~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

2.タナトスの婚約者(3)

「何だ?」
タナトスが不機嫌な声で問うと、控えの間のドアが開いて、先ほどの小姓が、おずおずと顔を出した。
「……ご歓談中のところ、誠に申し訳ございません。
陛下、会議のお時間でございますが……」

「おう、左様か。大臣どもとの会議に出ねばならんのじゃったな。
イナンナ、そなたと話ができて楽しかったぞ、また訪ねて参るがよい」
「はい。お忙しいところを、貴重なお時間をさいていただき、ありがとうございました、魔界王陛下」
イナンナは立ち上がり、ドレスの裾を少し持ち上げて、淑女(しゅくじょ)の礼をした。

「うむ」
魔界王は重々しくうなずき、それからふと思いついたように、息子に声をかけた。
「おう、そうじゃ。タナトス、そなたもたまには出てみよ。大臣どもも喜ぶであろうぞ」
だが、タナトスは、思い切り顔をしかめた。
「会議だとぉ? あんな詰まらんものに、出ろと言うのか!」
「詰まらぬものじゃと……」
「それだけではない! 俺が顔を出すと、会議の進行に支障を来たすだのなんだのと、散々、大臣どもがほざいていることくらい、俺だとて知っておるわ!」
「落ち着くがよい、左様なことを申す者など……」

「ふん! 生憎と、地獄耳なのでな! 
誰もおらんと思うと、ヤツらがどんなことをしゃべり散らしているか、一度親父も聞いてみるがいい! 
サマエルが魔界王になればいいと、あやつらは思っておるのだ、他の者もだ、口に出さんだけで!」
タナトスは力任せにテーブルをたたき、イナンナは思わず飛び上がった。「きゃ!」

「何を申しておるのじゃ、タナトス、……」
「タナトス様、そんなことを仰らずに、お出になるべきですわ」
次の瞬間、思わずイナンナは口を挟んでいた。
「わたしには難しいことは分かりませんけれど、いずれ魔界の王となるお方なのですもの、やはり、少しは皆様のお話を聞いておかれた方が……」

すかさず、魔界王が彼女の後に続く。
「イナンナも、こう申しておるではないか。
実際問題として、そなたが魔界王になった暁には、かような会議やら謁見やらは、必要不可欠のものとなるのじゃぞ」

「ふん!」
魔族の王子は腕を組み、勢いよくそっぽを向いた。
ひどく子供っぽい息子の仕草に、ベルゼブルは眉をひそめた。
「これ、タナトス。童子のような振る舞いはするでないぞ」
「も、申し訳ありません、タナトス様、余計なことを申しまして……」
イナンナは慌てて頭を下げる。

「よいよい、イナンナ。そなたは正しいことを申した。
なれど、タナトス、そなたの心持ちもよく分かる。
余とて、王太子に決定した直後は、色々と取り沙汰(ざた)され、陰口もたたかれたゆえな。
家臣どものたわごとなど、一々気にかけぬことじゃ。
誰が、何と騒ぎ立てようと、次期の魔界王はそなたしかおらぬ、毅然(きぜん)としておれ」
魔界の王は、きっぱりと言ってのけた。

父王の威厳ある態度に、それ以上拒絶できなくなり、タナトスはため息混じりに額に手を当てた。
「……ちいっ、出ればいいのだろう、出れば!」
「そーそー、いい子だねぇ、タナトスちゃんわ。
お前がいない間、オレがちゃ~んとイナンナの面倒見てやっからよ」
待ってましたとばかりに、にやにや笑いを浮かべたダイアデムが、話に割り込む。
「うるさい、俺を子供扱いするな、この若年寄りめ!」
叫ぶ第一王子に向かって、宝石の化身は、これ見よがしに耳に手を当てて見せる。
「あ~、何だって~?」

「貴様~!」
タナトスは、またも拳を握り締める。
「はん、お前なんざ、オレから見りゃ、まだオムツも取れてない赤ンボさ。
オトナ扱いしてほしーんなら、早く、そのカラッポ頭に王冠乗っけんだな!
じゃーな、頑張れよ、タナトスベイビイ!」
ダイアデムは、手をひらひらさせた。
「くそっ、いらん世話だ、とっとと行け!」

「へいへい~。さ、行こーぜ、イナンナ」
「そ、そうね。
それでは、陛下、タナトス様、失礼致します……」
(あーあ……ようやく、タナトス様と二人きりになれるはずだったのに……)
再び礼をしたイナンナは、元気よく前を歩く少年の背中を恨めしげに見ながら、肩を落として書斎を後にする。

「ん……?」
頭の後ろで手を組んだダイアデムは、足取りの重い彼女を振り返った。
「そーんなに、がっかりしないでくれよう、イナンナ。
ヤツがいなくなった途端、ロコツにつまんなそーな顔すんだもん、ホントたまんねーよなぁ!
オレじゃ、そんなに力不足?」

「……前を見ないで歩くと、転ぶわよ」
「へーき、へーき!」
言った途端に足がもつれて、紅毛の少年は尻もちをついた。
「わっ! ……くっそぉ、痛ーててて」
「そら、ご覧なさい」

