3.拉 致(2)
会議室での騒ぎをよそに、ダイアデムは、汎魔殿の正面玄関へと移動していた。
玄関と言っても、そこから正門まではさらに数キロほどあり、数百頭もの巨大で
そびえ立つ汎魔殿の大扉から、少し離れたところに犬舎がある。
かなり大きい造りだというのに、広大な城と比べると小さくさえ見えてしまうその建物に、宝石の化身は急ぎ足で入っていく。
内部では、様々な毛色をしたたくさんの魔犬達が、寝そべったり餌を食べたり、各々のやり方で自由時間を過ごしていた。
「おい、ケルベロス共! えーと……責任者、どこにいる? ちっと顔貸せ!」
獣臭さに顔をしかめながら、ダイアデムは命じた。
「わたしがここを束ねる者ですが、何かご用でしょうか、閣下」
コウモリ状の翼を背中に生やした、ひときわ大きなケルベロスが、駆け足で前に進み出て来た。
「お、お前か。今日、リリスがここを出て行ったか?」
その名を耳にした魔犬達は一斉にざわつき、興味を示した。
「リリスだって……?」
「あの女、また何かやらかしたのか?」
「今度は何を……」
あきれたような調子の声と、舌なめずりするような声が混じり合う。
「リリス様……最高級のサッキュバス……。一夜でいいからお相手願いたい……」
「気が向けば、身分に関わりなく、お相手して下さるそうだぞ……」
周囲のざわめきに、ダイアデムは眼をカッと見開いた。
「──るせーぞ、てめーら、静かにしろ!
さあ、お前! さっさとオレの質問に答えろよ!」
鮮やかな青い毛並みのケルベロスは、慌てて真ん中の首を横に振った。
「い、いいえ、今日に限らず、リリス殿下はここ何か月も、汎魔殿からは一歩も出ていらっしゃいませんが」
「……ん? あれ、お前……」
宝石の化身は、まじまじとその魔犬の顔を見つめた。
「そっか、どーりで見覚えがあると思ったら……!
ちょうどいいトコで会ったぞ、マルショシアス。お前の鼻を借りたい」
マルショシアスと呼ばれた魔犬は、ぎくりとし、心の声で返答した。
“こやつらの中で、その名で呼ぶことはご勘弁願いたいのですが……『焔の眸』閣下”
“あ、そっか”
ダイアデムも、すぐに心話に切り替えた。
“お前こそ、儀式ん時以外は、ダイアデムって呼べよ。
……にしても、お前、その姿になってから、もう、かれこれ三百年にもなるんだろ。
いい加減、反省してるはずだよな?”
“は、はい。無論、深く、深く、反省致しております!”
魔犬は言葉通り、地面につくほど深々と三つ頭を垂れた。
紅毛の少年はうなずいた。
“そっか。元の姿に戻りてーよな? オレの手助けをしてくれりゃ、取り成してやってもいいぜ。
うまくいきゃ、侯爵にも戻れるかもな”
“そ、それは、まことでございますか? 本当に、取り成して頂けるので!?”
三つ鼻の息遣いが荒くなり、蛇に似た尾をくねらせながら、マルショシアスは、彼の周囲を跳ね回った。
“おいおい、暴れんな、落ちつけって。何で、ウソなんかつかなきゃなんねーんだ?
お前の働きで、捜し物が見つかったら取り成してやらあ、手伝う気があるか?”
“よ、喜んでお手伝い致します、閣下!
もはや、あのような愚かなことは、決して致しませぬゆえ!”
魔犬の姿に落ちぶれてしまっていた魔界侯爵は、千切れるほどに尾を振った。
“よし、決まりだな”
宝石の化身は、にやりとした。
“──して、捜し物とは、いかなる物でございますか?”
“ああ、捜すのは、タナトスが客として連れて来た人間の娘だ。
けど、見つけても、絶対、指一本触れるなよ。何かしたら、噛み殺してやるからな!
彼女は魔界王も気に入ってる、オレが許しても、タナトスかベルゼブルになぶり殺されるぞ。
分かったな、マルショシアス”
紅い瞳を激しく燃え上がらせ、ダイアデムは念を押した。
三つ首の番犬は、犬の姿で出来得る限り、うやうやしく礼をした。
“お気の召すままに、『王の杖』閣下”
“だーから、その閣下ってのはやめろ、気色悪りぃ。名前で呼べ、っつってんだろーが”
紅い髪の少年は
“しかし、わたしも立場上、高貴な方を呼び捨てには出来かねますが……”
“……めんどくせーなぁ。じゃあ、『様』くらいで我慢してやる……っと”
「それから、てめーら!」
今度は周囲にも聞こえるように、ダイアデムは声を張り上げた。
「リリスが外に出ようとしたら、取っ捕まえて、ベルゼブルに報らせろ!
人間の女を連れてるかもしんねーが、絶対、その女に手ぇ出すなよ!
