~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

3.拉 致(1)

「タナトス、大変だ! 悠長(ゆうちょう)なことやってる場合じゃねーぞ!
イナンナが、さらわれたんだ!!」
普段は、汎魔殿内で禁止されている移動魔法で、いきなりダイアデムが会議室に出現したのは、長引く会議に苛立ち、コツコツと、タナトスが指でテーブルをたたいていた時だった。

「何だと!? 一体どういうことだ? イナンナは、貴様と一緒にいたのだろう!」
とっさに、タナトスは立ち上がり、叫んでいた。
「すまねー、油断した。リリスだ、あいつにやられたんだよ!」
「ちぃっ、またあいつか!」
魔族の王子は舌打ちし、射るような視線を伯父に向けた。

「ベルフェゴール、いい加減に、あの無節操(むせっそう)女を何とかしろ! 
俺にまとわりついているだけならまだしも、客にまで見境なく手を出すとは示しがつかん、どういう育て方をしたのだ、貴様! 
──ああ、育て方うんぬんより、貴様の歪んだ性根(しょうね)が遺伝したのだな、リリスも、とんだ不幸な星の下に生まれたものだ!」

「………!」
次期の魔界王とは言え、甥に呼び捨てにされた上、痛烈に当てこすられたベルフェゴールは、さすがに表情をこわばらせた。
「もうよい、タナトス。仮にも伯父じゃ、尊称をつけよ、それこそ示しがつかぬわ」
父親にたしなめられても、魔界の王子は意に介さず、伯父に注ぐ、仮借(かしゃく)ない視線を外さなかった。

「ふん。今までにこいつが、尊称で呼ばれるに値するような働きをしたことがあるか?
魔界王家の面汚しめ、親としての責任も果たせんと言うなら、俺がこの手で、あの女の首を絞めてやろうか」

すると、渋々、ベルフェゴールは口を開いた。
「……相わかった、リリスは勘当(かんどう)し、汎魔殿より放逐(ほうちく)致そう、それで勘弁してくれい。
不本意ながら、あれは母親に甘やかされ、手に負えぬ娘と成り果てたのだ、それゆえ、我の責任ではないが、だからと申して、このままではいられぬことは、我とて骨身に染みたわ。
こたびの件では、我には(とが)はないゆえ、罰は免れような?
のう、タナトス、いかに子が罪を犯そうとも、親の責任は無限では……」

「ああ、うるさい、貴様の女々しい言い訳など、聞きたくもないわ!」
汎魔殿での評判も悪く、彼自身も気に食わない伯父の、どこまでもくどくどと続きそうな弁明を途中でさえぎり、タナトスは背を向けた。
「それより、心配なのは、イナンナだ。ダイアデム、貴様の眼で捜せないのか?」

「バーカ、出来たら、とっくにやってんだろーが! 
大体、汎魔殿は巨大な結界にすっぽり包まれてんだ、()えるわけねーぜ!
なあ、ベルゼブル。ちょっとでいい、結界解いてくんないか、頼むよ、一生のお願いだ!」
宝石の化身は、魔界王に頭を下げた。
ベルゼブルは、当然ながら、首を縦には振らなかった。

「それは出来ぬ。常時、天界の者どもが見張っておるのじゃぞ、結界を解いたら最後、いかなる事態に陥るか、分からぬそなたではあるまい」
「けど、だって、それじゃ、イナンナが!
お前だって、彼女のこと気に入ってたんだろ、助けてくれよ、この通りだ!」
ダイアデムは、必死の面持ちで手を合わせ、さらに深く頭を下げて、主人である魔界の君主に頼み込んだ。

「これ、左様なことはせずともよい、頭を上げよ」
「えっ、じゃあ!」
勢い込む少年の気勢を削ぐために、ベルゼブルは、急いで否定の身ぶりをした。
「思い違いをするでないぞ、“焔の眸”よ。
無論、余とて、彼女のことは気にかからぬではない。
なれど、諸般の事情により、結界を解くことだけはまかりならぬのじゃ、分かってくれい」
王の眼差しは優しかったものの、口調はあくまでも冷静だった。

「くすん、そんなぁ……」
宝石の化身は、鼻をすすると矛先(ほこさき)を変えた。
第一王子にすり寄っていき、うるんだ瞳で哀願したのだ。
「なあ、タナトス、お前からも頼んでくれよぉ。
……なぁ、なぁ、お願いだよぉ、お前が頭下げりゃ、ベルゼブルだって……」

