~紅龍の夢~

巻の三 THE PHANTASMAL LABYRINTH ─幻夢の迷宮─

1.陰謀への招待(1)

朝が訪れた。
「お師匠様、おはようございま~す!」
栗毛の少女が、元気な声であいさつをし、席に着く。
この少女、ジル・アラディアは、四年前、疫病(えきびょう)で苦しんでいるところをサマエルに救われて弟子となり、屋敷に一緒に住んでいた。
「おはよう、ジル」
穏やかに答え、いつも通り魔法の授業を始めたものの、サマエルは、どこか上の空だった。

「お師匠様、どうしたの? ぼんやりして。雪の季節は、まだ先よ」
弟子に声をかけられて、サマエルは我に返った。
「あ……あ、すまない、ジル」
「どっか具合でも悪いの?」
「大丈夫だよ。ただ……昨夜、ちょっと気になる夢を見てね……」
彼は、心配そうに顔を覗き込んで来る少女に、微笑んで見せた。

「……夢? 恐い夢を見たの?」
ジルは可愛らしく小首をかしげる。
サマエルは(かぶり)を振った。
「いや、恐くはなかったな。
男か女かも分からない人物が出て来て、『危険』と告げて消える、という夢で……よく知っている相手のような気がするのに、いくら考えても、誰だか分からなくてね。
そのせいか、心に引っかかってしまって……」

「ふ~ん、そういうのって、気になるもんね。
でも、正夢だったら困るわ、何か危険があるのかしら?」
「……分からない。今まで見た予知夢とも、少し違うようだ……」
サマエルは、心ここにあらずと言った表情で、視線を遠く彷徨(さまよ)わせた。

「よく眠れなかったんじゃない、お師匠様。
顔色が悪いみたい、休んだ方がいいわ」
「眠くはないが、やはり気になるな。ちょっと調べてみたいから、午後の授業は休みにしよう。
……今日はいい天気だ、花畑にでも、行ってみたらどうかな」
「うん」

その日の夕食は、ジルと魔界の公爵プロケルだけという淋しいものになった。
彼女が帰って来てからも、もう少し調べたいからと、サマエルはまだ地下室にこもっていたのだ。

氷剣公とも呼ばれるプロケルは、サマエルの父、魔界王ベルゼブルにより、人界へ派遣されて来ていた。
次期魔界王に決定しているサマエルの兄、タナトスがジルを気に入って妃にしようとし、元々彼女を密かに思い続けていたサマエルと、三角関係に陥ったために。

紆余曲折(うよきょくせつ)のあげく、十八歳になった時点でジルが相手を選ぶこととなり、それまでの間、監視役として引退間際のプロケルがサマエルの屋敷に住み込むこととなった。
ここにはもう一人、ジルの従姉(いとこ)、イナンナも住んでいるのだが、今日は、タナトスと共に魔界へ出かけていた。
ジル達と同居を始めてから、彼女は、タナトスを愛してしまったのだった……彼が、従妹(ジル)を妃にしたいと熱望していることを承知の上で。

「正直なところ、イナンナ殿には、あまり深入りして頂きたくはないですなぁ……」
料理上手なサマエルの使い魔が腕を振るった、さほど豪華ではないが、滋養(じよう)たっぷりの夕食を()りながら、老公爵はつぶやく。
その眼は、食卓上の灯りを反射して、猫そっくりに輝いていた。

「……どうして? やっぱりイナンナが、魔法を使えないから?」
()かれたプロケルは、難しい顔になった。
「そればかりではございませぬぞ。
魔界の環境は過酷ゆえ、人族の女性(にょしょう)が魔界で暮らすとなれば、かなりご苦労なさると思われますからな」
「ふうん。魔界の宮殿にいれば大丈夫だって、タナトスは言ってたけど……」