出したら死刑だかんな!」
「げっ、リリスを捕まえるだと!」
「簡単に言ってくれるが……」
「それはまた、難儀な……」
ケルベロス達は、一様に難色を示した。
魔界での階級差は、持てる魔力の差でもある。
貴族であるリリスと、単なる番犬達とでは、当然、大きな力の隔たりがあった。
「……ふん、怖気ついたか。
そんじゃあ、てめーら、よっく聞けよ!
リリスを捕まえて、首尾よく女を助けたヤツにゃ、すっげー
「褒美!」
「やった!」
ケルベロス達は色めき立ち、次々尾を振りながら、大挙して外へ駆け出していく。
何百頭もの巨大な犬達が、一斉に移動する地響き、功を焦ってぶつかり合い、ののしり合うその
“……単純なやつらだな。まるで、すぐそこに、リリスがいるみてーな勢いだ。
ま、どうせ、やつらにゃ捕まえられっこねーだろーけど、きゃんきゃんわめいて、報告するくらいの役には立つ。
さ、まずはタナトスの部屋を調べるぞ、マルショシアス”
“御意”
“──ムーヴ!”
次の瞬間、一人と一匹が出現した部屋は整然としており、見ただけでは、異常な事態が起こったとは思えなかった。
「着いたぞ、さっそく、調べてくれ。イナンナが……人間の女がどうなったか」
「承知致しました」
マルショシアスは、鼻をくんくん言わせ、部屋の中の空気を
「……ふ~む、結界が張られて、戦いが行なわれたようですな」
「んな程度のこた、オレにだって簡単に分かる。けど、この力の臭いは、リリスじゃねーだろ」
紅毛の少年がそう言うと、三つの鼻に思いきりしわを刻み、番犬はうなり声を上げた。
「グルルルウ……! あのリリスと、つるんでいる者がいると仰るので?」
ダイアデムは肩をすくめた。
「お前も、好みじゃないみてーだけどよ、がっついた犬どもみたく、ああいうのがイイって物好きも、結構いるしなー。
それよか、リリスの相手は誰だか分かるか?」
すると、中央の頭だけが動きを止め、少年を振り返った。
「……カラスの臭いが致しますが……」
「カラスだ? じゃあ……」
「いえ、まだ、断定は出来かねます。
魔族には、カラスの姿をした者や、使い魔としてカラスを使う者も多いですから」
「ちっ、そうだったな。
ま、ありがたいことに、ヤツらは汎魔殿から出てないから、当然、イナンナも、まだ城の中だろうけどな……」
「ふむ、ここで娘をかつぎ上げ、魔法で移動していますな」
「どこへ行ったんだ?」
「……まことに残念ながら、汎魔殿に張られた結界のため、これ以上の追跡は出来かねます」
そう答えながら魔犬は、三つの首を、それぞれぶつからないよう横に振るという芸当を見事にやってのけたが、それに眼を留める余裕は、ダイアデムにはなかった。
彼は床を足で蹴った。
「くそぉ、お前の鼻でも、手がかりなしかよ!」
「……ですが、お待ち下さい、ダイアデム様」
「何だよ、何か分かったのか?」
「これは、勘なのですが……ヤツらは、地下に降りて行ったのではないでしょうか?
汎魔殿には、空室はいくらもありますが、いつ使われることになるか知れません。
それを考えますと……」
「地下だとぉ!? 地下迷宮に潜り込まれたら、とてもじゃねーけど、捜し出せねーぞ!
くそっ!」
ダイアデムは、左の拳を、思いっきり反対の手の平にたたきつけたが、すぐに気を取り直した。
「オレがやけになってどうすんだ、絶対絶対、彼女を助けなきゃいけねーってのによ!」
暗い迷宮をあてどなく
その唇が最後に形づくるのは……自分の名前でないことだけはよく分かっていたが、何としてでもイナンナを助け出すことを、彼は固く心に誓った。
一方、タナトスは、叔母の部屋の前に着いていた。
「……あ」
ノックをしようとした刹那、ドアが開き、魔界王ベルゼブルの異母妹、イシュタルがそこに立っていた。
白銀の髪に縁取られた、弟によく似た面差し、美しい
「タナトス。お入りなさい」
「叔母上、実は……」
「分かっているわ。イナンナという娘さんのことでしょう?」
彼を部屋に招き入れながら、叔母は言った。
「また予知夢か!」
慣れていることとは言え、タナトスは驚かずにはいられなかった。
「ええ。ついさっき、急に眠気が差して、リリスと…その娘さんが
彼女がさらわれていくところもね……」
「な、何だと!? どこにいるんだ、イナンナは!?」
第一王子は眼を
「相変わらずね。それが、人にものを頼むときの態度?」
「急いでいるのだ、礼儀作法にかかずらっている暇はない! 教えてくれ、叔母上!」
「それもそうね。残念ながら、行き先は視えなかったわ。その代わり、これをご覧なさい」
イシュタルが差し出したのは、二枚のカードだった。
タナトスはそれを受け取り、眺めた。
叔母愛用の占いカード。
上部に、金箔で“TENEBRAE”と“PUPULA”の文字、中央に大きく人の
「『影』と『人形』か。どういう意味だ?」
「お前も知っているでしょうけれど、カードの意味するところは抽象的よ。
他のカードや位置などから推測すると、これはおそらく、陰で糸を引き、操っている者がいる……そういう暗示のようね」
「陰で糸を引く……!? 何だそれは!
