─プロローグ/夢の呼び声─
(……声が聞こえる……。
誰か……が……私の名を……呼んで…いる……。
誰……だ……私を……呼ぶのは……?)
浅い眠りの中、男は不思議な声を聞いていた。
はかなげでいながら、芯の強さを感じさせる呼び声。
どこから聞こえてくるのか、夢とも現実ともつかぬそれは、密かに意識と無意識の狭間へと忍び込み、男に夢を見させた。
夢の中で彼が
しかし、いくら眼を
唇はかすかに動いているが、自分の名前以外の言葉は聞き取れなかった。
やがてその姿は薄れ、消えてゆく。
いよいよ完全に消えるというとき、”危険”と相手が言ったのを、ようやく男の意識は捉えた。
(──危険? いったい何が? ……ああ、行ってしまう……)
「待……待って下さい!
────!」
男はみずからの上げた声に驚き、目覚めた。
揺らめきながら、常に闇を払っているはずの
静寂だけが空間を支配していた。
あの声の
男は胸の鼓動が静まるのを待ち、磨ぎ澄まされた聴覚で周囲を探ってみた。
しかし、何も耳には届かない。
「……夢、か……」
額の汗をぬぐって息をついた
「思い出せない──なぜだ?」
たった今、自分が口にしたばかりの言葉を、彼は忘れてしまっていたのだ。
(……どういうことだ?
私は確かに叫んだ。耳もそれを覚えている……なのに、思い出せないとは。
こんなことは初めてだ。
ひょっとして、夢魔の仕業だろうか?
この私の結界を貫いて夢を送り込める者など、そうはいまいが)
そう思ったものの、彼は急ぎ、周囲を探ってみた。
結界自体にも、やはり、異常は認められない。
(それに、先ほどの声には、邪悪なものはまったく感じられなかった。
……どこかで聞いた優しい声の調子、懐かしい響き……。
──ああ、一体、いつ、どこで聞いたのだろう……?)
いくら頭をひねってみても、まるで見当がつかない。
奇妙なことばかりだった。
考えあぐねてベッドの上に起き上がり、彼は天を仰いだ。
この男……サマエルは、一説には千年以上も生きているとも言われる、伝説の魔法使いだった。
“賢者”とも呼ばれる彼は、滅多に人前に出ることもなく、弟子の少女と共にひっそりと暮らしていた。
しかしそれは、表の顔に過ぎない。
闇を見通せる者が、もしここにいれば、普段は魔力で隠している彼の素顔を見ることができるだろう。
整った、若々しい高貴な顔立ち、銀、というより白に近い髪は長く、右の生え際に一筋、アメジスト色を帯びて見える部分がある。
……だが、そこまでならば、まだいい。
闇の中で燃え上がる紅色の瞳に、耳は尖って長く、背にはコウモリに酷似した暗黒の翼、額には、
ユニコーンめいた純白の角までが生え、一目で人間でないと分かるのだ。
彼の正体は、魔族──それも“夢魔”と呼ばれる種族の一人だった。
遥かな昔、魔界を追放同然に出て以来、彼は人界に居を構え、人間として暮らして来たのだった。
「もしかしたら、マトゥタ……
口に出してみたものの、彼は首を振った。
「……いや、感じは少し似ているが、やはり違う。
大体、あのひとは、すでに亡くなって久しい……。
それに、たとえ存命していたとしても、親しみを込めたあんな呼びかけ方はすまい。
だが、あの声はたしかに、私を、近しげに『ルキフェル』と呼んでいた……」
今も耳の奥に残る、不思議な声の響き、思い出せそうで思い出せないもどかしさ……。
(──知りたい……いや、知らねばならない、どうしても。
あの声の主を突き止めるためなら、何を捧げても構わない……!)
心の奥から突き上げて来る、そんな激しい思い……。
サマエルはおのれの心に戸惑い、深まっていく闇をじっと見つめた。
そうしていればいつか、声の持ち主の姿が現れて来るかも知れない、と思ってでもいるかのように。