~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

3.拉 致(4)

「イナンナ、どこだ!」
タナトスの声が、汎魔殿の最下層に響き渡る。
そのとき、彼女は、呼びかけにも応えられないほど意識がもうろうとして、冷たい床に倒れ伏していた。
“要石の間”は、かなりの広さだったものの、彼は、敏感な夢魔の能力で、弱ってはいるが(かぐわ)しい少女の“気”を感知し、急ぎ駆け寄る。

「イナンナ、よかった、しっかりしてくれ!」
「……う……」
彼は、イナンナを揺さぶり、目覚めた少女は、闇中で強い輝きを放つ、紅い星のような双眸(そうぼう)に、思わず体を硬くする。
しかし、すぐにそれが最愛の人だと気づいたようで、ひしと彼にすがりついて来た。
「ああ──タナ、トス様!」
「大丈夫か? 遅くなってすまん。まさか、リリスが、ここまでやるとは……。
ヤツの相棒は捕えた。後は、本人を締め上げてやるだけだ。あいつの行状(ぎょうじょう)は目に余る。
キミを、こんな目に遭わせた(つぐな)いは、きっとさせてやるからな」
「た、助けに、き、来て、いた、だけた、だけで、わ、わたし、は、幸せで、すわ……」
安心したことで、寒さが募ったのか、歯の根も合わぬほど震えながら、少女は答える。

「冷え切っているな、話は後だ。早く暖かいところへ行こう」
「はい……」
抱き上げられた人族の少女が、うっとりと王子を見上げた時だった。
青白い魔法陣の明度が急激に上昇し、魔界の至宝が声をかけて来た。
“寝所にでも連れて参るつもりか、『闇の貴公子』よ。おなごを温めるには、抱くのが一番と申すゆえな、ククク……”
「“黯黒の眸”か、たわけたことを。貴様のたわごとに付き合っている暇はない。
──」

話もそこそこに、タナトスが移動呪文を唱えようとした刹那、魔法陣が眼もくらむ輝きを放った。
「くうっ、眩しい! 貴様、また何を企んで……」
「そこな娘を置いていってもらおうか、“闇の貴公子”よ」
「“セリン”!」
いんいんと響く声に、眼を開けた瞬間、彼は叫んでいた。

漆黒の髪の間から、曲がりくねった角を二本生やし、暗黒に覆われた眼と、地底へとつながる裂け目めいて真っ赤な口を持つ、闇の化身とも言うべき男が、眼前に立っていたのだ。
それは、かつて、人界と魔界との間に起こった大戦争の引き金となった男の姿だった。

「貴様は天界へ行ったはず、……」
言いかけて、タナトスは、すぐに思い違いに気づいた。
「い、いや、貴様は、“黯黒の眸”の化身、“テネブレ”だったな、セリンを操っていたときの姿だ。
だが、なぜ、結界を越えて化身を出せるのだ、“黯黒の眸”……」

テネブレは、耳まで裂けているかのように感じさせる紅い口で、薄気味悪く、にたりと笑った。
「教えてやろうぞ。先ほどやって来たリリスと、この娘が発した負の感情が、結界を超えて我に力を与えたのだ。
彼女らの感情は深く激しく、素晴らしきものだ。美しき女どもを、複数同時に操るのもまた一興。
それゆえ、置いてゆくがいい、魔族の王子よ。おぬしに成り代わり、我が可愛がってやるとしよう」

「嫌って言ってるでしょう、いい加減にして!」
「ふざけるな、貴様ごときに誰が渡すか!」
二人は同時に叫び、即座にタナトスは結界を張った。
「結界など無駄なことよ。内部よりは攻撃できぬであろう。
傲慢(ごうまん)なる魔族の第一王子よ、弟王子と同じ運命をたどるか。この、光も差さぬ地下の牢獄で?
キーキキキ……」
宝石の化身は、ねじ曲がった顔をのけぞらせ、木材がきしるような笑い声を立てた。

(……たしかに、このままでは戦えん。
イナンナを安全なところへ転移させて……いや、この状態では転移も無理だ。
それに、この場所で強い力を使えば、汎魔殿が土台から崩壊してしまう。
ここは城の最も重要な基礎、だからこそ、“要石の間”と呼ばれているのだからな。
その上、こやつをぶち壊すわけにもいかんときている。まったく忌々しい、根性曲がりの石め!)
「くそっ!」
魔族の王子は、ぎりっと歯を食いしばり、魔界の至宝の片割れを見据えた。

