~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

12.天界の使者再来(3)

しかし。
「貴様に答える義理も義務もない!」
何の躊躇ためらいもなく、タナトスはあっさりと切り捨てた。
「そう仰ると思っておりましたよ、タナトス殿。
……それでは、あなたはいかがでしょうか? サマエル殿」
天使は、最初から第一王子のことは諦めていたとみえて、すぐに第二王子に視線を移した。

「そんな質問は問題外だ、過去のことを思い出してみるがいい、とミカエルになら言ってやるところだが、
それでは、お前の立場がないか。
……ならば……そうだな、その答えは……この二人を実際に見たお前になら、分かるのではないか?」
サマエルは穏やかに言ったものの、天使の問いに直接には答えなかった。

「それがあなたの答え……ですか」
「これ以上は言えないね」
「……でしょうね」
特に気落ちした様子も見せずにセラフィはうなずき、考えた。

(“過去”とは、あけぼのの女神マトゥタとのことだな。
……そう、当時、すべての罪を独りでかぶって王位継承権を放棄し、追放にも等しい処分に甘んじたこのお人が、愚行を重ねるわけもない。
タナトスにしても、その気があるのなら、とっくの昔に実行に移していることだろう。
まったく、ミカエルにも困ったものだ。
あまりに手ひどく扱うと、大人しい羊でも時には噛みつくと言うことが、あやつにはまるで分かっていない。
……それはさて置き、これからどうするかだな。
こんな答えでは、ミカエルが満足するわけもなし……さりとて、辛い思い出を、皆の前でほじくり返すのも悪趣味だ……)

天使が思いあぐねていると、サマエルと眼が合った。
普段は漆黒のローブに隠されている、紅い魔眼。
何もかも見通すようなその眼に身震いすると同時に、セラフィは、彼の言いたいことに気づいた。

(……ああ、そうか。あなたは、ミカエルが納得するような理由を、自分で考え出せ、と言いたいのだな?
まあ、こちらの立場を考えてというよりも、今のこの状態で全面戦争に突入するのは、どう考えても、魔界に不利だからだろうが。
……そう、たしかにそれがベストだ。
彼らの面子も立ち、我らにとっても都合のいい解決法と言えば、今の場合それしかあるまい。
さすがは魔界屈指の策士とうたわれた“カオスの貴公子”。
……だが、天使長が気に入るような理屈か……なかなか難しいな……)

天使は、澄んだアクアマリンの瞳で、栗色と銀、二人の巻毛の少女に視線を据えてさらに考え込んだ。

しばらく経ってから、ようやく天使は口を開いた。
「分かりました。このお二人のことは、しばらく見守ることと致しましょう。
その代わり、あなた方も彼女達には手を出さないでください。
それから、“デス・クリエイト”の無断使用に関しましては、セリンとエレアとの件で相殺そうさい、貸し借りなし、というのはいかがですか?」

「ふん、貴様らごときの下知など受けんでも、初めから俺達は、ジルとイナンナを大事に扱っているぞ!
大体、魔界との取り決めを、熾天使ごときが独断で決められるのか?
あのたわけミカエルのことだ、貴様が勝手に決めて来たことだとゴネおって、誓約など反故ほごにするに違いない!」
タナトスの無慈悲な瞳の光は、まったく信用していないことを如実にょじつに物語っていた。
だが、天界の使者は、動じる気配もなかった。

「そのご心配は無用です。この件に関してわたくしは、天帝ゼデキア陛下より全権を委任されて参りました。
今回、我らは、事を荒立てるつもりはまったくないのですから。
それは、ミカエル様がこの場におられないことを見ても、お分かり頂けるかと存じます。
何しろ、あの方がいらしたら最後、収まるものも収まらなくなるのは必定ひつじょう
……ここだけの話、ケンカっぱやい天使と言うのも困りもので……。
まあ、魔界との全面戦争などという事態にでもなれば、ミカエル様ほど頼りになるお方もおりませんが……」

「本当に、しばらくは彼女達に手を出さないのだな?」
饒舌じょうぜつな天使をさえぎり、サマエルは冷静に念を押した。
セラフィは肯定こうていの身振りをした。

「天使はいつわりは申しません。
お二方はいまだ幼く、また、天界で暮らすには相当の覚悟が入り用です。
あなた方に会えないのはもちろん、二度と人界へも帰れないのですから。
そこで、わたくしは、少なくとも肉体が成人に達するまでは、今のまま人界で暮らす方が、彼女達のためだと判断致しました」
天界の使者の見解は、以前、サマエルが、ジルに関して下した結論と同じものだった。