くすくす笑う美少女に釣られて、ダイアデムも笑顔になる。
「うん、やっぱり、あんたは、笑ってた方がステキだよ。
心配しなくても、タナトスは、すぐに戻って来るからさ。
あいつ、短気だからー、会議が長引くようなら、途中でおん出て来るに決まってんだからさぁ!」
「そう……」
イナンナは、ふっと遠い眼になる。

常に彼女の心を占めているもの。それは自分ではない。
いくら待っても、彼女は決して、自分の方を向いてはくれないだろう……。
そう思うと、やるせない感情がこみ上げて来て、少年の鼻は思わずつんとなってしまうのだった。

(……どうしたんだろ、オレ。
彼女見てると、なんか、いっつもこんな気分になっちまう。
ちっ、ヤバイぜ、マジで。女に近づいちゃいけねーのによ。
……でも、ちょっとだけなら、いいよ、な?
今だけ……タナトスが来るまでの、ホンのちょいの間だけなんだから……)
宝石の化身は、自分にそう言い訳し、哀しい気分を振り払って、口を開いた。

「……あ、な、何だったらさ、オレが、それまで汎魔殿の中を案内してやってもいいぜ。
ここって、すっごく広いし、きれーなトコとかもたっくさんあるんだ」
しかし、彼の想いを知らない少女は、無造作に首を横に振った。
「いいえ、タナトス様が後で案内して下さると言ってらしたから、お部屋で待つわ。
さっきのお話の続きを聞かせてくれる?」

ダイアデムは、ちょっと失望したものの、すぐに気を取り直した。
「そっか。ま、オレはあんたといられれば、どこにいたっていいし。
……さっきの話? えっと……ああ、タナトスのガキんちょの頃の話か。
うん、続きね」

そうやって、二人が、タナトスの部屋の前まで来たときだった。
突然、物陰から人が飛び出して来て、イナンナは反射的に身構えた。
「誰?」

「ずーいぶん楽しそうじゃないの、ダイアデム。人間の女なんか相手にいちゃついちゃってさ!
しかも、タナトス様の思い人なんでしょう? その女。言いつけちゃうわよ、タナトス様に!」
それは、先ほど書斎に乱入してきた、リリスという少女だった。
しかし、タナトスの前で見せていた、しおらしい仕草は影も形もない。

ダイアデムは、彼女を睨みつけた。
「出たな、リリス。
この人はイナンナだ、タナトスの女なんかじゃない! あいつが追っかけてるのは、ジルってヤツだ」
彼の鋭い視線にもめげず、魔族の少女は軽く肩をすくめた。
「あら、そうなの。なーんだ、ヤキモチ焼いて損しちゃった。
……でも、何で、さっき陛下のトコにいたのよ? 
あたしだって、なかなかお目にかかれないのに!」

「わたしが、ジルの従姉だと言うので、陛下は興味を持たれたみたいですわ」
イナンナが答えると、少女は眼を輝かせた。
「あんた、そいつと親戚なのね? 教えてよ、どんなコなの、ジルって。
あ、こんなトコで立ち話も何だから、タナトス様のお部屋でも借りましょ。
ダイアデム、鍵開けてよ、ほら、早く」
「ダメだ! あっち行け、この疫病神(やくびょうがみ)! お前の顔なんか見たくもねーや!」

激しく拒絶されて、リリスの頬から血の気が引いた。
「……何よ、ごあいさつねぇ。ただ、ちょっと、この人と話してみたいだけなのに」
「るせぇ、お前を入れたりしたら、タナトスにぶっ殺されちまう、今すぐ消え失せろ!」
「そんな言い方しなくったって、タナトス様が帰って来る前に、ちゃんと消えてあげるわよ。
そしたら、あんたも怒られなくて済むでしょ」

その(あい)色の瞳が、うるんでいるようにイナンナには思え、口添えをせずにはいられなくなった。
「……ねぇ、入れてあげたら? ダイアデム。可哀想じゃない」
「な、何言い出すんだよっ、イナンナ!
こんなヤツに同情するなんてっ!」
紅毛の少年は、勢いよくリリスに指を突きつけた。

「それに、聞いてみたいのよ、タナトス様のお小さい頃の話も」
「ダメだってば! ンなコト、オレが話してやるって言ったろ!」
「そう言わずに、お願い。タナトス様が怒ったら、わたしが謝るから」
イナンナは、拝むような仕草をした。

「……けどよぉ、イナンナ……」
「あなたが知らないことを、この人が知ってるかも知れないし。
たくさん聞きたいのよ、タナトス様のこと。
だから……ね? お願いよ、ダイアデム」
エメラルドそっくりに輝く瞳、銀糸のような髪、唇は紅く透き通る柘榴石(ガーネット)……自分好みに美しく飾り立てた、宝石製の人形でもあるかのような美少女、それがイナンナである。

そんな最愛の女性に、重ねて懇願(こんがん)された宝石の化身は、嫌とは言えなくなってしまい、渋々同意した。
「あ~あ、しょうがねーなぁ……! 分かったよ、もう。
けど、後で後悔しても知らねーぜ。
こいつに関わると、ロクなことがねーんだから……!」

