2.タナトスの婚約者(1)
(痛っ……何……?)
徐々に意識が回復するにつれて、銀髪の美少女の全身に、痛みが走った。
そっと、体に触れてみる。あちこち傷だらけだった。
(どうして……こんなケガを……? わたし一体……どうしたのかしら……)
ぼんやり傷をなでているうち、ふいに記憶が
(そうだわ! あのとき、リリスってコの仲間に襲われて!
──? ここはどこ? 何も見えないわ……)
彼女がいたのは、闇のただ中だった。
懸命に眼を凝らしてみても、瞳は一筋の光さえ、捉えることができない。
(えっ、もしかして、眼が見えなくなっちゃったのかしら!?)
彼女は青ざめ、急いでまぶたに触れてみる。
痛みはなく、当然ケガもしていなかった。
(ふう、よかった。ここが真っ暗なだけね。でも、寒いわ……)
緊張を解いたその体もドレスも、じっとりと冷たく湿っていて、少女は思わず肩を抱き、身を震わせた。
(一体どこなの、ここは? この感じ……まるで洞窟の中にいるみたいな……)
彼女は周囲を手探りした。
見えなくとも、壁や床が、規則的に石を積み重ねて造られているのが手触りで分かる。
(石が組んであるってことは、お城のどこかなのかしら……?
まあいいわ、ここがどこにしろ、必ず出口があるはずよ!)
「うっ……」
痛みをこらえ、壁を支えにして立ち上がる。
少女は、片手で壁に触れながら、慎重に歩き出した。
しかし、いつまで経っても扉らしきものはなく、前方に伸ばした手にも、何も触れない。
懸命に澄ます耳に届くのは、時折
(……変ね、どうしてドアがないの? ひょっとして、手の届かない高さにあるのかしら?
それとも、ドアがない……なんて、まさか。
だったら、あのリリスってコ、どうやって、わたしをここへ……?
バカね、魔法に決まってるじゃない! 魔法を使えば、出口のない部屋を作ることだって……)
それに思い当たった瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「し、しっかりしなさい、イナンナ。だ、大丈夫よ、きっと、タナトス様が助けに来て下さるわ」
動揺を静めようと声に出してみたものの、確信は持てない。
(……でも、ここにいることが、タナトス様にどうやって分かるというの……。
ここが、お城の中とは限らないのよ……。
ダメ、悲観的になっては。きっときっと、助けに来てくださるわ……。
でも、でも……もし……いえ、そんな)
闇は、人を狂気に駆り立てると言う。
気丈なイナンナも、心が幾度も希望と絶望の間を行き来するうち、次第に冷静さを失っていき、パニックに陥りつつあった。
──こんなところから出たい、早く出してと、大声で叫び出したいのを辛うじてこらえていた心に、どす黒い思念が流れ込んで来たのは、そんな時だった。
“冷酷無比なる、かの『闇の貴公子』が、そなたを救いに参ると真実信じておるのか?
哀れな娘ごよ”
「えっ、だ、誰っ!?
──あっ!」
“これは失敬。少々、光度を下げるとしよう。
よしよし、もうよいぞ”
その言葉に、少女はゆっくりと手をどける。
少し離れたところに、青白く発光する線が、大きく複雑な図形を形作っていた。
今は、かすかな光だというのに、暗闇に慣れた眼には、突き刺さるように感じられる。
彼女は、眼を細めてそれを見つめた。
(ああ、これは魔法陣だわ。結界を張っているのね。何を封じて……あら?)
イナンナは息を呑んだ。
星型と円形、そして、文字らしきものを組み合わせた図形の中央には、漆黒の宝石が浮き上がり、ゆっくりと回転していたのだ。
大人の心臓とほぼ同じ大きさをした、光をはね返すことを知らない真っ黒な貴石……彼女は、これに見覚えがあった。
「あ、そうよ、これはたしか、“
その名を口にした
“覚えていて頂けたとは
されど、かような地下の
「なぜ、こんなところに……いえ、それより、ここはどこなの?」
銀髪の少女は思わず尋ねていた。
“ここか。汎魔殿の最下層、『
我がここに封印された話は、聞き及んでおらなんだのか?”
問い返されて、イナンナはうなずいた。
「……そう言えば、聞いた気がするわね」
“されど、闇の力は強大なり。
我が力を、完全に封じ込めることは、魔界の君主の力を
あのはね返り娘のリリスが、そなたを連れて来たときは、我も驚いたものだが、お陰で久方ぶりに覚醒出来た。
左様なことより、出たかろう、イナンナ、この闇の牢獄より?
