4.第三の“眸”(1)
「な、何ゆえ、おぬしがここに……」
その瞬間、テネブレの空虚だった表情が動き、裂け目のような口が開いて、初めて肉声が
彼の暗い視線の先には、
『“
バアル・ゼブルは、またも
再び、闇中から重々しい声が届くと、暗黒の宝石の化身は、歯を噛み鳴らした。
「く、あやつめが……!」
バアル・ゼブルとは、“高い館の主(王)”という意味で、現魔界王ベルゼブルの真の名である。
『大事無いか、“闇の貴公子”よ。娘ごは』
声の主は、おのれを睨み据えるテネブレには構わず、魔族の王子に話しかけた。
「ああ、無事だ。危ういところだったが、何とかな」
タナトスは驚くそぶりも見せず、答えた。
『左様か。間に合うたな』
声と共に、炎は、滑るように近づく。
何者かが灯りを手にし、歩み寄って来たかと思いきや、暗闇の中から現われた相手は、二足歩行はしていなかった。
音もなく歩を進めて来たのは、巨大なライオンだったのだ。
大きさは、ゆうに、人界のそれの二倍はある。
「あ……タナトス様?」
その時、イナンナが正気に返った。
「イナンナ、気がついたか。大丈夫か?」
炎をまとった獅子の登場に動揺した“黯黒の眸”は、もう、彼女の精神支配を続けられなくなっていたのだ。
「はい。わたし、どうしたのでしょう、急に気が遠くなって……。
きゃ、何……!?」
暗闇の中で燃え盛る、金色の獅子に気づいた少女は、ひしと王子にすがりつく。
「心配いらん、こいつはシンハと言って、味方だ。
魔界王家の守護精霊……つまり、俺達の守役を務めている魔界の獅子、とでも言えばいいか。
いつもは眠っているのだが、俺が窮地に陥ったのを感知して出て来たのだろう」
「まあ、そうですの……美しいライオンですのね」
安堵すると共にイナンナは、その雄姿から眼が離せなくなった。
「そうだな」
揺らぐ光源のせいだろうか、彼女に答えるタナトスは、いつもとはどこか違って見え、そんな風に言われたら激怒しただろうが、今の彼の表情は、弟にとてもよく似ていた。
一方、しばし無言で、テネブレと向き合っていた魔界の獅子は、ぶるんと体を揺すった。
その動きにつれて、炎のたてがみの勢いが増し、火の粉が周囲に飛び散る。
金色の瞳が炎を反射して輝き、真珠色の牙が稲妻のように
神託のごとくに重厚な言葉を、くわっと開けた紅い口から、魔界の獅子は紡ぎ出した。
『“黯黒の眸”よ、汝が使命を思い出すがよい。
ここ、“要石の間”にて、魔界全土を覆う結界の張り番を
黄金のライオンにたしなめられても、暗い宝石の化身は、不平を並べるのをやめなかった。
「何が使命か。シンハよ、おぬしは何ゆえ、ことごとく我の邪魔ばかり致す?
魔界王家に仕えて幾年月、ほんの一時、我が気の
話の間中、シンハは鼻にしわを寄せて低く唸り、ぴしぴしと床にたたきつけられる尾の輝く軌跡が、緑色の残像となって常闇の中に
『口を閉じよ、“黯黒の眸”。
汝が好き放題に振舞えば、生き物達がひどく迷惑を
経験より学ぶことも出来ぬとあらば、自由を得る資格なぞ、ありはせぬ』
「くっ! おぬしはいつもそれだ! 我とても、おぬしのごとく……」
『“黯黒の眸”よ。未だ合点がゆかぬと申すか』
「ええい、もうよいわ! 眠りについておればよいのであろう、呼びいだされるまで!
