~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

1.陰謀への招待(2)

「まあ、真っ暗……ここが、魔界のお城なのですか? タナトス様……」
「……ん?」
ふと漏らしたイナンナの心細げな声に、タナトスは振り返る。
人族の少女に見えるのは、闇中でも煌々(こうこう)たる輝きを失わない、魔族の王子の紅い双眸(そうぼう)だけだった。

「ああ、そうか。人族は、暗闇では見えないのだったな。
──グリッティ!」
不意に光が視界に満ち、少女の巻き毛が灯りを反射して、銀粉をまき散らしたように輝く。
彼女は、(まぶ)しさに二、三度(まばた)きし、眼が慣れてから周りを見回した。

そこは、落ち着いた感じの広い部屋だった。
暖かな色合いの毛皮が床に敷き詰められ、あちこちに置かれたいくつもの燭台に揺れるろうそくの灯が、明るく室内を照らしている。
しかし、一度だけ訪れたことがあるタナトスの城よりも、建物も家具も空気までもがどことなく重々しく、ひんやりとしているように彼女には感じられた。

「……ここが、タナトス様のお部屋なのですか?」
「いや、これは、俺の昔の子供部屋だ。
今は、自分の城があるしな、ごくたまに、休憩室として使うくらいか。
無闇に、他の者が人界へ行くことのないよう、ここに魔法陣を設置したのだ、こっそりとな」
「そうですの。あら、これは?」
イナンナは、どっしりとした木製の机の上に立ててある小さな額に気づき、手に取った。

それは、一人の少年の写真だった。
肩で切りそろえられた黒髪に、真紅の眼……今のタナトスよりもほんの少し短い角を持ち、幼いけれども、気品ある顔立ちをした少年が、上目遣いにこちらを睨んでいる。

「タナトス様の、お小さい頃のお写真ですのね」
「ああ、それか。……まだ残っていたのだな、そんなもの」
(何だか不思議。タナトス様にも、お小さい頃があったなんて……)

魔界の写真は立体的で、写っている人物も、見るたび異なる表情やポーズをしていたりする。
ずっと見ていると、写真の少年は彼女に向かってあかんべーをし、ドアに駆け寄って行った。
今にも、この少年が、部屋に走り込んで来そうな錯覚にとらわれたイナンナは、思わずドアに眼をやった。

「さて、俺は、親父に会って来なくてはならん、ちょっとここで待っていてくれ。
来客用の部屋には、侍女に案内させよう」
その声に我に返った彼女は、その額を胸に(いだ)き、うっとりしたまま首を振った。
「……いいえ、わたし、ここでお待ちしておりますわ……。
何だか、とても……素敵なんですもの……このお部屋……」

「そうか、ならいいが」
(こんな何の変哲もない部屋が、そんなに気に入ったのか?
……変わった娘だな……)
タナトスは、首をかしげつつ、少女を残して部屋を出た。

扉の外は、長く続く汎魔殿の回廊だった。
壁に並んで彫られている穴に置かれた、燭台を持つ手の形をした彫刻に沿って歩くと、影は、生き物のように伸び縮みする。
足早に移動しながら、彼は思念で、宝物庫にいるダイアデムに呼びかけた。

“おい、イナンナを連れて来てやったぞ、今、俺の部屋にいる。
貴様が会いたがっているなどと言ったところで、来はしまいと思ったから、俺の話し相手が欲しかったのだと言っておいたからな”
“へー、汎魔殿にまで連れて来るなんて、お前にしちゃ、珍しく気がきくじゃねーか。
オレは、彼女に会えりゃいーんだから、ンな細かいこた、気にしねーぜ”
宝石の化身は、いつものように、悪ガキめいた答えを返してきた。

“……相変わらずだな、貴様……。
そんな調子で、女性に好かれようなどとは無理な相談だ、もっと上品に話せんのか?”
あきれたような彼の思念に、ダイアデムは当然、口答えした。
“うっせえ、大きなお世話だ!
ふん、ヒトのコトかまけてるヒマがあったら、おっとなし~く魔界の王サマになるお勉強でもしてたらぁ、タナトスちゃんや?”

