4.第三の“眸”(2)
「イナンナ、大丈夫か?」
彼女が目覚めたとき、黄金のライオンはすでにおらず、枕元にはタナトスと、そばにもう一人、銀髪の人物がいた。
「はい、タナトス様……あら、サマエル様……? いつ魔界へ?」
声に出してから、イナンナは、相手が女性だということに気づいた。
「あ、申し訳ありません、サマエル様によく似ておられたので、つい……」
美女はにっこりした。その笑顔もどことなく、魔界の第二王子に似ていた。
「いいのよ、イナンナ。わたしはイシュタル。サマエルの叔母ですもの。
あんな美形の甥に似ているなんて、誉め言葉以外の何ものでもないわ」
「ふん、何が美形だ、あんな軟弱者!」
タナトスはぷいと顔を背けた。
「ほらまた、いじける。本当に焼餅
「うるさいぞ。それより早く、彼女を
言い捨てて第一王子は、隣の部屋へと入って行く。
「……まったくもう、あれが目上の者に対する態度かしらね、仕様がない子」
甥が消えたドアを見つめ、
「そうそう、こちらを早く済ませてしまわないとね。
あなたにどこか悪いところがないか診てくれと、無理矢理引っ張って来たのよ、わたしを。
魔法医もいるけれど、女同士の方が、あなたも安心だろうと言ってね」
「まあ、タナトス様が……済みません」
「慌てなくていいわ、ゆっくり起きて」
銀髪の少女に手を貸してやり、
「……ちょっと失礼するわよ」
イシュタルは、ぱちんと指を鳴らす。
と、紐がほどけてシルクのガウンがするりと脱げ落ち、輝くようなイナンナの裸身が
「きゃっ」
恥じらい、慌てて前を隠す美少女の姿に、イシュタルは思わず口笛を吹く。
「よくまあ、無事でいられたわ、あなた。
人っ子一人いないところに幽閉されたのが、かえって幸いだったみたいね……。
でも、もしわたしが、魔族の男だったら……」
「……え?」
「いいえ、こっちの話よ」
きょとんとするイナンナに、わずかに
「大丈夫、シンハが癒したのね、傷はみんな治っているわ」
再び彼女は、指を鳴らしてガウンを着せかけ、甥を呼んだ。
「タナトス、もういいわよ!」
待ちかねていた魔族の王子は勢いよく扉を開け、ずかずかと戻って来る。
「叔母上、どうだった。その……」
「何もされてないわ、彼女は。それが知りたかったのでしょ」
「そ、そんなことは匂いで分かる、俺は単に、傷を診てやって欲しいと……」
「そうかしら? シンハは
「いや、念には念をと思っただけだ、いけないのか、叔母上」
「別にいけなくはないわ、でもお前、これほどの美少女を前にして、何も感じないわけ?
道理で、
ひょっとして、お前、本当は女が駄目なのじゃなくて?」
あけすけに言われ、タナトスは真っ赤になった。
「い、いい加減にしろ、客の前で何を言い出すのだ、叔母上!
大丈夫ならそれでいい、さっさと部屋に帰れ!」
すると今度はイシュタルが、きりりと
「何ですって! こちらの都合も聞かず、勝手に引きずってきた挙げ句が、その態度!?
いい加減にしてほしいのはこちらの方よ!
今度、何か頼みに来ても、絶対手は貸さないわ、このことは、兄上にも報告しますからね!」
「ふん、好きにすればいいだろう! 親父は、俺にはサジを投げているから無駄だがな!」
「まあ、何て言い草!」
ぷりぷりしたままイシュタルは出て行き、タナトスは手荒くドアを閉めた。
「タナトス様……」
ベッドの中からイナンナは、困惑した視線を彼に投げかけた。
「気にせんでいい、イナンナ。
叔母はサマエルばかりひいきして、俺のことは目の敵にし、ああやって文句ばかり言うのだ。
ヤツが、猫をかぶっているとも知らずにな。バカ女めが!」
吐き捨てるように言いながらも、ドアを睨みつける魔族の王子の顔は、心なしか淋しげだった。
「そんなことはありませんわ、タナトス様。
イシュタル様……でしたわね、叔母上様は、あなたのことを思って、叱って下さるのだと思います。
本当に嫌いなら、まったく相手にしないでしょうし、さっきも、いらしては下さらなかったと思いますわ」
「……あの叔母が、俺のことを思ってだと?
そんなことがあるわけがない。キミは叔母のことを知らんのだ」
タナトスは、そっけなく首を振った。
「いいえ、きっとそうですわ。だってタナトス様も、本当にお嫌いな方とは、お話もなさりたくないでしょう?
気にかけているからこそ、色々言ってしまうのだと思いますわ」
「……そうなのか……?」
一言つぶやいたきり、黙り込んでいた魔族の王子は、しばらくすると顔を上げた。
「ああ、それはそうと、今すぐ人界に帰してやりたいが、魔法陣が作動するようになるまで、あと三日ほどかかる、その間、ここで辛抱してくれ」
「辛抱なんて……わたし、タナトス様のおそばにいられれば……」
イナンナは頬を染めた。
その後三日間、タナトスは負い目のせいもあり、思いつく限り彼女に優しく接した。
そして、いよいよ人界へ帰ると言う日、黔龍城の中庭を散策するイナンナの許へ、どこからともなくシンハがやって来た。
『イナンナよ、名残は惜しいが、別れの
「シンハ、お世話になったわね、ありがとう。あら、ダイアデムは一緒じゃないの?」
巨大な獅子は、ぶるぶると体を揺すった。
日光の下でも、ライオンのたてがみは赤々と燃え上がっていた。
『紅毛の童子は送別には参らぬ。また、二度と汝には会わぬと申しておった』
「まあ、どうして?」
イナンナは小首をかしげた。
『……説明は至難。
我ら宝石の化身は、命ある者とは愛を語ることを禁じられておる……とでも申せばよかろうか』
言いながら魔界の獅子は、眼に焼き付けておこうとするかのように、銀髪の少女をひたと見据えた。
イナンナは、エメラルドのような眼を見開いた。
「えっ、あなた方は、生身の相手を愛することを禁じられていると言うの?