フフフ……ことと次第によっては、手を貸してもよいぞ……”
“黯黒の眸”は、怒りや恨み、悲しみなど、負の感情を
見る者の心の奥に潜む闇を増幅する禍々しい気を発し、これに魅入られた者は、必ず破滅するとも言われる。
魔界の至宝の片割れの、ねちっこく、絡みつくような思念に捕えられることに、少女はひどく嫌悪感をかき立てられ、その心には、かつての情景が鮮やかに甦って来た。
到底楽しいとは言えなかった異界での体験……そして、この石に操られた一人の男のために、遠い過去、祖先に起こった悲劇が。
彼女は、宝石をキッと睨みつけた。
「ジルをさらい、タナトス様を危ない目に
冗談じゃないわ!」
“……従妹殿と同様、気の強い娘ごよのぉ……”
宝石の思念は、ため息をついているように聞こえた。
「何ですって!?」
“いや、相済まぬ。されどの、我は、負けん気の強い者は嫌いではないぞ。
のう、イナンナ、頭など下げる必要はないのだ、我の……ちょっとした頼みを聞き入れてもらえさえすれば、すぐさま、かような場所より、そなたを解放してやろうほどに。
話のみでも聞いてはもらえぬか、のぉ……”
“黯黒の眸”は、少女の関心を買おうと躍起になっている様子だった。
迷ったものの、一刻も早く脱出したい気持ちが勝り、イナンナは渋々同意した。
「そんなに言うなら、聞くだけ聞くわ。何なの、頼みって?」
途端に、魔法陣の輝きが強くなる。
闇色の貴石は、勢い込んで話し始めた。
“イナンナよ、我が
我を受け入れ、そなたの心のごくごく片隅に、我が居場所を作ってくれさえすればよいのだ!”
「──えっ!?」
意外な申し出に、銀髪の少女は緑の眼を見開く。
漆黒の宝石は、さらに続けた。
“それと申すも、結界を通してはさすがに、外の様子は無論、城内の様子すらろくに見えぬゆえだ。
『焔の眸』は
……まったく
イナンナは、三日月形の美しい眉をひそめた。
「退屈だからといって、あんなことをして許されると思っているの!
ダイアデムは、たしかに口は悪いし、人間を……三つの大陸ごと破壊したこともあるけれど……それは命令されたからで、しかも、元はと言えばお前のせいなのだし、彼は自由にさせておいても害がないと思うわ」
“それは
“黯黒の眸”の声は不満気だった。
人族の少女は首を横に振った。
「ちょっと話してみれば分かるわよ。彼は無邪気なだけで、子供と同じだってことは。
それに引き換え、お前は、関わるすべての人に害を及ぼすわ、人界でも魔界でもね。
あのときだけじゃなく、今までもずっとそうだったんでしょう?
ジルもそう感じたと言ってたし、だからこそ、タナトス様達も、お前を外には出さないのよ。
当然、というより、賢明な措置だと思うわ」
“……我が頼みを聞く気はない、と申すか、乙女よ”
「ここから出す見返りに、お前をわたしの心に
そんなの、絶っっ対にごめんだわ!!」
イナンナはぴしゃりと言ってのけた。
“……何ゆえだ? 悪い取り引きではないと思うのだがの。
そなたの心の中におったとて、意志にまで触れようとは思わぬぞ”
「プライバシーの侵害だわ! わたしが見たことや聞いたこと、考えまでお前に知られるなんて!」
「思考なぞ、覗き込んだりは致さぬと申しておるではないか。今ここで
のう、イナンナ……我を、そなたの心に……」
「イ・ヤ! 絶対にお断りよ!」
彼女が突っぱねると、“黯黒の眸”の声は、憤然とした響きを帯びた。
“むう……ならば、未来
それから、不意に、機嫌をとるような、
“……のぉ、考えてみよ、イナンナ。死したる後のことを。
左様な、おぞましき最期を迎えたいと申すのか?
そなたは若く、美しい。かようなところで朽ち果てさせるは、まことにもって哀れ……。
気を変えよ、月の女神のごとくに輝く純真なる娘、イナンナよ……”
「
気を変えるつもりなんかないわ、これ以上、何を言ってもムダよ!
誰が、あんたなんかに、命乞いなどするものですか!!」
未練がましく送られて来る黒い宝石の思念を、澄んだ声で断ち切ると、イナンナはくるりと背を向け、魔法陣の灯りであたりを観察し始めた。
しかし、微弱な光が届く範囲は狭く、扉どころか天井も、反対側の壁すら見えない。
声の響き方からしても、彼女が想像していたよりずっと、この部屋は広いようだった。
(あ、こんなところに水溜まりが……)
ただ一つの救いは、すぐそばに、水が滴り落ちている場所があるのを、見つけられたことだった。
(よかった。水だけで、一週間ぐらいはもつって聞いたし、必ずタナトス様が見つけて下さるわ。
ここがお城の中なら、タナトス様もご存じのはずだもの……)
──イナンナの身に、何が起こったのか?
話は、数時間前に