「天帝陛下、並びに天使長様には、適当に報告しておきますよ。
『今は微妙な時期で、無理をさせれば少女の能力は、つぼみのまま枯れてしまうかも知れない、魔物達も、それを知っているので、彼女の資質が開花するまで手を出さずにいる。
従姉をそばに置くのは、警戒心を起こさせないためであると同時に、一人で逃げ出さぬよう、人質の意味も兼ねているようだ』……とか何とか。
ですから、あなた方もお控え下さるよう、重ねてお願い致します。
……このお二方のためにも、ね」
熾天使は、ジルとイナンナに微笑みかけた。
それは、心の内側から暖めてくれるような優しい微笑で、少女達も釣られて笑顔になる。

そんな二人の様子に、タナトスは腹立ちが余計につのった。
「よし、これで全部済んだな、さっさと帰れ! 目障りだ!!」
「おやおや、嫌われたものですねぇ。
あと一つだけ片づければ、帰りますよ、タナトス殿」
「貴様! まだ何かあるというのか!?」

「ええ、ちょっとこちらの方にもね。
お初にお目にかかります、“焔の眸”殿」
唐突に頭を下げられて、ダイアデムはびくりとした。
「げ、なんだよ。オレに何の用だってんだ」
その彼に、セラフィは賛美の視線を向けた。

「噂にたがわぬお美しさですね……。
わたくしが、あなたにお会いしたと知れば、天界の者達は皆、うらやましさに地団太じだんだを踏みますよ」
「……はん、何、きしょいコト言ってやがる。
なんで、神どもが、羨ましがらなきゃなんねーんだ?」
「おや、ご存じなかったのですが? 天界人の間でも、あなたのお美しさは評判なのですよ。
皆、一目見てみたいと噂して……」

「貴様、ジルを諦めたと思ったら、今度は魔界の至宝を狙っているのか!」
タナトスは、またも天使に詰め寄ろうとする。
天使は、なだめるように首を振った。
「いえいえ、決してそのような」
「落ち着け、タナトス。セラフィ、お前も脱線し過ぎだよ。早く話を進めてくれないかな」
サマエルは間に入り、双方に釘を刺す。

「申し訳ありません、つい。あなた方と話していると、楽しくてね」
熾天使は笑顔のまま、ダイアデムに向き合った。
「さて、用件とは、天帝陛下のご伝言をあなたに伝えることです。
『“王の杖”よ、今回は、大人しくしていたようで、何より。
お前が暴れると、天界、人界、双方に迷惑がかかる、今後も慎むように』、とのことです」

ダイアデムは、ぽかんと口を開けた。
「何だぁ、そりゃ? あのジジイ、ボケてんじゃねーのか?
オレは魔族だぜ。天界のくたばり損ないに指図されるいわれなんざ、ねーぞ」
「あなたの仰る通りですよ、ダイアデム殿。
偉大なる天界の支配者も、寄る年波には勝てず、とうとう焼きが回り始めた、といったところでしょうかね、……くく」
天使はふくみ笑いを漏らし、紅毛の少年は眼を丸くした。

「……おいおい、お前、天使だろ。ンなコト言って大丈夫なんか?」
「ええ。この異界は、天界とは位相いそうがずれ過ぎていて、今ここで何を話していても、あちらには聞こえやしません。
ですが、この辺でやめておきましょう、わたしも命は惜しいですからね。
では、天帝陛下のご伝言、しかとお伝え致しましたよ」
「ああ、分かった。おめーも、バカな主人持って大変だなぁ。同情するぜ」

「お気づかい、痛み入ります。
ところで、ダイアデム殿、こんな言い伝えをご存知ですか?
“──白き闇をはらうは龍の双子。
彼らの力は光と闇、聖なるものと邪悪なるもの、どちらが欠けても道は開けぬ──”」
「そりゃあ魔界の言い伝えじゃねーか。何でそれを、お前が知ってるんだ!?」
宝石の化身は、またも眼を見開き、瞳の炎が激しく揺らいだ。

それには答えずに、熾天使は続ける。
「ところで、最近、天界にて発見された石碑にも、似たような言葉が彫り込まれておりましてね。
“──光と闇は双子、車の両輪。光なくして闇はなく、闇の深さが光を強める。
白きわざわいが降りかかるとき、彼らは光をもたらす者となる──”と。
さて、サマエル殿は、どうお考えになりますか?」
セラフィは、今度は魔界の第二王子に目線を向けた。