“何だ、その口の利き方は!
俺は、魔界王家の第一王子、貴様の主人に当たる者だぞ、それを……!”
“へっ、残念でした、オレが、ゆーこと聞かなくちゃなんねーのは、魔界王だけだもんね!
タナトスのゆーことは聞かなくていい、ってベルゼブルもゆってるんだぜ、ザマーミロ!”
あかんべーをしている映像を、宝石の化身は、魔界の王子に送りつける。

“くっ、言わせておけば!”
このまま宝物殿まで行き、一、二発殴ってやろうかとタナトスは思ったが、父親のところへ急がねばならないのを思い出し、ぐっとこらえた。
“ちぃっ、好きに言っていろ! 
まったく、貴様と話していると、こっちまでガラが悪くなってしまう!”

“へんだ、ガラが悪いのはお前の方だろ、今さら、上品ぶったって遅いんだよ、バーカ!
何が、魔界の王子サマだ、えばりやがって! 
お前なんかが魔界の王サマんなったら、世も末だよなぁ~、大バカ魔界王のご誕生だぁ!”
このように、第一王子に話しかけるときの“焔の眸”は、挑発するような口の利き方をするのが常だった。
それと知りつつ、タナトスは、なかなか自制出来ない。

“き、貴様ぁ~! 覚えておけ!
俺が魔界王になったら、目にもの見せてやる、覚悟しておくんだな!”
“はん、何を見せるんだって? 
オレは、お前なんかよりか、よ~くものが見えるんだぜ!”
そうやって言い合っている間に、タナトスは、父、魔界王ベルゼブルの書斎に着いていた。

“俺だ。入るぞ!”
「タナトス殿下、お待ちを。ただ今、お取り次ぎ致し……」
「もう伝えた。構わんでいい」
立ち上がりかける控えの間の小姓に、ぞんざいに手を振り、彼は無造作にドアを開け、ずかずかと室内に入っていった。
そのまま真っ直ぐに進み、重厚な机に座って分厚い書物を読みふけっている老人の前に立つ。

「何の用だ?」
冷ややかな声で、彼は問いかけた。
「……タナトス、取り次ぎくらい頼んだらどうじゃ、それが、礼儀と申すものじゃぞ」
至急と命じたわりには、のんびりとした口調で、ベルゼブルは答えた。
魔族の王子は肩をすくめた。
「ふん。どうせ、急ぐ用事でもあるまいと思っていたが、その通りだったようだな」

皮肉っぽいその台詞を耳にした刹那、紅い両眼が鋭い光を帯び、魔界の王は、音を立てて本を閉じた。
()く参れとでも申さねば、いつまでも参らぬではないか!
そなたは、次期の魔界王になる身、人間ごときと遊んでおる場合ではないのじゃぞ!
大体、そなたは……」

「また、それだ」
タナトスは、そっぽを向いた。
「説教しか用がないのなら、俺は行くぞ。知り合いを待たせているのだ」
「……子供部屋におるあの娘か? あれがジルなのじゃな?」
魔界王の書斎では、汎魔殿内の魔法陣が作動したことが、一目で分かるようになっている。

興味を引かれた様子の父親に、第一王子は顔をしかめて手を振った。
「いや、そうではない。彼女はイナンナ、ジルの従姉だ。ダイアデムが連れて来いとせがんでな。
着いた途端に、呼び出しがかかったから、ついでに連れて来た、それだけだ」
「ほう。余はまた、あれがジルであろうと思うておった。
……従姉……ふむ、なかなかの美女じゃな。心が動かぬか?」

「いいや。イナンナは王家の血を引き、超一流の剣技と、姿形に見合う純潔な魂を持ってはいるが、いかんせん、まったく魔法が使えんのだ。魔界の王妃たる資格はない。
今まで見た女の中では、最上級の部類に入る“食料”、それだけだな」
タナトスの(いら)えはそっけなく、また、魔力がないと聞いた魔界王の興味も、急速に薄らいでいった。