プロケルは、ため息をつく。
「それは無論、汎魔殿(はんまでん)(魔界の宮殿)の周囲には強力な結界が張り巡らされており、その中におれば、何不自由ない生活が保障されておりますが。
いかんせん、イナンナ殿は、まったく魔法がお使いになれない……。
彼女が王妃となれば、家臣達の中から、様々懸念の声が上がるのは必至(ひっし)でございますからな……」
「魔界の王妃様が、魔法使えないんじゃ、やっぱり駄目……なの?」
おずおずとジルは尋ねる。

公爵は厳粛な顔つきをした。
御意(ぎょい)。魔族にとりましては、魔力がすべて……いかにしても、左様な面がございますのでな」
「そう。どっちにしろ、あたしは魔界に行くつもりないから、関係ないけど」
「左様、左様」
魔界公は、幾度も深くうなずいた。
「かようなことを申せば、タナトス様にはお叱りを受けましょうが、それがしも、それが賢明だと思いまするぞ。
それゆえ、イナンナ殿にも、タナトス様を諦めて頂ければと思うておるのですが……」

ジルは、顔をしかめた。
「えー、誰を好きになるかは、イナンナの自由でしょ。
でも、せめてタナトスが、王子様じゃなかったらよかったのにね。
そしたら、ずっと人界にいられるし、イナンナに魔力がなくたって、別によかったのに……」
プロケルは否定の仕草をした。
「いやいや、たとえ、タナトス様が王子でないと仮定致しましても、あのお方はおそらく、あなたのことを……」

「そう……かしら。
あたし、タナトスのことは、特に嫌いってわけじゃないんだけど……」
言葉を(にご)す人族の少女に、老伯爵は温かい眼差しを注ぐ。
「それ以上、(おっしゃ)る必要はございませんぞ、ジル。
出来得るならば、皆が幸せになれればよいと、それがしも思ってはおりまするが……」
「うん、そうね……」
彼女はうつむき、後は二人とも、黙々と食事を口に運んだ。

その少し前。
「タナトス様、なぜ……わたくしを、お誘い下さいましたの……?」
有頂天のイナンナは頬を染め、そう尋ねていた。

波打つ銀髪をきっちりと後ろでまとめ上げ、腰には鋭い剣を帯び、彼女は、一見すると少年のような出で立ちをしていた。
美しい顔の少しつり上がりぎみの眼は、静かな湖面にも似た深い緑色を(たた)えている。
豊かな胸は、軽量の鎧に隠れてはいるものの、身のこなしが優美なこともあって、女性であることは隠しようもない。

幼い頃、ジルとは同じ村に住んでいたのだが、母と共に伯爵家に引き取られて以来、離れ離れになっていた。
村が疫病で全滅した後、従妹が賢者に助けられ弟子になったと人伝えに聞いた彼女は、サマエルの屋敷を尋ねて来て同居することとなった。
そして、時折ジルに会いに訪れるタナトスを愛するようになっていった。
しかし、いくら剣技は()えていようと、イナンナは、魔法を使えない人族の娘であり、他方タナトスは、魔力の強さが優劣を決める魔族の、しかも王位継承者だったのだ。
たとえ、彼が、従妹のジルを想っていなかったとしても、相手にされるわけもなく……仕方のないことだとは言え、いつも悲しい思いを味わって来た。
それだけに、今回、魔界に招かれた少女が、ぼうっとなるのも無理はなかったのだ。

そして、胸をときめかせているイナンナと向かい合い、対照的な表情を浮かべているのが、彼女の思い人だった。
冥界の大河の流れを思わせる黒髪、きつい光を湛えた紅い瞳を持ち、頭には二本角、背中にはコウモリに似た翼を生やした男。
彼こそが“闇の貴公子(プリンス・オヴ・ダークネス)”という称号を持つ、魔界王家の第一王子タナトスだった。

「キミを誘った理由だと? 聞いてどうする、そんなもの」
王子にふさわしく、宝石の飾りがついた豪華な衣装と、金の縁取りマントに身を包んだ彼は、端正(たんせい)な顔立ちに、(いら)立ちをにじませて問い返した。