我がこの場におれば、魔界の結界は無敵ゆえな!」
捨て台詞を吐くと、唐突にテネブレの姿はかき消えて、魔法陣の灯りも消えた。
辺りが真っ暗にならなかったのは、赤々と燃え上がる獅子のたてがみのお陰だった。
「……終わったか」
魔族の王子がつぶやくと、ライオンは、火の粉を散らしながら、悠々と二人に向き直った。
『これにて、しばしは“黯黒の眸”も、大人しゅうしておることであろう。
“闇の貴公子”よ、娘ごを連れ、
「ああ、助かったぞ、シンハ。礼を言う」
タナトスには珍しく、本心からの謝意を述べた。
『礼には及ばぬ、我が務めゆえ。
──ムーヴ』
役目を終えた守護精霊は、移動呪文を唱えて姿を消した。
すぐさま、タナトスもイナンナを連れ、
「うむ、大分顔色がよくなったぞ、イナンナ。
一時はどうなることかと思った……まさか、汎魔殿の中で、あんなことが起こるとは……。
危うく、ジルにも申し訳が立たなくなるところだった。改めて済まなかったな。
危ない目に遭わせるつもりは毛頭なかったのだ、許してくれ」
魔族の王子は、深々と頭を下げた。
イナンナは弱々しく首を振った。
「そんな、許すだなんて。お顔をお上げ下さいませ、タナトス様。
わたしがいけなかったのですわ、ダイアデムは止めたのに、リリスと話がしてみたいと言い張ったのです。
ご心配をおかけして、済みませんでした」
タナトスもまた、否定の身振りを返した。
「いや、キミのせいではないぞ。
あのじゃじゃ馬の突飛な行動には、俺も周りの者達も、振り回されてばかりだ。
今回、ダイアデムが奮闘したお陰で、予想外に早くキミを見つけだせたのだが、ヤツはキミに合わせる顔がないと、宝物庫に閉じこもっていてな」
「まあ、わたしが悪いのに。タナトス様、叱らないであげて下さいね」
「ああ、無論だ。相手がリリスでは、ヤツには荷が勝ち過ぎるからな。
そうだ、キミの無事な顔を見れば、あいつも気が休まるだろう。ここに呼んでもいいか?」
「はい、呼んであげて下さい。わたし、謝らなくては」
彼はうなずき、汎魔殿にいる宝石の化身に念話を送る。
“ダイアデム、イナンナは無事助け出したぞ。
彼女は、自分が悪かったのだから、貴様を叱るなと言っている、会いに来い”
すると、一呼吸おいて微弱な念波が返って来た。
“……いや、いい。オレ、もう、彼女には会わないどくよ……”
“何だ? よく聞き取れんぞ”
“もう、イナンナには会わねーつってんだ”
今度は、明瞭な思念が届いた。
“貴様、まだ、そんなことを言っているのか。
大体さっきも、貴様自身が来ればいいものを、なぜ、わざわざシンハを呼び出したりしたのだ?
あの場面で助けに来れば、彼女も、貴様を少しは見直したかも知れんのに”
“……てめー、ぜんっぜんわあってねーな。
万が一にも好かれたりしねーよーに、わざと、シンハを行かせたってのに……”
それまでは常に憎まれ口をたたき、威勢のよかった少年から送られて来る心の声は、今、ひどく打ち沈んでいた。
その変わりようが理解できず、タナトスは問い返した。
“わざと、だと? それに、なぜ、落ち込む必要があるのだ? 彼女は無事だったのだぞ”
“考えてみろよ、オレは名目上とは言え、『魔界王の伴侶』ってことになってんだ。
その上、ずうっと昔だけど、ちっとドジ踏んじまったこともあってさ、女、と関わるの、禁じられてんだよ。
だから、もしも……万が一、イナンナと相思相愛になれたとしたって、一緒にいることもできやしねーんだ……。
好き合ってんのに、魔界と人界に生き別れ、なんてさ……オレはともかく、彼女が辛いだろ”
伝わって来る宝石の化身の声は、どこか苦々しかった。
一瞬考え、タナトスは念話を送った。
“……ふむ。仮定でものを言っても始まらんとは思うが、結局はそういうことになるわけだな”
“ああ。そんでも、連れて来てくれって頼んじまったのは……お前の城に招待されたら、イナンナが喜ぶだろーなって思ったからなんだ……。
彼女の笑顔を見たかっただけなのに、ンなコトになっちまって……。オレってやっぱ、
うつむき加減の映像と共に、宝石の化身の思念が返って来る。
タナトスは、またも面食らった。
““何だと? 貴様は魔界の王権の象徴だぞ、胸を張っていて当然だ。それを疫病神だと?”