誰かが、リリスを操っているとでも言うのか、叔母上!」
問われたイシュタルの視線が、宙にさ迷う。
「何かあるわ……このところずっと、空気の流れが妙なのよ。
ダイアデムは目覚めているのでしょう? 何も言っていないの?
彼なら、予知夢を視ることもできるでしょうに……」
「今は、女に夢中なせいか、何も視てはいないようだが……。
そう言えば、なぜ、あいつは予知出来なかったのだ?」
「彼の力を妨害している者がいる、と言うことね」
静かに言ってのけた叔母に、タナトスは、再び驚きの視線を向けた。
「何い!? ダイアデムほどの力の持ち主を、妨害するだと!?
そんなことが出来るのは、魔界王家の者ぐらいだぞ。
……まさか……?」
「ええ、可能性はあるわ」
イシュタルは真剣な表情でうなずいた。
「……ああ、ここに、サマエルがいたら、もっと良く分かるのに……」
「チッ、サマエルか……」
「それより、ダイアデムに聞いてごらんなさい、夢を見なかったか。
あ、それから、リリスと一緒にいたのは、ネビロス
この頃、よくリリスといるようだけれど、仲がいいようには見えないし、何か、弱みでも握られているのではないかしらね……」
「ふん。まずは、ヤツに聞いてみるか」
“おい、ダイアデム。何か分かったか?”
彼はさっそく、宝石の化身に思念を送った。
“タナトスか。ダメだ。結界のせいで、部屋ん中のことしか分かんねーよ。
カラスの臭いがするって、マルショシアスは言ってんだけど……”
“マルショシアスだと!”
第一王子の心には不安がよぎった。
この侯爵が番犬の身に落とされた理由を、よく覚えていたからだ。
それは、マルショシアスが、領地の女達を狩りの対象にしていたことが発覚したことによる。
領民の扱いは領主に託されているとは言え、魔界では、赤ん坊の出生率と、無事成長する率とは共に低かったため、女性は貴重な財産とみなされて、大事にされるのが常だった。
それを、おのれの楽しみのためだけに狩るなどとは、正気の沙汰とも思われない。
罰として、マルショシアスは、侯爵位を
“心配すんな、こいつに手は出させねーから。
イナンナは、オレが、今度こそ、命に変えても守ってみせる!”
宝石の化身は、きっぱりと言い切った。
“……なら、いいがな。
それはそうと、カラスの臭いは、ネビロスのだ。今さっき、叔母上が夢で視たそうだ。
だが、貴様は、このことを視なかったのか? 寄る年波には勝てず、予知力を失ったか、『予言の石』”
“何だとっ、オレを見くびるな!”
叫んだ刹那、ダイアデムの体から、再び紅い輝きが発せられた。
“……そう吼えるな、ダイアデム。予知出来なかったのは事実だろうが。
イシュタル叔母は、お前の力を妨害している者がいると言っている。
心当たりはあるか? かっとせず、落ち着いて考えてみろ”
タナトスは、いつもと違って冷静に言った。
紅毛の少年は輝きを消し、大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。
“は~ぁ。かっとなるな……落ち着け、だってぇ?
ちっ。お前にだけは、死んでも言われたくなかったセリフだぜ、そりゃ。
……ん~、けど……たしかに……”
考え込んでいた彼は、やがて、周囲を三つの頭で嗅ぎ回り続ける魔犬に声をかけた。
「おい、マルショシアス、カラスってのはネビロスのことだってよ、イシュタルが予知夢を視たんだ。
そっちは、お前に任すから、臭いをたどってくれ。
オレは、ちっとタナトスと話がある、見つけたら連絡をよこせ。
──ムーヴ!」
宝石の化身が移動して来ると、イシュタルは単刀直入に訊いた。
「あなた、予知夢を視ていなんですって?」
「ああ、全然。もちろん、魔界王家に直接関係ねーことにゃ、予知夢が下りねーことの方が多いんだけどよ、でも、今回は……。
大体、すぐ隣の部屋で起きたことに、オレが気づかなかったってのが、そもそもおかしい。
ふん。陰謀の臭い、ってヤツがぷんぷんするな。そいつを嗅ぎ取るにゃ、予知夢なんか必要ねーぜ……!」
ダイアデムは、犬のように鼻にしわを寄せた。
「あなたにも分かる? この空気の奇妙さが。
何か起こるという予感が、ずっとしていたの。
でも、ずいぶん変わった形で始まったのね……」
「そうだ、イシュタル、手ぇ貸してくれよ。
お前と力を合わせれば、オレにも、何か視えるかもしんねーし」
「そうね」
差し出された少年の手に、魔界王の異母妹は白い手を重ねた。
「これでいいかしら」
「ああ。──う……っ!」
同意した途端、少年はうめき声を上げた。
「どうしたんだ?」
「静かに。予知が降りて来たのよ」
「そうか、やったな」
タナトスは満足げにうなずいた。