宝石だから……生き物ではないから?」
シンハは重厚な仕草でうなずく。
『左様。その上で我らは、魔界王家すなわち、魔界の王たる者に従属するよう定められておるゆえ』
「……そうなの。じゃあ、ダイアデムによろしく言っておいてね。
わたしは怒ってないから、またいつか会いましょうって」
それを聞いたシンハの炎が一挙に弱まり、うつむき加減に彼は答えた。
『……必ずや伝えおこう、イナンナ。
それと……童子はこうも申しておった。汝は、闇の貴公子とは結ばれることはできぬと。
これは、我ら“眸”の予知であり、決して外れぬ……。
いや、相済まぬ、無用なことを申した……』
イナンナは一瞬青ざめたものの、すぐに首を横に振った。
「……いいのよ。でも、やってみなければ分からないでしょう?
だって今まで外れたことはなくても、これが外れる最初かもしれないもの。
当たるかどうかも分からない占いや予知のせいで諦めるなんて嫌だわ、わたし。
自分の努力が足りなくて、相手にしてもらえないのなら仕方がないけれど」
ライオンが答えようとしたとき、魔族の第一王子が現れた。
「イナンナ、そろそろ人界へ……おっ、来ていたのか、シンハ」
「タナトス様、ダイアデムは見送りに来られないそうですわ」
「ふん。別れのあいさつくらいなら、誰も文句は言わんと思うのだがな。変に頑固だな、ヤツも。
まあいいか、代わりにシンハ、貴様があいつに彼女の笑顔を送ってやるがいい」
彼が気遣いを見せたのは、数日前に交わした、ダイアデムとの会話を思い出したからだった。
「……笑顔を送る?」
少女はきょとんとした顔つきになった。
「ああ、こいつら“眸”は、つながっている。
だから、シンハが見ているものを、同時刻にあいつも見ることができるのさ」
「そう……なのですか」
「ああ。せめて笑いかけてやってくれないか、ダイアデムに」
「はい」
イナンナは少しかがんで、魔界の獅子の揺らぐ瞳を覗き込んだ。
「……ダイアデム。わたし、人界へ帰るわね。
でもね、危険な目に遭ったのはあなたのせいじゃないわ、あなたの言うことを聞かなかったわたしが悪いんだから。
だから、あんまり気にしないで。
危なくなくなったら、また来るわ、そのときにまた、お話を聞かせてちょうだいね。
じゃあ、さようなら、元気でね」
彼女は微笑んで手を振り、立ち上がった。
『イナンナよ。紅毛の童子は、別れは言わぬと申しておる、もはや会えぬと知りつつもだ』
そう言ったきり、獅子はひたすら少女を見つめている。
イナンナとて、一時は貴族として暮らした身だった。
しかしそれ以上に、彼らは制約の多い生活を強いられてきたのだと、その時初めて彼女は実感した。
「ダイアデム、ごめんなさいね。知らなかったのよ。あなたって、本当に色々あって大変なのね。
シンハ……あなたも?」
ライオンは、かすかにうなずく。
「また来るだと?
あんな目に遭って、キミは、魔界が恐しくなったのではないのか」
尋ねる魔族の王子に、銀髪の少女は微笑みを返した。
「……どうしてですの? すべての魔族が、リリスのようではないでしょう。
それに、彼女もよほど思いつめていたみたいですわ、どうしてもあなたに振り向いてもらいたかったのでしょうね、わたしのように」
「……イナンナ」
「さ、参りましょう、タナトス様」
「あ……ああ。行ってジルにも謝らねばなるまい……気が向かんが、サマエルにもな、一応」
タナトスは、イナンナと共に魔法陣に乗り込んだ。
「元気でね、シンハ。ダイアデムによろしく」
彼女は美しい獅子に手を振った。
「リリスのことで何かつかんだら、すぐに連絡を寄越せ」
『了解した』
直後、ライオンの前から、二人は去った。
話を聞いたジルは快くタナトスを許したが、サマエルは兄を、簡単に許そうとはしなかった。
「でもお師匠様、こうしてイナンナも無事だったのよ。どうしてそんなに怒ってるの?」
しまいにジルがそう言うと、サマエルは眼を閉じ、額に手を当てた。
「……私は鍾乳洞にいる。しばらく、誰も来ないでくれ」
そう言い置いて、彼は姿を消した。
「お師匠様……どうしちゃったのかな」
「まあ、あいつが怒る気持ちも分からんではない。
汎魔殿は陰謀渦巻くところだからな、一歩間違えばどうなっていたか……。
俺が軽率だったのだ、黔龍城の方で待たせておけばこんなことには……」
「いいえ、タナトス様……」
「ともかく、俺はリリスを捕えに魔界へ戻る。この埋め合わせは必ずするからな、イナンナ、ジル。
サマエルにもそう伝えておいてくれ」
そう言い残し、急ぎ、タナトスは魔法陣で戻っていった。