“……何が王権の象徴だよ。ンなもん、ただのお飾りじゃん”
“何を言うか、長年魔族は、貴様らを大切に扱って来たはずだ”
“けっ、白々しい。お前ら、よく言ってんじゃんか、『“眸”の輝きに深入りするな、身の破滅を招く』って。
お前ら、ホントは、オレら『眸』のコト、信用してねーだろ。
どんだけ経っても飼い慣らせねー、野性の猛獣だって思ってて、だから鎖につないでんだろ?”
今度は、あかんべーをしている映像つきの声が、タナトスの心の中に響いて来た。
“ふん、テネブレならともかく、貴様は、ずいぶんと大人しい猛獣だと思うがな。
それにだ、貴様らごときで破滅するのは、おのれの意志が
弱者に容赦ない魔族の王子は、冷たく言ってのけた。
“あのなー、皆が皆、お前みたく精神的に強いってわけじゃ……”
“ええい、そんな下らんことはどうでもいい! 貴様が来たくないとほざくのなら、シンハを寄越せ!”
宝石の化身の湿っぽい態度に苛ついたタナトスは、ついに怒り出した。
“まったくじめじめと! 下らん!
俺は、これから、汎魔殿へ行かねばならんのだぞ!
またどうせ、親父は四の五の小言をほざく気なのだろうが、一応は聞かねばならん!
さもないと、王位は譲らんとか何とか、わめき出すに決まっているからな!”
宝石の化身は、ため息をついた。
“……や~れやれ……。仕っ方ねーな、行かせりゃーいいんだろ。
……けど、恐がんねーかなぁ、彼女”
“そんな心配は無用だ!
綺麗なライオンだと、さっきイナンナは言っていたぞ、いいからさっさとシンハを寄越せ!”
“……そっか。じゃあ、行かせる”
ダイアデムはまだ、気が重そうだった。
「ヤツは来る気はないそうだ」
念話を打ち切り、タナトスはイナンナに言った。
「えっ、そんなに気にしなくてもいいのに……そう言って下さいました?」
心配そうな銀髪の少女に、彼は首を振って見せる。
「いや、何と言ったらいいか……その、色々あってな。あいつの魔界での立場は、少々特殊なのだ。
その代わり、さっきの魔界の獅子、シンハが来る。
俺は、親父の許へ行かねばならん、会議の途中で飛び出して来てしまったのでな」
イナンナは、緑の眼を見開いた。
「まあ、申し訳ありません、わたしのせいで……」
「気にするな」
タナトスは彼女の細い肩に手を置いた。
「はい、でも……」
「どうせ、キミのことがなくとも、途中で出て来るつもりだったのだ。
キミが心細い思いをしていると言って、さっさと切り上げられる。
すぐに戻れる口実を作ってくれてありがたいくらいだぞ、イナンナ。
おう、来たか、シンハ」
どこから入って来たのか、音もなく、先ほどのライオンが現れていた。
けぶる黄金の毛並み、巨体に似合わぬしなやかな動きで、魔界の獅子は彼らに歩み寄り、厳粛な声で告げた。
『“闇の貴公子”よ、
現魔界王ベルゼブルを“バアル・ゼブル”と真実の名で呼ぶのは、魔界王家創設期より仕える“眸”達だけである。
「貴様に
『心得た。この命に代えても、娘ごを護ると誓約しよう』
「
すると金色に輝くライオンは、無言で魔界の王子を見据えて、大きく体を揺すった。
その仕草に連れて、火の粉がタナトスのマントにも飛び散ったが、彼は振り払おうともせず、獅子を見返した。
『
ライオンは、瞳を
「ふん、予知か。どうせなら、彼女の拉致を予知して欲しかったものだがな。
まあいい、俺は行く。イナンナ、すぐ戻って来るからな。
