~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

2.タナトスの婚約者(2)

一通り挨拶が済んだ後、イナンナは魔界の王族達とのお茶会に(のぞ)んでいた。
「よい香りであろう、イナンナ。これは魔界でも極上の品でな。
汎魔殿の菜園にて専用の庭師に、特別に栽培させておるものなのじゃ」
魔界王に話し掛けられたイナンナは、取って置きの笑みを返した。

「はい、とても美味(おい)しいですわ。これほど香りのいいお茶、わたし、初めてです。
それに、このカップも、素晴らしいものですね」
「そうか、そうか」
ベルゼブルは頬を(ゆる)めた。
「お世辞なんかいらねーんだぜ、イナンナ。まずかったら、まずいって言えよ」
紅毛の少年が口をはさむ。
「お世辞なんかじゃないわよ、ダイアデム。このお茶は、本当に美味しいわ。
どう言えばいいのかしら……まるで、心が洗われるような香りね……」

「ふ~ん、ならいーけどさ。遠慮せずに菓子も食えよ」
「ええ、頂くわ。キレイね、このケーキ。食べるのがもったいないみたい……」
目の前にあるのは、王家のパティシエが腕を振るった、クリームと種々のフルーツとで、美しく飾り立てられたケーキだった。
それを金のフォークで取り分け、そっと口にしてみたイナンナは、至福の表情になった。
「まあ、これも、すごく美味しい!」

「ほう、それほど美味(びみ)なるものか?」
「はい、とても!」
人族の少女は、緑の瞳を輝かせ、それを眼にした魔界の君主は、相好(そうごう)を崩した。
「左様か。ならば本日の料理番には褒美(ほうび)を取らせねばなるまい、客人はいたく満足しておったとな」

「素晴らしい腕前ですわ、本当に……!」
菓子の魅惑に囚われて陶然としながら、イナンナは、せっせとフォークを口に運ぶ。
「へー、ンなもんがそ~んなにうめーの? 
うへぇ、すっげー甘ったるい臭いだ」
ダイアデムは無遠慮に、ベルゼブルの前に置いてあるケーキの匂いを嗅ぎ、鼻に思い切りしわを寄せた。

魔界の貴族である彼が、礼儀作法を一切無視しているお陰で、正式な茶会とはまったく違った気楽さが漂う。
ついさっきまで、タナトスと二人きりになりたいと切に願っていたことも忘れ、彼女は、魔界の王と親しく口を利くという、滅多にない機会を楽しみ始めていた。

魔界王にとっても、魔族以外の者とこんな風になごやかに歓談するなど、随分久しぶりのことだった。
しかも、目の前にいる人族の少女は、貴族の血を引くというだけあって、(みやび)やかで美しかった。
話すうちに、ベルゼブルは、少女を単なる食料とは考えられなくなっていくようだった。
息子が、この娘に手を出さない理由も、同様かも知れないとさえ思った。
そして、茶菓子をつまむタナトスの顔からも、父親のそばにいるとき、いつも見せる(けわ)しい表情が消えていた。
食事を摂らないはずのダイアデムでさえ、気分よさげにお茶をすすっていた。

「あら、ダイアデム。あなた、お茶は飲めるのね?」
「ああ、これは特別なんだ。オレの口に合うのさ」
ダイアデムは、金で縁取りされ、鮮やかな色彩が施されたティーカップを持ち上げて見せた。
それから、さも美味そうに琥珀(こはく)色の液体をすする。
「他にも極上のホットチョコレートとか、“悪魔の血”って最上級のワインとか……そうだ、ベルゼブル、あれ、また飲ませてくれよ」

「少量ならば……」
「駄目だ」
簡単に同意しかける父親をさえぎり、タナトスは、冷やかな眼差しを紅毛の少年に注ぐ。
「甘やかすなと言っているだろう、親父。
こいつに、あんな高級な酒を飲ませたところで、何の足しにもならん、無駄だ」

ダイアデムは、ぷんと頬を膨らませ、上目遣いに魔族の王子を見た。
「ふん、何だよ、ケチ! いいじゃんか! 
たまにゃ、オレだって、そーゆう気分に浸りたいときだってあんだし、それにお前にゃ言ってねーよ、ベルゼブルに言ったんだ!」
「何ぃ! 俺は次の魔界王、貴様の主人になる男だぞ、それを!」
「まあ待つがよい、二人共……」
再び口論が始まりそうになり、ベルゼブルが止めに入ったときのことだった。

「お待ち下さい、リリス様! ご来客中でございます!」
「いやっ、離して!
タナトス様ぁ!!」
隣の部屋から騒々しい物音が聞こえ、叫び声と共に、ドアが乱暴に開けられた。
止める小姓を振り切って、一人の少女が、書斎に飛び込んで来たのだ。

可愛らしい顔をふんわりと包む、おかっぱ型の白い髪、魔界の逢魔(おうま)が時を思わせる瑠璃(るり)色の瞳を持ち、唇は磨かれた珊瑚(さんご)色だった。
鮮やかな青色をしたドレスの胸元には、様々な色合いの宝石と光る糸とで、魔界王家の紋章である“四頭龍”が、(きら)びやかに縫い取られている。