涙で濡れた“焔の眸”は、(みだ)らなまでに美しさを増して(きらめ)き、大臣達の中には、思わず身を乗り出し、生唾を飲み込む者も出る始末だった。
この化身が発する無意識の媚態(びたい)耽溺(たんでき)する者が続出した結果、内乱が頻発(ひんぱつ)し、危うく魔族が滅亡しかかったことがあるとまで言われる。
そのため、冷酷な魔族の王子でさえ、幻惑されまいと、眼を()らす必要があった。

「くそ、男が、それしきのことで泣くな。
この頑固爺(がんこじじい)が、一旦言い出したら聞かんことくらい、貴様も知っているだろう」
「な、泣いてなんかねーよ。それに、オレは男じゃねーぜ。
……女でもねーけど」
眼をこする少年をチラリと見、タナトスは腕を組んだ。

(ふ~む、にしても、参ったな。
結界を解くのは、たしかにリスクが大き過ぎるが、かと言って、この広大な汎魔殿だ、並みのやり方ではそれこそ(らち)が開かん。
探さねばならん場所など、およそ無限にあると言ってもいいくらいだからな。
そうだ、こういうときこそ、サマエルだ。ヤツを呼びつけ、魔眼で調べさせれば。
……いや、今はダメか。
人界との位相はかなりずれているし、明後日あたりまでは、魔法陣も作動すまい……。
ち、それに、親父が許可せねば、ヤツは還って来られんのだった。
以前のパーティの時も、たった二日、俺の城にいただけだと言うのに、後で相当ゴネおったし……)

「ええい、くそ、どうすればいいのだ」
タナトスは地団太(じだんだ)を踏み、ダイアデムは頭をかきむしった。
「あああ、こーしてる間にも、イナンナは……!」
「ならば、イシュタルの許へ参れ、ダイアデム。
サマエルが生まれるまでは、あれが宮殿一の占い師だったのじゃ、よき知恵をもって、そなたを導いてくれるであろうて」
途方に暮れる二人を見かねて、ベルゼブルが言った。

「えー。あのオバサンに頼むのかよ、オレ、苦手なんだよなぁ」
宝石の化身は、子供めいた仕草で口をとがらせた。
「何を申しておる、そなたの方が、遥かに年を取っておるじゃろうに」
「んじゃあ、タナトスに行かせっか。オレは、別のやり方で捜そっと」
「これ、ダイアデム、タナトスは……」

「けどよぉ、ホント、頭くんぜ!」
宝石の化身は、突如、ベルフェゴールに指を突きつけた。
「リリスなんざ、最初に問題起こしたときに、ケルベロスどもの群れに放り込んで、エサにしてやりゃよかったんだよっ!」

王の同母兄は、純白の眉をしかめた。
彼もまた魔界王と同じ白い髪をし、鼻の下に立派なひげをたくわえていたものの、威厳や風格は、弟ベルゼブルに比べれば、遥かに見劣りがした。

「何を申すか。いかに、その方が王権を守護する“王の杖”だとて、左様な言い草は酷に過ぎるぞ。
大体、タナトスが、娘の気持ちを多少なりとも汲んでやり、優しい言葉の一つもかけておれば、リリスだとて……」
「誰が、あんなのを相手にするか!」
すかさずタナトスが()え、ダイアデムはさらに勢いづいた。
「そうだそうだ! ぜ~んぶ、お前が悪いんだろーが、ベルフェゴール!
奥方に、責任なすりつけんじゃねーよ!」

(ふん……たかが、石に取り憑いた魔物ごときの分際で、王の兄たる我に暴言を吐くとは、生意気な)
ベルフェゴールは、聞こえないよう口の中でつぶやいた……つもりだった。
しかし、鋭い聴覚の持ち主であるダイアデムの耳は、しっかりとそれを捉えてしまっていた。
瞳の奥深くの炎が、無礼者を焼き尽くさずにはおかない、といった風に激しく燃え盛り、彼は、王兄につかつかと歩み寄っていった。

「もし、リリスがイナンナに何かしてたら、あいつの生き血を全部吸い取ってやるからな!
あの女だって、魔界王家の血を引くんだ、オレの食いもんになるのは本望だろーさ!」
ベルフェゴールは眼を()いた。
「ち……血を吸い尽くすだと! いかにリリスがじゃじゃ馬とは申せ、左様な無体な事を!」
「……オレは本気だ。墓の準備でもしとくんだな、容赦はしねーぜ……」