「左様か。それに引き換え、ジルとやらは、魔法使いの卵と申しておったな」
「そうとも!」
同意する声に力がこもり、彼は身を乗り出した。
「あの魔力を見たら、俺がこだわるわけが親父にも分かるだろうさ!
俺とて、ぜひまた連れて来たいとは思っているのだが、どうしてか、ジルは、あまり気乗りせんようなのでな」

「どうせ、そなたが、あまりにしつこく言い寄るからじゃろうて」
「うっ……」
図星を指された第一王子は、言葉に詰まった。
「く、くそ、プロケルに聞いたのか?」
「まあ、そんなところじゃ」
「ちっ、あいつめ!
だが、仕方なかろう! 天界のみならず、彼女は魔力を欲する者どもの格好の標的だ。
そやつらに奪われんようにと、俺がどれだけ苦労しているか、親父には分かるまい!」

「左様な瑣末事(さまつじ)、サマエルとプロケルに任せておけばよいのじゃ。
そなたには、魔界においてやるべきことが、多々あるじゃろうが?」
それを聞いたタナトスの両眼が、かっと燃え上がる。
「任せておいたら、さらわれてしまったのだろうが! 
プロケルときては、老い先短いモウロク猫だし、サマエルに至っては、番犬の方がよほど役に立つくらいだ!
あんなはっきりせん男より、魔界王になる俺の方が、どれだけいいか分からんのに、ジルと来たら……!」

「はっはっはっはっは……! じゃが、女がそう考えるとは限らんぞ」
いきり立つ息子の滑稽(こっけい)さに、ついついベルゼブルは笑い出す。
「こ、このくそ親父──!」
みるみるタナトスの頬は紅潮し、彼は父親につかみかかった。

「まあ、待て待て、冗談じゃ。
落ち着け、タナトス。相すまぬ、笑ってはいかんのじゃな」
魔界王は懸命に笑いを抑え、息子をなだめた。
(ふざけおって! 死期を早めたいか、この大ボケジジイめ!)
タナトスは、心の中で激しく息巻いた。
父親の肩をつかむ指からは、まだ力が抜けない。

しかし、それはいつものことであり、ベルゼブルはさほど慌てた様子もなく、淡々と話し続けた。
「……ふむ、そなたら兄弟の性格は、まったく違ったものと思うておったが、女の好みは同じと見ゆるの。
いつか、ジルとやらを連れて参るがよいぞ、余も会うてみとうなったわ。
そこまで、そなたらがこだわるとは、いかような娘なのか、とな。
今は少し時間が取れるゆえ、イナンナと申したか、その娘に会うてみたいが、いかがじゃ? 
従姉ならば、妃候補の人となりを知るにも、都合がよかろう」

第一王子は、ようやく気を静め、うなずくと共に手を離した。
「ふん……そうだな、彼女も喜ぶだろう。
念のため言っておくが、手は出すなよ、ジルに申し訳が立たんからな」
「余を誰じゃと思うておる、女ごとき、間に合うておるわ」
ベルゼブルは鼻にしわを寄せた。

タナトスは、そんな王をじろりと見る。
その眼差しは、父親を見る子供のものとは到底思えなかった。
「ふ……ん。一応は信じておいてやる。
……ああ、それと、ダイアデムがへそを曲げると面倒だから、一緒に連れて来るぞ」
「うむ」

息子が出て行く姿を見ながら、ベルゼブルは思った。
(あやつにも困ったものじゃ、いつまでも、ふらふらとしおって。
なれど、まことに一度、そのジルとやらを見ておく必要があるな。
タナトスが申すほど、いやプロケルも同意しておったが、それほどに強大な力を持っておるのならば、妃に迎えることは、たしかに魔界のためになるやも知れぬが……魔界の王妃は、生半可(なまはんか)な覚悟で(つと)まるものではない。
また、天界も黙ってはおるまいしな……難儀(なんぎ)なことじゃ……)