~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

2.タナトスの婚約者(1)

(痛っ……何……?)
徐々に意識が回復するにつれて、銀髪の美少女の全身に、痛みが走った。
そっと、体に触れてみる。あちこち傷だらけだった。
(どうして……こんなケガを……? わたし一体……どうしたのかしら……)
ぼんやり傷をなでているうち、ふいに記憶が(よみがえ)り、イナンナは跳ね起きた。

(そうだわ! あのとき、リリスってコの仲間に襲われて!
──? ここはどこ? 何も見えないわ……)
彼女がいたのは、闇のただ中だった。
懸命に眼を凝らしてみても、瞳は一筋の光さえ、捉えることができない。

(えっ、もしかして、眼が見えなくなっちゃったのかしら!?)
彼女は青ざめ、急いでまぶたに触れてみる。
痛みはなく、当然ケガもしていなかった。
(ふう、よかった。ここが真っ暗なだけね。でも、寒いわ……)
緊張を解いたその体もドレスも、じっとりと冷たく湿っていて、少女は思わず肩を抱き、身を震わせた。
(一体どこなの、ここは? この感じ……まるで洞窟の中にいるみたいな……)

彼女は周囲を手探りした。
見えなくとも、壁や床が、規則的に石を積み重ねて造られているのが手触りで分かる。
(石が組んであるってことは、お城のどこかなのかしら……?
まあいいわ、ここがどこにしろ、必ず出口があるはずよ!)
「うっ……」
痛みをこらえ、壁を支えにして立ち上がる。
少女は、片手で壁に触れながら、慎重に歩き出した。

しかし、いつまで経っても扉らしきものはなく、前方に伸ばした手にも、何も触れない。
懸命に澄ます耳に届くのは、時折(しずく)が垂れる音だけで、かびくさい臭いが鼻をつき、空気の流れもまったく感じられなかった。

(……変ね、どうしてドアがないの? ひょっとして、手の届かない高さにあるのかしら?
それとも、ドアがない……なんて、まさか。
だったら、あのリリスってコ、どうやって、わたしをここへ……?
バカね、魔法に決まってるじゃない! 魔法を使えば、出口のない部屋を作ることだって……)
それに思い当たった瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。

「し、しっかりしなさい、イナンナ。だ、大丈夫よ、きっと、タナトス様が助けに来て下さるわ」
動揺を静めようと声に出してみたものの、確信は持てない。
(……でも、ここにいることが、タナトス様にどうやって分かるというの……。
ここが、お城の中とは限らないのよ……。
ダメ、悲観的になっては。きっときっと、助けに来てくださるわ……。
でも、でも……もし……いえ、そんな)

闇は、人を狂気に駆り立てると言う。
気丈なイナンナも、心が幾度も希望と絶望の間を行き来するうち、次第に冷静さを失っていき、パニックに陥りつつあった。

──こんなところから出たい、早く出してと、大声で叫び出したいのを辛うじてこらえていた心に、どす黒い思念が流れ込んで来たのは、そんな時だった。
“冷酷無比なる、かの『闇の貴公子』が、そなたを救いに参ると真実信じておるのか? 
哀れな娘ごよ”
「えっ、だ、誰っ!?
──あっ!」

突如(とつじょ)(まばゆ)いばかりの光が周囲にあふれ返り、イナンナは手で顔を(おお)った。
“これは失敬。少々、光度を下げるとしよう。
よしよし、もうよいぞ”

その言葉に、少女はゆっくりと手をどける。
少し離れたところに、青白く発光する線が、大きく複雑な図形を形作っていた。
今は、かすかな光だというのに、暗闇に慣れた眼には、突き刺さるように感じられる。
彼女は、眼を細めてそれを見つめた。