──ムーヴ!」
呪文と同時に魔族の貴公子の姿はかき消え、残された魔界の獅子は、ドア近くに寝そべった。
しばし、沈黙が続き、イナンナは勇気を
「あ……あの、さっきは、どうもありがとうございました、シンハさん……」
『礼には及ばぬ。我が責務を果たしたまで。尊称などもいらぬ、呼び捨てで結構。
堅苦しい言い回しも、無用に願いたい』
ライオンは、顔だけを上げて、答えた。
イナンナは、ほっとして、さらに言った。
「……そ、そう。じゃあ、シンハ、わたしのこともイナンナと呼んでね」
獅子は、重厚な仕草でうなずいた。
『汝が望むならば』
「それにしても、あなたの眼は、ダイアデムそっくりね。
先ほど地下にいたときは、全部金色をしているように見えたのに」
今、シンハの両眼は紅く、ダイアデム同様に中には黄金の輝きが、燃え上がる炎めいてゆらゆらと踊っていた。
『怒りが我が瞳を金色に染めるのだ、イナンナよ。
“黯黒の眸”の
「そうなの。でも、どうして、あなたはダイアデムと似た瞳をしているの?」
問いかけた刹那、ライオンの瞳の奥、金色をした炎が激しく揺れた。
『……ふむ、我が瞳……か』
「? どうかした?」
獅子は、眼をしばたたかせて起き上がり、落ち着きなげに身じろぎした。
『我……左様、我は……魔界王家に伝わる秘宝の一つ。
我が本体は……“
「まあ、あなたも魔界の至宝? わたし、てっきり、至宝は二つだけだと思っていたわ」
彼女が、じっと見つめると、黄金のライオンは背中の毛を震わせた。
『……汝が知らぬのも道理』
「そうね。わたしは、時々タナトス様やサマエル様から、断片的なお話を聞くだけですもの、至宝が三つもあるなんて知らなかったわ。
もしよかったら、詳しく教えて下さる? シンハ」
彼女が熱心に頼むと、魔界の獅子は、拒絶もならずと言った風に深く息をつき、口を開いた。
『……さすれば、そもそもの初めから語るとしよう、か。
元々我らは、“眸”と呼ばれし単一の結晶体であった。
遙かなる太古、三個の貴石として切り離され、永劫とも呼べる長き年月が過ぎ行く中、各々別個の精霊が宿るようになっていったと伝承されておる。
知っての通り、負の感情を食らうテネブレは“黯黒の眸”。
死に際に生き物が、大地にこぼす紅き血潮を糧としておるダイアデムは、“焔の眸”と呼ばれる。
それに引き換え、我、“盲いた眸”は、どのような力も集めぬ。
彼らの力を若干融通され、かろうじて肉体を維持しておるのだ。
我は元々、無色透明、内部に黄金の炎を宿す貴石でありしゆえ、肉体をまといし折には、かような瞳として表れるのであろう』
「でも、どうして“盲いた眸”なの? あなたはちゃんと見えている……のでしょう?」
イナンナは小首をかしげる。その仕草は白鳥のように優雅だった。
微妙な目つきで獅子は彼女を見、一呼吸置いて答えた。
『……しかと見えておる。
されど、名付けられた時分には、この獅子の肉体も、“我”の意識も持ってはおらなんだゆえ、かような名称で呼ばれる理由は、遺憾ながら我には分かりかねる』
そう言うと、シンハは再び床に寝そべり、前足にあごを乗せた。
『左様なことより、疲れたであろう、乙女よ。
眠りは疲れを癒す最良のものとやら。闇の貴公子が戻るまで眠るがよい』
「ええ……そうね。タナトス様が戻られたら、起こしてね、シンハ」
『心得ておる』
獅子は眼をつぶった。
誘われるように、イナンナも眠りに落ちた。