「ひどい言い草ねぇ、あたし、あんたに何もしてないじゃない?」
白い髪の少女は口を尖らせた。
「るせぇ! てめーは黙ってろ!」
ダイアデムは、少女達にくるりと背を向け、ドアの前で手をかざした。
(てのひら)が白く輝き、音もなく扉が開く。

「きゃ~っ、なっつかしいわぁ……!」
ずかずかと部屋に入るなり、リリスは叫び、胸に手を当てた。
「昔……子供の頃は、この部屋で、よく一緒に遊んだものだったのに、この頃冷たいのよ、タナトス様ったら。
わたくしの、どこが、お気に召さないのかしら……」
その台詞の最後は、イナンナが、いつも心の中で思っていることと同じだった。
……とは言え、彼女には、“魔力がない”という、れっきとした理由があったのだが。

ダイアデムは顔をしかめる。
「へっ、男なら誰でもいーんだろーが?
それも、最初からタナトスを選んでりゃ、まーだ見込みがあったかも知んねーけど、サマエルから乗り換えたんじゃあ、ヤツがうんと言うもんか。さっさと諦めろ!」

「ふーんだ! 
あたしは、あの一本角がセクシーだと思ってたのに、サマエル様ったら、よりによって、天界の女なんかと出来ちゃったんだから、しょうがないじゃない!」
「……はあ? 角がセクシーだ? バッカじゃねーのか、てめー」
紅毛の少年は、軽蔑しきった表情をした。

「何ですってぇ!?」
魔族の少女は眼を釣り上げた。
藍色の瞳は、ぎらぎらと狂気じみた光を帯び、白い髪までが、生き物のようにざわざわと波打つ。
その様子は、どことなく、サマエルの怒りを連想させ、ダイアデムをほんの少し、ひるませた。

それに気づいているのかどうか、彼女は、宝石の少年に激しく指を突きつけた。
「血も通ってないあんたに、あたしの気持ちなんか、一生分かりっこないわよ、バカ!
何が、魔界の至宝よ、予言の石よ! 
あんたこそ、あんたの方こそ、何にも分かってない、ただの大バカの石っころよっ!」

“焔の眸”の化身は、険しい顔つきになった。
「くそったれー! 大バカの石っころで悪かったな、変態女!
あーもう、だから、こいつの相手なんざ嫌なんだ、眼も口も耳も全部、腐っちまう!
もぉいい、イナンナ、話なら、あんたが聞けばいい!
オレ、隣で待ってる。何かあったら、呼んでくれよなっ!」

紅毛の少年は、足音も高く隣室に入っていき、音高くドアを閉めると、タナトスのベッドに座り込んだ。
口を極めてののしられ、怒り心頭に発しながらも、彼の心は、どこかほっとしていたことも事実だった……女性達から離れられたことで。

「──ったく、放っときましょ、あんなヤツ。
魔界の至宝だの何だのって、ちやほやされて、テングになってんのよ。
それより早く教えてよ、ジルとか言う女のこと!」
あっけにとられているイナンナに、息を弾ませながら、リリスは促す。
「え……ええ」

「教えてくれたら、あたしも、タナトス様の話、聞かせてあげるし。
そいつも、当然、タナトス様のことが好きなんでしょ?」
問われて、イナンナは、急いで否定の仕草をした。
「いいえ、ジルは、サマエル様が好きみたい。タナトス様には、全然興味がないわね」

リリスは藍色の眼を見開いた。
「まー、もったいない。追いかけ回されてるのに。
……だったら、サマエル様の方はどうなのよ?」
「サマエル様の方も、ジルがいないとダメなのよ。
一度引き離してみたけれど、二人とも元気をなくしちゃったりして、大変だったわ」

「へえ、そんなに美味しいの、その女」
「え?」
「だって、そいつの精気が美味しいから、タナトス様は、魔界に連れて来ようとなさってるんでしょう、エサにするために」
夢魔の少女は、無邪気に言い放つ。

人間の少女は、緑の眼を見開いた。
「まあ、違うわ。サマエル様もタナトス様も、ジルの精気を吸ったことはないし、タナトス様はジルに、妃になって欲しいって言ってるのよ」
「ええっ!? 妃ですって!? 本気で、そいつを王妃にする気なのね!? 
くやしー!」
リリスは顔を真っ赤にし、足を踏み鳴らした。

「でも、多分、無理だと思うわ」
「どうして、そんなことが言えるのよ!?」
白い髪の少女は、イナンナに鋭い視線を注いだ。
「興奮しないでよ、リリス。
だって、ジルは、タナトス様のお誘いをずっと断り続けているし、それに、サマエル様は、もう少し従妹が成長したら、プロポーズするつもりみたいなの。
きっと、ジルは、喜んでお受けすると思うわ」

「ふうん……なら、いいけど」
リリスは肩の力を抜いた。
「それに、やっぱり、人間が魔界に住むのは大変じゃないかしら?」
人族の少女の言葉にうなずき、魔族の少女は、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「そうよね……タナトス様達のお母様も、長生きは出来なかったもの、無理なのよ……」