5.ナイトメア・インパクト(1)
「ここはどこだ、暗い、暗い……!
私は……どうして……ああ、誰か出してくれ、出せ、出してくれ……!」
叫びながら、青年は、力任せに石造りの壁をたたいた。
幾度も打ち付けるうち、しまいに、拳が破れて血が噴き出す。
それでも、彼は大声を上げ、ひたすら拳を振り上げた。
まるで、その動作しかできなくなってしまったかのように。
受けた者のほとんどすべてが、正気を失い、最後には死に至ると言われる、世にも恐ろしい“試練”……“紅龍”となるための。
その只中に、この青年はいた。
それでも、初めは彼も、至極冷静だったのだ。
しかし、一条の光さえも射さぬ真っ暗な空間に閉じ込められ、一日一食、貧しい食事が部屋の中央に出現する他は何も起こらず、物音も聞こえないという監禁生活が十年以上も続くうち、ついに、彼は、ここにいる目的も理由さえも忘れ果て、脱出することしか考えられなくなってしまったのだった。
どれほどの間、叫び続け、壁をたたいていたものか。
とうとう、青年は力尽き、冷え切った床に倒れ伏した。
直後、妖しく光る青白い火の玉が、一つ二つと出現し始める。
徐々にそれらは数を増し、やがて空間すべてが、おびただしい数の、尾を引く球体で埋め尽くされた。
しばらくの間、鬼火達は、所在なげに漂っていたり、目的もなく飛び交い、回転したりしていた。
やがて、そのうちの一つが、横たわる青年の存在に気づいた。
人魂は、獲物を見つけた獣のように喜びに打ち震えて輝きを増し、動かない青年の体に、勢いよく飛び込んだ。
「うわあっ!」
青年は跳ね起き、
「く、苦しいっ、これは何だ、何かが私の中に入って来る……!
嫌だ、お前なんか知らない、出て行け、私の体から……!
誰か、誰か助けて、助けてくれ……!」
彼の絶叫を合図に、幾千、幾万の鬼火達が一斉に青年目がけて殺到する。
「やめろっ! 来るなぁ!」
振り払っても、転げ回って身をかわしても、それらは寄り合って彼の体に群がり、新しい人魂が
体内に侵入して来るたび、全身に激烈な痛みが走るのだった。
「痛い! く、苦し……がはっ」
体を細かく切り裂かれるような、すさまじい苦痛にさいなまれ、青年は身をよじり、叫び、拳を床や壁にたたきつけながら血を吐いた。
「誰か、誰か……!」
いくら叫んでも、声は漆黒の空間で反響するばかりで、差し伸べた手には誰の手も触れず、苦しみは一向に収まる気配はない。
この“試練”が終わるまでは、何があろうと、結界で封じられた扉が開けられることはなく、助けが来ることは決してないのだ。
今まで挑んだ者の中で、これに耐えることが出来たた者は、魔界王家が始まって以来、たったの二人だけで、近年では誰もいなかった。
そうして、すべての霊魂が体内に吸収されてしまうと、身の毛もよだつ
(魔族の第二王子ルキフェルよ、これより先、汝に
汝はこの後、狂気という名の暗黒に
「うるさい、ここから出せ、こいつらを私の体から出せー!」
いつまでも反響し続ける不気味な声を聞くまいとして、強烈な苦痛な中、青年は頭をかきむしり、喉が枯れるまで叫び続けた。
永遠と思えるほど長きに渡って続けられた“紅龍の試練”、その地獄のような責め苦からようやく解放されて、青年は完全に意識を失い、硬い床に倒れ込んだ。
鬼火の灯りもすべて消え、死のような静寂が辺りを満たす中、青年の体が輝き、徐々に形が変わってゆく。
通常の場合、成人と共に迎える魔族の第二次性長期、“第二段階
封じられた魔力を取り戻すと同時に、彼の体は、魔族としての成長も遂げることとなったのだった。
こうして、青年が第二形態を手に入れた瞬間、およそ二十年もの間、魔力によって固く閉ざされていた“紅龍の塔”の扉の封印が解かれ、ゆっくりと開き始めた。
知らせを受けて、急ぎ塔に赴いた魔界の王と第一王子は、第二王子は死んでしまったものと確信していた。
扉が開くには、二種類の場合があった。
もちろん、試練を無事にやり遂げた時。