小姓ともみあったせいで乱れた髪をなでつけながら、部屋を見回すその頬が不意にバラ色に染まったかと思うと、彼女はタナトスに駆け寄り、祈るように胸の前で手を組み合わせた。

「タナトス様! お帰りになられたのに、なぜ、お知らせ下さらないのですか!
リリスは、ずっとずっと、あなた様のお帰りをお待ち致しておりましたのに!」
「貴様か、リリス。話なら後にしろ。来客中だ」
タナトスの態度は、イナンナに対するときよりもかなり冷たく、口調もひどくぞんざいなものだった。

「も、申し訳もございません、お止め致したのでございますが……」
ようやく追いついた小太りの小姓が、息を(はず)ませながら頭を下げた。
「リリスが相手では、致し方あるまい。
もういい、下がれ」
タナトスは扉に向かって手を振り、小姓は再び礼をして、控えの間に引っ込んだ。

「……タナトス様、こちらの方は?」
尋ねた人族の少女を、魔族の少女はキッと睨みつけた。
「わたくしは、タナトス様の婚約者よ! あなたこそ誰!?」
「な、何ですって……!?」
イナンナは真っ青になった。
ゆるんだ手からカップがすべり落ち、床で粉々に割れる。

しかし、白い髪の少女を見据える王子の冷酷な眼差しは、微動だにしなかった。
「その話なら、以前正式に断ったろう。貴様は、俺の婚約者などではない。
誤解されるような言い方を改めないなら、今すぐ、汎魔殿から放り出すぞ」
「……! タナトス様の意地悪!」
愛する人のつれない返事に、少女は手で顔を覆い、しくしく泣き始めた。

「リリス、落ち着くがよい。
兄上から申し込みがあったとき、すぐに断わらなんだのは、本人の意向を確かめてからと思うたのじゃ。
じゃが、この通り、どうしても嫌じゃと申しておるでな、いい加減諦めてはくれまいか?」
慰めるように、ベルゼブルが声をかける。

「ああ、陛下まで……!
いいですわ、どうせ──どうせわたくしは……王妃には似つかわしくない女なのですものー!
わあああああーっ!」
泣きじゃくりながら、リリスは、書斎から走り出ていった。

「まったく、小うるさい女だ。
あの顔を二度と見ないで済むのなら、何でもするのだがな」
タナトスは、吐き捨てるように言い、冷めたお茶をかぶりと飲んだ。

今の一幕に動じた様子もなく、魔界王はパチリと指を鳴らし、使い魔を呼び出す。
「シム、片付けを」
「かしこまりました」
現れた紫色の小人は、一礼して割れたカップを魔力で元通りにし、次いで空中から取り出したポットからお茶を注ぎ、イナンナに渡す。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
「ごゆっくり、お過ごし下さいませ」
使い魔は、他の人々にもお茶をついで回り、また礼をしてから、静かに姿を消した。

「……申し訳ありません、陛下。無作法を致しまして……」
詫びる銀髪の少女に向かって、ベルゼブルは首を横に振って見せた。
「よいよい、こちらの方こそ相済まぬの。
無作法な娘が飛び込んで来たせいで、驚いたのであろう」

「い、いえ。でも、タナトス様……あんな言い方では、さっきの方、お可哀想では……」
人族の少女は、魔族の王子をおずおずと見上げた。
先ほどの女性が婚約者ではないと知って、一旦は胸をなで下ろしたイナンナも、彼女に自分を見るような気がして、とても他人事とは思えなかったのだ。

しかし、リリスに対し、いい感情を抱いていないのは、タナトスだけではなかった。
「ふん、あんな女に同情するこたないぜ、イナンナ」
宝石の化身までもが、憎々しげにそう言い捨てたのだ。
「えっ、どうして?」
驚いて、彼女は宝石の化身を見つめた。

ダイアデムは肩をすくめた。
「だってー、あいつ、前は、サマエルを追っかけ回してたんだぜ。
やれ、あなたしかいないの、結婚してくれなきゃ死ぬだのって大騒ぎでさー。
ところが、ヤツが人界に行っちまったら、さっさとタナトスに乗り換えて、顔を見るたび毎日あの調子ー。
タナトスじゃなくたって、やんなると思わねー?」
「まあ、そうだったの。それで……」
イナンナはようやく、納得がいった。

「つまりー、リリスの目的は、王妃の座。
誰が王様だろうと構わねーから、権力が欲しいんだろーさ。
そんだけじゃねー。超男好きで、この汎魔殿にいる男、全ー部に色目使ってんだ。
あんなのを嫁さんにした日にゃ、父親も分かんねーガキを、わんさか抱え込むハメになっちまうぜ、きっと。
な、タナトス?」