「い、いえ……ちょっと、気になったものですから……」
「ふん。一人で魔界に帰っても退屈なだけだからな。
本当は、ジルを連れて行きたいところなのだが、サマエルのヤツがうるさい。
誰か手頃な者がいないかと話していたところへ、たまたまキミが来たから、声をかけてみただけだ。
それでは不服か?」

(ええっ! たまたま、来たから? 誰でもよかった、の……?)
一瞬、少女はショックを受けたものの、偶然にせよ、声をかけてもらえて幸運だと、前向きに考えることにした。
「い、いいえ、光栄ですわ。喜んでお供させて頂きます」
「そうか。では、行こう」
「はい……」

「……にしてもだ、サマエルめ。
あんなことがあったというのに、いまだにジルの保護者面をしておるとは……!
浮浪者も同然の身で、まったくもって忌々(いまいま)しい、犬にも劣るヤツめが!」
タナトスは整った眉をしかめ、王族にはふさわしくない悪態をついた。
愛する少女ジル、その師匠が、彼とは犬猿の仲である実の弟だったために、無闇に彼女を連れ出すわけにはいかなかったのだ。
その上、魔界王家の世継ぎとして、魔界でやるべきことも多々あり、頻繁(ひんぱん)に人界を離れなければならず、(わずら)わしいことが何より嫌いな彼は、余計に機嫌が悪かった。
それで、イナンナを誘った本当の理由も、素直に口に出せなかったのだった。

数ヶ月前、サマエルのちょっとした油断から、ジルが邪悪な魔法使いにさらわれてしまうという事件が起こり、彼女を救出する際、同行した少年に、タナトスは危ういところを二度、救われた。
その少年は、結界を解くため持参したアイテム“王の杖”にはめ込まれた宝石、“(ほのお)(ひとみ)”に宿る精霊、いわゆる化身だった。
類稀(たぐいまれ)な美しさと、内包する魔力の強さゆえに、魔界の至宝(しほう)とされるその貴石が、少年の姿をとるときに名乗る“ダイアデム”は、“王冠、王位、王権”を意味している。

助ける際、条件としてダイアデムが出したのが、『もう一度イナンナに会いたい、魔界に連れて来て欲しい』というものだった。
特殊な立場にある彼は、よほど特別な場合を除き、魔界を出ることは許されていなかったのだ。

人界から魔界へ行くには、サマエルの屋敷の地下から魔法陣に乗るしかない。
一応、弟に断りを入れ、二人は地下室へと下りた。
複雑な心境のまま、イナンナはタナトスに次いで、輝きを発する魔法陣に乗った。

ふわりと体が浮き上がるような移動感が彼らを包み、それが収まったとき、二人はタナトスの城である黔龍(けんりゅう)城、その中庭へと着いていた。

出迎えた召し使いは、うやうやしく(こうべ)を垂れて告げた。
「お帰りなさいませ、タナトス殿下。ベルゼブル陛下よりご伝言がございます。
お戻りになられましたら、すぐに、汎魔殿の執務室へお越しになるように、との(おお)せで」

「ちっ、またか。ふん、どうせ、大した用でもあるまいに!」
しかめっ面をした王子は、少女に視線を移した。
「そうだ。イナンナ、キミも一緒に行くか?」
「えっ、よろしいのですか? お仕事のお邪魔になるのでは……」
「無論、重要な会議には連れて行けんが、そんなものはほとんどない。
ここで待っていても退屈だろうし、汎魔殿も結界で囲まれているしな。
用が終われば、城の中を案内してやってもいいぞ」

それは優しさからというわけではなく、単なる彼の気まぐれだった。
本当なら、黔龍城で待たせておいて、ダイアデムを呼べば済むことだったのだから。

「はい! そう仰って頂けるなら、喜んで、ついて参りますわ!」
もちろん、イナンナに異論はなかった。
「よし、急ごう。親父は気が短いからな。
こっちだ、イナンナ」
自分のことは棚に上げて、タナトスは言い、二人は、魔界の宮殿へと通じる魔法陣に乗り替えた。
再び浮き上がるような感覚があり、それが終わると、周囲は完全に闇に包まれていた。