その険しい視線を柳に風と受け流し、宝石の化身は、長い爪が生えた指で彼を差し招いた。
「さあ、往生際(おうじょうぎわ)が悪いぞ、魔族の王子よ、()くイナンナを差し出せ。
純潔なる乙女の精気を(かて)とし、リリスを妃に据え、我こそがこの魔界を()べる王となるのだからな。
おう、そうだ。従うならば、おぬしも家臣に加えてやっても良いぞ? クククク……」

「くっ、誰が貴様などに従うか! 俺を見くびるな!」
魔界の王子は、地団太を踏んだ。
「おうおう、青二才が吼えよるわ……! クク、クワックワックワッ……!」
テネブレは、奇妙な生物の珍妙な動きを見た、とでも言いたげな表情で、鳥めいた笑い声を発した。
「な、何がおかしい!」

その瞬間、宝石の化身は真顔になった。
元々表情に乏しい顔から、すべての感情がぬぐい去られたように消える。
光のない瞳をタナトスに向け、テネブレは、今までとは打って変わって、ひどく沈んだ声を出した。

「……サタナエルよ、次期の魔界の支配者と自惚(うぬぼ)れし者よ。
すべてを手に出来るつもりでおるのであろうが、その名を()ってしても、所詮(しょせん)は死すべき運命(さだめ)にある身。
気位のみにては、生きては行けぬぞ。我が精神の支配を受け入れ、空虚なる暗黒の中へと身を(ゆだ)ねよ。
さすれば、悩みも苦しみも悲しみも完全に滅し、永久(とわ)なる魂の自由を得られるのだ。
生きとし生ける者が感じる心の痛み、それらはすべて無駄なこと。
左様な下らぬ感情なぞ、二度と感じずとも済むようになる……」

突如、タナトスの背筋を()い登る悪寒。
じわじわと迫って来るようなこの雰囲気は、サマエルが壊れてしまいそうになったときに見せる異常さに酷似していた。
いや、弟に“闇”という名の狂気を植え込んだ張本人は、この黒い石、そのものなのだ。
それに思い至ったタナトスの心に、炎も同然の憤怒(ふんぬ)が湧き上がった。
「黙れ、たわけ者! 俺の意志は俺のものだ、貴様ごときにくれてやるほど安くはないわ!
 サマエルなどと一緒にするな、貴様の傀儡(くぐつ)と成り果てるくらいなら、死んだ方がマシだ!」

それを聞いた貴石の精霊の口が、またしても不気味な笑みを形作る。
「ククク……焦らずとも、今のままでは早晩そうなろうぞ。
女を護り()くか、タナトス……“現世の君主(サタナエル)”よ、おぬしの真名にふさわしき最期とも言えような、キキキキ……」
「貴様、ふざけるな──!」
なぶるような“黯黒の眸”の言葉が続くと共に、タナトスは怒り心頭に達し、全身を震わせた。

そんな中、彼に抱かれていたイナンナが口を開いた。
「タ、タナトス様……わたしを、置いて、お逃げくだ、さい」
「そんなことは出来ん」
彼女に眼もやらず、魔族の王子は即答する。
「で、も、こ、このままでは……」
「たしかに八方(ふさ)がりだ。しかし、キミをあいつに渡すわけにはいかん」
「タナトス様……」

「恐れるな、イナンナ。キミの恐怖する心が、“黯黒の眸”に力を与えているのだ。
俺を信じて、心を強く持て」
テネブレを睨み据えたまま、タナトスは彼女に語りかける。
そんな彼を見上げ、銀髪の少女はうなずいた。
「はい。恐れません。あなたを信じます」
「それでいい。案ずるな、必ずここから助け出してやる」
「はい……」

頬を染め、イナンナが王子に身をすり寄せると、テネブレの眼の奥で闇がひるみ、姿も揺らぐ。
その一瞬の動揺を見抜き、タナトスは呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」
しかし、転移は出来なかった。
「くそ、駄目か!」