「……ずいぶん漠然ばくぜんとした文章だね。
天界では、どう受け取られているのかな?」
どうでもよさそうに答えたものの、サマエルの眼は、興味深げな光を帯びていた。
「古代の遺物いぶつに書かれたことなど、誰も気に留めておりませんよ。
ことにミカエル様などは、頭から馬鹿にして、意味のない戯言たわごとだと断言なさっておいでです」

(……とは言え、一応、外へ漏らすことは禁じられているのだが。
サマエル、これはあなたへの、ちょっとしたお礼というわけさ。
我々も、魔界との本格的な戦闘は、出来るなら先伸ばししたい、と言うのが本音だし。
……あのいくさ馬鹿のミカエルが、どうえようと……)
「なるほどね」
そんなセラフィの考えを読んだように、弟王子の魔眼が妖しく光る。

「でもよー、うまいことやったよなぁ、セリンのヤツ~」
ダイアデムは、不服そうに口を尖らせた。
「ええ、魔界の方々には、かなり不満の残る裁定だと存じます。
ですが、私見しけんとして申し上げておきますと、わたくしは、セリンの立場を(うらや)む気持ちにはなれませんよ。
彼は、なかなか見目麗みめうるわしいですからね……おまけに、エレアのこともありますし。
女性を天界に連れていく場合、通例として女神の地位を与えるのですが、彼女はそうではない……つまり、エレアは実質的には、人質に等しいのではないか……とね」

「ええ?」
思わず見上げる宝石の精霊に微笑んで見せ、天界の使者は、皆に向き直った。
「さて、これで、わたくしの役目はすべて終わりました。これにて失礼致します。
ジルさん、イナンナさん、お二人の未来が光に満ちあふれていますように。
では皆様、またお目にかかる時まで」
熾天使は優雅にお辞儀をし、来たときと同様、空からの光に吸い込まれて見えなくなった。

「……どういう意味だよ、セリンは美形だから、うらやましくねーとか、エレアが人質、って?
それによ、あいつ、あの言い伝えのこと、何で知ってたんだろ。
しかも、似たようなのが天界にもあるなんて、わざわざ教えて……」
ダイアデムが小首をかしげると、タナトスがつぶやいた。
「貴様は、ダシに使われただけだ。……天使流の、礼のつもりなのだろうさ」
先ほど、セラフィとサマエルの間に、声に出さないやりとりがあったのに気づいていたのは、彼だけだった。

「へ? 何だって? どーゆー意味だ? それ……」
訊き返すダイアデムにはもう取り合わず、タナトスは弟に言った。
「おい、サマエル。ヤツら、本当にジルを諦めたと思うか」
「我らにならともかく、天使が人間に嘘をついたなどということになったら、信用にかかわるだろう。
ヤツらは、名目上とはいえ、人族の守護をもって任じているのだからね。
……にしても、天使が皆、彼のように物分かりがいいと、話が早くて助かるのだが。そう思わないか?」

「ふん! 神族など、どいつもこいつも信用できるか!」
「それはともかく、もうここには用はない、人界に戻った方がよさそうだね」
「まったくだな、長居は無用だ!」
「「──ムーヴ!」」
合図でもしたかのように、魔族の兄弟は同時に全員を結界で包み、一瞬で祠に移動させた。

「それがしが、回廊の安全を確認して参ります、タナトス様」
「ああ」
老公爵が魔法陣に乗り込み、消えたと見るや、直後、その姿は再び現れた。
「特に異常はございませぬ、お乗り下さいませ」

「よし、皆の者。帰るぞ!
さ、ジル、イナンナ、行こう」
タナトスの号令一下、彼を筆頭に少女達とダイアデムが乗り込み、続いて残りの魔族達も円陣の中に入っていく。

「お師匠様、早く乗って!」
「念のため、もう一度見て来る、先に行っていてくれ」
そう言い置いて、サマエルは独り、祠を出た。

目の前には、天界の使者に呼び出された緑が、どこまでも広がっている。
気の早い若木が、大きく枝を伸ばし始めているところもあった。
サマエルは意識を集中させ、邪悪な気配がないか探った。
だが、聞こえて来るのは、植物が葉を広げ茎を伸ばす、密やかな音だけだった。