ダイアデムは、冷ややかに言い捨て、紅い瞳は、先ほどの(なまめ)かしい煌きとは明らかに違う危険な輝きを発して、抜目はないが小心な男の心臓を射貫いた。
魔界の至宝の剣幕に恐れをなした王兄の体は、激しく震え出し、助けを求めて落ち着きなく動き回っていた眼が魔界王を捉えると、すがりつくようににじり寄っていった。

「な、何とか申してくれい、ベルゼブル! 
“焔の眸”は、年端も行かぬ娘に……かくも惨い仕打ちをと……!」
「………」
ベルゼブルは無言のまま、情けなくも弟である自分に救いを求めてきた兄に、どうともとれる視線を返した。
それから、大儀(たいぎ)そうに、魔界の王権の化身に声をかける。

「“焔の眸”よ。少々頭を冷やすがよい。直接の吸血など、行なった試しはないであろう、そなたは。
気随(きずい)なまねは許さぬ、リリスを見つけ次第、生かして余の許へ連れて参るのじゃ。
よいな、分かったか」

「やーなこった、お前だって、ホントはこのバカを、散々っぱらぶちのめしてやりたいくせに! 
オレが、代わりにボコにしてやらあ!
覚悟しろ、ベルフェゴール!」
少年は反抗的に言い返し、全身が紅い輝きに包まれ始めた。
「これ、“焔の眸”……」

「もういい、その辺でやめておけ、ダイアデム。
詰まらんことに力を使うな。イナンナを捜すのが先決だ。放っておけ、そんなクズ」
第一王子に諭されると、体を覆っていた光が即座に消えて、宝石の化身は頭を振った。

「……ふう。そーだったな、ありがとよ、”闇の貴公子”。礼を言っとくぜ。急がなくちゃ。
けっ、命拾いしたな、“穴の主”さんよぉ? 
今度から、陰口たたくときは、聞こえないところで吼えろよな、負け犬!
おっ、お陰で、いいコト思いついたぜ。
──ムーヴ!」
言うなり、紅毛の少年は姿を消した。

「よし、俺も……」
「待て、タナトス」
後を追おうとした息子を、魔界王は引き止めた。
「女のことは、ダイアデムに任せておくがよい。まだ会議が続いておるのじゃぞ」
刹那、拳を振り上げ、タナトスは力任せにテーブルをたたいた。
「黙れ、くそ親父! 
これ以上、俺の邪魔をする気なら、今すぐ貴様の息の根を止め、この場で俺が魔界王の位を奪うぞ!」

身分制度の厳格な魔界で、王でもある父親を家臣の面前で罵倒(ばとう)する、王子の傍若無人な振る舞い、……それ自体には慣れていたものの、今日の過激な発言には、一同仰天し、会議場内は静まり返った。

「リリスは、俺への当てつけに、こんなことを仕出かしたのだぞ! 
イナンナは、俺の客で、汎魔殿へ誘ったのも俺だ!
それが、こんなことになって、何と言って詫びればよいのだ!?
ジルにも顔向けが出来ん! ダイアデムだけに任せてなどおけるか!」
「タナトス、いい加減にせよ!」
「うるさい! 何と言おうと、俺は行くぞ! やくたいもない問答をしている暇などないわ!
──ムーヴ!」

父王の叱責(しっせき)ももののかわ、第一王子は言い放つと姿をくらまし、息を詰めて成り行きを見守っていた大臣達の間には、ざわめきが走った。

(やれやれ、またリリスか……)
(されど、たかが人間の小娘が一匹、さらわれたくらいで、何をあんなにご立腹されておられたのだ、タナトス殿下や、“焔の眸”閣下は……)
(まあ、殿下が会議を抜け出すのはいつものこと、娘のことは単なる口実であろうよ)
(それとも、たまには毛色の変わった食料をと、お考えだったのやも知れぬ)
(なるほど、そうかも知れんな。
人族の女の精気は、魔族の女どもよりは弱いものの、上玉に当たれば、なかなか美味とか……)
(ほう……)

様々な憶測が飛び交う中、ベルフェゴールは、苦虫をかみ潰したような表情をし、ベルゼブルは、処置なし……と言った風情だった。