(ああ、これは魔法陣だわ。結界を張っているのね。何を封じて……あら?)
イナンナは息を呑んだ。
星型と円形、そして、文字らしきものを組み合わせた図形の中央には、漆黒の宝石が浮き上がり、ゆっくりと回転していたのだ。
大人の心臓とほぼ同じ大きさをした、光をはね返すことを知らない真っ黒な貴石……彼女は、これに見覚えがあった。

「あ、そうよ、これはたしか、“黯黒(あんこく)(ひとみ)”と言ったわ……」
その名を口にした刹那(せつな)、またしても暗い思念が、少女の心に接触して来た。
“覚えていて頂けたとは恐悦至極(きょうえつしごく)
されど、かような地下の牢獄(ろうごく)で、そなたと、またもや相まみえようとは、思いもよらなんだぞ、乙女よ”

「なぜ、こんなところに……いえ、それより、ここはどこなの?」
銀髪の少女は思わず尋ねていた。
“ここか。汎魔殿の最下層、『要石(かなめいし)の間』と呼ばれる部屋だ。
我がここに封印された話は、聞き及んでおらなんだのか?”
問い返されて、イナンナはうなずいた。
「……そう言えば、聞いた気がするわね」

“されど、闇の力は強大なり。
我が力を、完全に封じ込めることは、魔界の君主の力を(もっ)てしても、非常なる困難を伴うゆえ、現在も、かように結界を超えての会話が可能なのだ。
あのはね返り娘のリリスが、そなたを連れて来たときは、我も驚いたものだが、お陰で久方ぶりに覚醒出来た。
左様なことより、出たかろう、イナンナ、この闇の牢獄より? 
フフフ……ことと次第によっては、手を貸してもよいぞ……”

“黯黒の眸”は、怒りや恨み、悲しみなど、負の感情を(かて)とする、闇の力を帯びた貴石だった。
見る者の心の奥に潜む闇を増幅する禍々しい気を発し、これに魅入られた者は、必ず破滅するとも言われる。
魔界の至宝の片割れの、ねちっこく、絡みつくような思念に捕えられることに、少女はひどく嫌悪感をかき立てられ、その心には、かつての情景が鮮やかに甦って来た。
到底楽しいとは言えなかった異界での体験……そして、この石に操られた一人の男のために、遠い過去、祖先に起こった悲劇が。

彼女は、宝石をキッと睨みつけた。
「ジルをさらい、タナトス様を危ない目に()わせた上、さらにサマエル様も傷つけ……それだけじゃない、昔、人間全部を滅ぼしかけたお前に、頭を下げて頼めと言うの!?
冗談じゃないわ!」
“……従妹殿と同様、気の強い娘ごよのぉ……”
宝石の思念は、ため息をついているように聞こえた。

「何ですって!?」
“いや、相済まぬ。されどの、我は、負けん気の強い者は嫌いではないぞ。
のう、イナンナ、頭など下げる必要はないのだ、我の……ちょっとした頼みを聞き入れてもらえさえすれば、すぐさま、かような場所より、そなたを解放してやろうほどに。
話のみでも聞いてはもらえぬか、のぉ……”

“黯黒の眸”は、少女の関心を買おうと躍起になっている様子だった。
迷ったものの、一刻も早く脱出したい気持ちが勝り、イナンナは渋々同意した。
「そんなに言うなら、聞くだけ聞くわ。何なの、頼みって?」
途端に、魔法陣の輝きが強くなる。
闇色の貴石は、勢い込んで話し始めた。

“イナンナよ、我が(まなこ)となってはくれぬか。いや、何、たやすいことよ。
我を受け入れ、そなたの心のごくごく片隅に、我が居場所を作ってくれさえすればよいのだ!”
「──えっ!?」
意外な申し出に、銀髪の少女は緑の眼を見開く。
漆黒の宝石は、さらに続けた。