話を振られた魔族の王子は、大きくうなずいた。
「ああ。今回ばかりは、諸手(もろて)を上げて貴様の意見に賛成だな。
まったく! 親父がその場で断れば、ここまでつきまとわれずに済んだのだぞ! 
心底いい迷惑だ!」
彼は、自分の父親に腹立たしげな視線を送った。
「そうは言っても、リリスは余の兄の子、そなたにも従妹にあたる、あまり無碍(むげ)にする訳にもいくまい」
「ふん! あの女が、伯父の種かどうか、分かるものか!」
弁解するように言う父親から、タナトスは顔を背けた。

「……また、何を申すか、下らぬ噂を真に受けおって。
なれど、そなたの心持ちも分からぬではないがな……相手が、あのリリスでは……」
魔界王は、ため息混じりに首を振る。
リリスというのは、かなり問題のある少女のようだった。
それよりも、“兄”と言う言葉が気にかかり、イナンナは尋ねてみた。

「……ところで、兄君様がいらっしゃるのですか、陛下?」
「魔界ではの、イナンナ。優秀な者、より強い者が王になる。
それゆえ、常に第一王子が王位を継ぐわけではなく、他に何人男子がいようと、女子が王位に()くこともありうるのじゃ」
魔界王は、少女の疑問を察してそう答えた。

「ベルゼブルに負けたんだよ、リリスの父親は。魔力でも、オツムの方でも」
ダイアデムは、自分の頭をつついてみせる。
「それに、昔っから、性格もすっげー悪くて、家臣達にも超、嫌われてたしなー。
だから、タナトスだって、サマエルが身を引いたからいいようなもんで、そうでなきゃ、血で血を洗う争いが起こるトコだった、ってワケさ。
王位争いなんて、滅多に見らんないすっげー見せ物だったのに、惜しいことしたよなー」

お調子者だけれども美しい、宝石の化身の紅い瞳がその刹那、血に濡れたように輝きを増した。
……そんな風に見えたのは、自分の眼の迷いだろうか。
イナンナは思わず、魔界の王族達を見やった。
しかし、禍々しくも妖しいその輝きに気づいたのは彼女だけだったのか、それとも、やはり錯覚だったのか、タナトスは、無言のままカップを睨みつけており、ベルゼブルは淡々と話を続けていた。

「左様なことにならぬよう、そなたがおるのじゃろう、“焔の眸”よ。
そなたが指名した者には、何者も異議をはさめぬ」
「えっ、本当に、彼が王様を指名出来るのですか?」
反射的に彼女が訊き返すと、ダイアデムは唇を尖らせた。
「何だよ、信用ねーなあ。オレ、ウソついたことなんかねーってのによぉ」
「ご、ごめんなさい……」

「内乱など起きれば、天界につけ込まれてしまう。
事実、打ち続く内乱のため、我らの力がひどく衰え、危うく滅びかけたこともあったほどなのじゃ。
それゆえ、現在は、“焔の眸”に魔界王の選任を一任し、皆は無条件で従うと定められておるのじゃよ、イナンナ」
「そうだったのですか……」
自分が魔界のことを何も知らないと思うと、なぜか、イナンナは悲しくなった。

「でもさ、二人がマジでやったら、サマエルが勝つと思うぞ。
魔力の強さじゃ互角かもしんないけど、こいつは単純バカだからなー。
サマエルの作戦勝ちってトコだろうな、きっと。
ひゃはははは!」
「うるさい!」
笑った途端に鈍い音が響き、ずきずきする頭を抱えて、紅毛の少年は文句を言った。
「痛ってぇ、何で殴るんだよぉ! ホントのことじゃんかよっ!」
「貴様が余計なことを言うからだ!
子供の頃は、俺が勝っていたぞ、貴様は寝ていたから知らないだけだ!」
「へん、どうだかねー」

タナトスとサマエルが闘う……そんなことを考えただけで、彼女の心は震え出した。
「わたしはタナトス様を信じます。
でも、ご兄弟でそんな争いをせずに済んで、本当によかったですわ。
タナトス様が、おケガなどなされたらと思うと、わたし……」
イナンナは、危うく涙ぐみそうになり、それをぐっとこらえた。

「あ~あ」
それまで、いくら怒鳴られ殴られようと、まったく(こた)えていなかったやんちゃな宝石の化身は、いきなり肩を落とした。
自分の味方などしてくれるわけがないと分かっていても、目の前で愛する少女にライバルの肩を持たれてしまっては、やはり心が()える。

「ちぇっ……イナンナは、いっつも、タナトスをヒイキすんだからなぁ……。
たまには、可哀想なオレの心配してくれない?」
「誰が可哀想、ですって?」
冷ややかに言われて、彼はさらにしゅんとなった。
「冷たいんだからぁ、イナンナ……」

「ふむ、今度からダイアデムを黙らせたい時には、イナンナを呼ぶことにせねばな」
その様子を見ていた魔界王が、あごひげをなでつけながら言った。
「それがいいぞ、親父。こいつには、俺も散々手を焼かされたからな」
さらに第一王子までが、彼の傷口に塩を塗りつけるような発言をする。
「えー、何だよ、それ! 手に負えないのはタナトスの方だっつーの!」
ダイアデムが、やけくそとばかり叫んだとき、ドアが控え目にノックされた。