「あたしも初め、夢飛行かなって思ったわ。
でも、前見たときは全然聞こえなかった音が、昨夜のはお師匠様の声も他の音も全部聞こえたし、
何かヘンだなって……」
「慣れれば、音は夢飛行でも聞こえるよ。
キミもそのうち、自由自在に心を飛ばすことができるようになるだろうね……。
そうなれば、何を隠しておいても無駄になるわけだ……
本当は、今、この場ですべてを打ち明けるのが最良の策……そう分かっていながら……私は……」
うつむいた肩が、抑えようもなく震える。
ジルは、急いで言葉を継いだ。
「あ、大丈夫よ、あたし、お師匠様が嫌なら、昔のことを見たりしないし、無理に聞こうとも思わないわ。
ずっと黙ってていいから」
「ありがとう、ジル……だが、キミは見たのだろう?
あの“試練”の最後の方で、私の体がまったく別のものへと
きっと怖くなっただろうね、私のことが……」
孤独な魔族の王子はそう尋ねながら、最愛の少女を見ることができなかった。
しかしジルは、何の事だか分からないと言いたげな表情をした。
「
え? ううん、見てないないわ。夢の中のお師匠様は、ずっと苦しそうにしてたけど、それだけよ」
「本当かい?」
「うん」
少女は大きくうなずく。
それを見て取り、彼は大きく息をつくと、再び訊いた。
「……キミは本当に、私のことが怖くはないの?」
ジルは可愛らしく小首をかしげた。
「怖い? なぜ? どんなとき?」
「どんな……そうだね、怒ったときとか、私の眼が暗い炎に覆われるときがあるだろう?」
「あ、タナトスと喧嘩したときとかね?」
「そうだね」
うなずきながら、サマエルはさらなる質問を発した。
「……で、そんなときに、キミは私に大して恐怖を感じたりは……しないのか、な?」
「……ん~」
ジルはちょっと考え、答えた。
「そりゃあ、全然怖くないって言えば嘘になるけど……でも、お師匠様はお師匠様でしょ、
怒ってても、笑ってても。
あたしだって機嫌いい時もあれば、悪い時もあるもの。誰だってそうよ。
それにタナトスって、けっこうしつこいじゃない!
あたしも頭に来て、思いっきりぶっちゃったりもしてるしね。
だから平気よ、あたし。お師匠様の怖い顔も」
弟子の少女がそう言ってくれても、彼の心は晴れなかった。
「私は、他人に利用されるためだけに、この呪われた生を受けた。
この顔、体、魔力、命ですらも、利用価値の高い“もの”だとしか、彼らの眼には映らない……
大天使ミカエルしかり、兄であるタナトス、そして……父親でさえも……。
彼らは、私の想い、何をどう感じるか……などはまったく考慮に入れない。
それどころか、私の意志や感情を縛り、操ろうとする……昨夜の夢を見せた“黯黒の眸”のように。
親身になってくれたのは、叔母くらいなものだ。だが、当時は叔母もかなり若かったし、甥の世話
などより、恋人との
「お師匠様……」
栗毛の少女は、心配そうに彼の顔を覗き込んで来る。
サマエルは思い切って、自分の考えを告げることにした。
「ジル、聞いておくれ。キミの恋人のリストから、私の名を削ってはもらえないだろうか」
ジルは、ぽかんと口を開けた。
「えっ? どうして? あたし、何かいけないことした?」
彼は、
「いや、そうではないよ。私はこれから、魔界へ戻ろうと思っているのだ。
私を利用したがっている者達ばかりが群がっている闇の巣窟へ、ね。だから……」
「魔界に戻るの? さっきの夢のせいで?」
「そうだ。イナンナの件は、ほんの序章に過ぎない、そんな気がする」
「え、まだ終わってないの!?」
ジルはまたも眼を丸くし、サマエルは確信を込めてうなずいた。
「ああ。おそらく“黯黒の眸”でさえ、誰かに利用されているのだろう。
だから、イナンナを真に解放するには、魔界へ行ってその陰の首謀者を突き止め、捕えるしかない。
分かってくれるね?」
少女は渋々うなずいた。
「う、うん……でも、その後で帰ってくればいいでしょう?」
彼は暗い表情で、またも否定の仕草をした。
「いや、そう簡単にはいくまい。まず、敵が一筋縄ではいかないという気がする。
長年に渡って、用意周到な計画を練って来ているようだ。
単純なタナトスでは、黒幕をあぶり出すことはおろか、陰謀の阻止など、到底無理だと思う。
叔母上やダイアデムと力を合わせれば何とか……しかし、敵が単独かどうかさえ分からないし、
命に関わるかも知れない。
第一、魔界に戻れば陛下が黙ってはいまい。捕えられ、地下牢に幽閉されてしまう可能性もある……。
もしそうなったら、ここへは二度と帰って来られない。だから、私のことは、リストから抹消し、忘れておくれ。
キミの力はもう、十分に強い。タナトスが嫌なら、人間の男性を伴侶に選んで幸せにおなり。
それがキミのためには、一番いいと思う……」
「そんな……嫌よ! どこにも行かないで、ここにいて!」
巻き毛の少女は勢いよく立ち上がり、彼に抱きついた。
「ジ、ジル、そんなことをしては……いけない、離れなさい……!」
サマエルは青ざめ、自分の体に回された、か細い腕を何とか傷つけずに引きはがそうと試みた。
だが、少女は死に物狂いで、すがりついて来る。
「いやよ、離れないわ、行っちゃ駄目、お師匠様!」
「……済まない。私がいるせいで、キミらを巻き込んでしまった。
それを精算するためにも、私は魔界へ行かなければならないのだよ、分かっておくれ」
「じゃあ、約束して。必ず帰って来るって。絶対生きて帰って来るって」
ジルの声は、すでに涙声だった。
「それは無理かも知れない、さっき言ったろう? 努力はするが……」
「駄目、努力じゃなくて、絶対帰って来て。
あたし、お師匠様がいないと、あのお花達みたいに枯れちゃうの、生きていけないの!
ね、必ず帰って来て!」
愛する少女にうるんだ瞳で懇願されて、きっぱりと別れるつもりだった魔界の王子の心は揺らぎ、
結局は同意せざるを得なかった。
「……分かったよ。そうまで言ってくれるなら、約束しよう。必ず、生きて帰って来ると」
言いながら彼は、ジルを強く抱き締めたいと思った。
しかし考えたあげく、それはせず、彼は少女の華奢な体からゆっくりと手を離し、眼を閉じた。
(今はただ、記憶に留めておこう、この瞬間を……。
私の正体を知りながら、どこにも行かないで、必ず帰って来てと言ってくれた少女がいたことを……。
たとえ彼女が、私のことを父親のように思っているとしても、最終的に私を選んでくれないとしても、
私は忘れないだろう、永遠に……。
……ああ、このまま時を止めることができれば……ずっとこのままで……)
その時ふと、彼の心にあるイメージが浮かんだ。
卵の中の少女が、懸命に殻を割ろうとしている。サマエルは、早く出してやりたい、と思う一方で、
ずっとこのまま閉じ込めて、自分一人のものにしてしまいたい、とも思った。
(これではまるで、愛しい王女を鏡に閉じ込めた
そんなことは私にはできない、できるハズがない……。
第一、彼女はその魔力で、私の檻など軽々と破ってしまうだろう、そして、私を許さないに違いない……)
そんな激しい想いを、魔族の王子が持て余していたとき、黒々とした思念が、彼の心に流れ込んで来た。