「くくっ、さすがの“闇の貴公子”も、結界を張ったままで転移は出来ぬと見ゆるの。
それも当然か、この“要石の間”は、汎魔殿を覆う結界を造り出しておる源。
最も強大な魔力にて守護されし場所ゆえ、他の力は、すんなりとは作動せぬ」
そこまで言うと、闇の化身は暗く瞳を輝かせ、ぽんと手を打った。
「左様、よいことを思いついたぞ。
イナンナよ、喜べ。我がタナトスを操り、おぬしと添い遂げさせてやろう。
さすれば、我が傀儡たるタナトスは、おぬしに優しく接し、……」

「ふざけないで! お前に操られたタナトス様なんか、欲しくないわ! 
嫌われても、冷たくされても、わたしは、今のままのタナトス様が好きなの!」
テネブレをさえぎり、爆発するように言ってしまってから、イナンナは耳まで紅くした。
「うぬぬぬ……」
宝石の化身の姿が、さらにぐらぐらと揺れ、実体を失いかけて透き通り始める。

それでも、タナトスの思考は、少女の告白を聞いたというのに、冷淡そのものだった。
(ふん……こやつの弱点は、“愛情”とかいうヤツか。
だが、俺にも“愛”とか言うヤツは、よく分からん。
ジルを好きなことは確かだが、この娘は……取り立てて、どうとも感じられん。
客として招いた手前、放っても置けず、取り戻しに来ただけだしな)

いくら想いを打ち明けても、眼も合わせてくれない相手に、イナンナも言葉の接ぎ穂を失い、うつむく。
ぎこちない空気が流れゆくうち、“黯黒の眸”の化身は力を取り戻した。
ぽかりと口を開けた洞窟の闇も同然な瞳を、異様な光で満たし、テネブレは人族の少女に、その禍々しく節くれ立った手を伸ばす。

「見よ、イナンナ。そうまでして、おぬしが想っている、魔族の王子の反応を。
こやつの心は、おぬしにはないのだ。理由は、ただ一つ、おぬしに魔力が備わっておらぬゆえ。
娘よ、我が許へ参れ。絶大なる魔力を授けよう。
さすれば、おぬしも、魔界の王妃にふさわしきおなごに、生まれ変わることが出来ようぞ」
「ふん、イナンナが、貴様ごときの甘言に釣られるとでも思って……」

「まあ……わたしも……魔法が使えるようになるの? ……素敵ね」
それまで自信満々だったタナトスは、自分の耳を疑った。
先ほどまでとは打って変わって、少女が素直に答えたのだから。
「ど、どうしたというのだ、イナンナ。ヤツの話を本気にするな。取り()かれるぞ」
「……取り憑かれる……? でも……本当に魔力が手に入るなら……わたし……」

「イナンナ!?」
つい今し方まで、あふれんばかりの強い感情を込めて自分を見上げていた緑の眼が、焦点を失い、虚ろになってしまっている。
それに気づいた魔族の王子は愕然(がくぜん)とした。
「くそっ、しっかりしてくれ、イナンナ! 心を強く持て、俺を見ろ!」
「見ていますわ……タナトス様……いつもあなた様だけを……」

しかし、人族の少女の瞳はさらに生気を失い、まぶたは徐々に閉じられ、声もささやきに近くなってゆく。
「ダメだ、自分を手放すな! “黯黒の眸”は、キミの願いなど、叶えてはくれんぞ!」
必死に揺さぶるタナトスの叫びも虚しく、ついに、少女は完全に眼を閉じ、答えなくなってしまった。

宝石の化身は、青白い舌を出し、真っ赤な唇を、満足げになめ回し始めた。
「クククク、もはや遅いわ、サタナエル。その娘は、すでに我が(とりこ)
おぬしはまったく、女心というものが分かっておらぬな。
それゆえ、リリスを敵に回すことともなったのだ。
リリスの恨みの念は相当なもの……おぬしに対するものだけではないがな」
「くそっ、イナンナ、頼む、正気に戻れ、戻ってくれ! ジルに何と言い訳すればいいのだ──!」
タナトスが絶叫した、その時だった。
『やめよ、“黯黒の眸”』
突然、重々しい声が、要石の間に響いたのだ。

テネブレ(tenebrae) ラテン語 闇、暗黒。正確な発音は「テネブラエ」かも?