そしてもう一つは、塔の内に入った者が、試練に耐え切れずに死亡した場合だった。
「ふん、二十年でくたばったか。もった方だろうな、親父」
唇を歪めて、タナトスは父親を振り返った。
「左様、ここ三十八万年ほどは、最後までどころか、一年もつ者すらおらなんだな。
いずれにせよ、魔界の王子の名に恥じぬ死に様であった」
ベルゼブルがつぶやいたとき、異母妹イシュタルが、息せき切って駆けつけて来た。
「異母兄上、サマエルは無事なのですか!?」
「いや、まだ……」
「サマエル! サマエル、大丈夫なの、返事をして!」
「待つがよい、イシュタル」
「待てません!」
異母兄の静止も聞かず、塔の内部に走り込んだ彼女の眼に飛び込んで来たのは、闇の中にうずくまり、全身を青白く光らせた何者かの姿だった。
「サ、サマエル、なの……?」
その声に、青年はゆらりと立ち上がる。
同時に、薄気味悪い光は消えた。
一歩一歩、着実に歩を進めて来る、黒衣をまとった姿には、長年に渡る苦役の跡はまったく見られず、その美貌にはかえって磨きがかかったようだった……外見上は。
だが、かつて、弱々しくとも澄んでいたその紅い両眼は、深いところに狂気と暗黒とを隠し持ち、結果、サマエルは、以前とは別人のようなオーラをまとうこととなっていた。
「叔母上、お久しゅうございます」
イシュタルのすぐ前まで歩み寄った彼は、胸に手を当て、礼をした。
「え、ええ……ああ、お前が無事でよかったわ……!」
イシュタルは、まとわり着いて来る得体の知れない恐怖を振り払い、甥に走り寄ると、きつく抱きしめた。
固く閉じられたまぶたから、いく筋もの涙がこぼれ落ちていく。
「叔母上……」
能面のようなサマエルの表情が、ふと和んだ。
「ふん、軟弱者め、生きていたか」
しかし、吐き捨てるような兄の言葉が耳に入ると、彼の表情は元に戻った。
「叔母上、ちょっと、よろしいですか?」
イシュタルの腕を優しく外し、タナトスに向き直る。
「兄上」
「……な、何だ」
第二王子の声は
「お元気で何より」
「き、貴様などに祝われる筋合いはない!」
強がっていたものの、タナトスの顔は引きつっていた。
そしてサマエルは、最後に父親へ視線を移し、片膝をついて、国王に対する
正式な礼をした。
「魔界王陛下には、ご
お陰様を持ちまして、ご覧のように私は試練をやり遂げ、カオスの貴公子……“紅龍”と相成ることが出来ましてございます」
彼の唇は、笑みを形作っていたが、その眼は、まったく笑ってはいなかった。
「魔法も使えるようになりました。ご覧になりますか?」
「……それには及ばぬ。
ベルゼブルはそう言い捨てたのみで、重々しいマントを
「異母兄上、お待ち下さい! たったそれだけなのですか!? サマエルは二十年も……」
王を呼び止めるイシュタルを、サマエルは制した。
「叔母上、いいのです」
「でも、サマエル……」
「それよりも、久しぶりに外に出て、少々疲れました。
眼も暗闇に慣れてしまっているようで、
塔に戻ってもよろしいでしょうか?」
「え、ええ……」
気遣わしげな叔母の視線を避けるように、彼は、暗い塔の中へと取って返した。
(やはり、私の居場所など、どこにもない……。
私には、この闇の中こそがふさわしいと陛下はお考えなのか……。
いや、死んでしまったと期待していたのが裏切られて、落胆なさったのだろう……。
……ならば、なぜ、陛下は初めから私を、目の届かぬところに封じ込めてお育てにならなかったのか。
その方が、私にとっても、よほど楽だったのに……!)
サマエルは、がくりと膝をつき、頭を抱え、そのまま闇を凝視し続けた。
その瞳は、いつまでも乾いたままだった。
二十年以上もなめ続けた
そうするうちに、再び体が輝き出し、またも第二段階の変化を遂げた彼は、闇に向かって
しかし、その叫びは、誰の耳にも届かない。
彼の声は、可聴範囲を大幅に越えており、人族はもちろん魔族でさえ、まったく聞き取ることが出来ないものだったのだ。