“それと申すも、結界を通してはさすがに、外の様子は無論、城内の様子すらろくに見えぬゆえだ。
無聊(ぶりょう)(なぐさ)め(=退屈しのぎ)さえあらば、取り立てて悪巧(わるだく)みなぞ、入り用ではないのでな。
『焔の眸』は気随(きずい)(=気まま)な振る舞いが許されておると申すに、我だけがなぜ、かような場所に封じ込められ、ほこりにまみれておらねばならぬのだ?
……まったく得心(とくしん)(=納得)が行かぬ、理不尽(りふじん)なこととは思わぬか、イナンナ”

イナンナは、三日月形の美しい眉をひそめた。
「退屈だからといって、あんなことをして許されると思っているの!
ダイアデムは、たしかに口は悪いし、人間を……三つの大陸ごと破壊したこともあるけれど……それは命令されたからで、しかも、元はと言えばお前のせいなのだし、彼は自由にさせておいても害がないと思うわ」
“それは早合点(はやがてん)と申すもの。そなたは『焔の眸』のことなど、何も知らぬではないか”
“黯黒の眸”の声は不満気だった。

人族の少女は首を横に振った。
「ちょっと話してみれば分かるわよ。彼は無邪気なだけで、子供と同じだってことは。
それに引き換え、お前は、関わるすべての人に害を及ぼすわ、人界でも魔界でもね。
あのときだけじゃなく、今までもずっとそうだったんでしょう?
ジルもそう感じたと言ってたし、だからこそ、タナトス様達も、お前を外には出さないのよ。
当然、というより、賢明な措置だと思うわ」

“……我が頼みを聞く気はない、と申すか、乙女よ”
「ここから出す見返りに、お前をわたしの心に()まわせろってことでしょう!?
そんなの、絶っっ対にごめんだわ!!」
イナンナはぴしゃりと言ってのけた。

“……何ゆえだ? 悪い取り引きではないと思うのだがの。
そなたの心の中におったとて、意志にまで触れようとは思わぬぞ”
「プライバシーの侵害だわ! わたしが見たことや聞いたこと、考えまでお前に知られるなんて!」
「思考なぞ、覗き込んだりは致さぬと申しておるではないか。今ここで誓約(せいやく)してもよい。
のう、イナンナ……我を、そなたの心に……」
「イ・ヤ! 絶対にお断りよ!」

彼女が突っぱねると、“黯黒の眸”の声は、憤然とした響きを帯びた。
“むう……ならば、未来永劫(えいごう)、この闇の中より出られず、飢えと渇きに(さいな)まれたあげく、醜い(しかばね)をさらすこととなっても構わぬと申すか!”
それから、不意に、機嫌をとるような、()びた口調になる。

“……のぉ、考えてみよ、イナンナ。死したる後のことを。
死骸(しがい)には(うじ)がわき、ネズミが食い、どろどろに腐り果て、しまいには、乾いた白き骨ばかりとなるのだぞ……。
左様な、おぞましき最期を迎えたいと申すのか?
そなたは若く、美しい。かようなところで朽ち果てさせるは、まことにもって哀れ……。
気を変えよ、月の女神のごとくに輝く純真なる娘、イナンナよ……”

()れ馴れしく名前を呼ばないで! 
気を変えるつもりなんかないわ、これ以上、何を言ってもムダよ!
誰が、あんたなんかに、命乞いなどするものですか!!」

未練がましく送られて来る黒い宝石の思念を、澄んだ声で断ち切ると、イナンナはくるりと背を向け、魔法陣の灯りであたりを観察し始めた。
しかし、微弱な光が届く範囲は狭く、扉どころか天井も、反対側の壁すら見えない。
声の響き方からしても、彼女が想像していたよりずっと、この部屋は広いようだった。

(あ、こんなところに水溜まりが……)
ただ一つの救いは、すぐそばに、水が滴り落ちている場所があるのを、見つけられたことだった。
(よかった。水だけで、一週間ぐらいはもつって聞いたし、必ずタナトス様が見つけて下さるわ。
ここがお城の中なら、タナトス様もご存じのはずだもの……)

──イナンナの身に、何が起こったのか?
話は、数時間前に(さかのぼ)る。