12.天界の使者再来(1)
「……終わった、みたいね?」
ようやく、エレア天使から解放されたジルは、その場にぺたんと座り込んだ。
「ジル、大丈夫か!」
「ジル!」
「ジル様!」
「ジル、わけの分からないものに取り憑つかれたりして、大丈夫なの!?」
「うん、ありがと、皆。心配かけたけど、あたしは全然平気……」
──ぐー。
「……あ……!」
駆け寄って来る人々に答えた途端、腹の虫が大きく鳴いてしまい、少女は頬をりんごのように紅く染めた。
「や、やだ、こんなときに……」
「まったくもう! あんたってコは……!」
イナンナは、とことんあきれたと言った顔をした。
「あっはっはっは! さすがはジル、俺の妃になる娘だ、大物だな!」
安堵の気分が広がる中、プロケルだけは皆の笑いには加わらず、ジルの前に片膝をつき、深く
「ジル様、ご無事で何よりでございました。
それがしめの気の緩みから、かような目にお遭わせいたしてしまいましたこと、
それを聞いた人族の少女は、栗色の大きな眼をぱちくりさせた。
「え……なに、急にどうしたの、プロケルさん。
なんで、あたしがさらわれたのが、あなたのせいになっちゃうわけ?」
「い、いや、それはですな……」
「よく分かんないけど、ほら、あたしはこうしてピンピンしてるじゃない。
お師匠様も、プロケルさんも悪くないわ、あの、テネ……何だかってヒトが悪いんでしょ。
──ね? さあ、立って。これからもよろしくね」
「……ありがたき幸せ、こちらこそ、よろしくお願い申し上げます……」
魔界公は琥珀色の猫眼をうるませ、差し出された少女の、か細い手を取った。
「だから、やめてってば。あたし、そういうの、ニガ手なの」
「おい、タナトス、すっげーな、あの娘……。
“焔の眸”に耳元でささやかれ、魔族の王子は、我が事のように胸を張った。
「当然だ、この俺が、妃にと選んだのだからな」
「あれじゃあ、セリンなんかが束になってかかったって、勝ち目ないよなー、マジで。
まあ、万が一、あの女がやられてたら、お前かサマエルが、この異界ごとぶっ飛ばしてただろーけど!
でもさぁ……セリンのヤツも、悪運が強いってゆーか?
いっくら操られてただけってゆっても、あんなとんでもねーことやっといて、簡単に許されて天界行って、のーのーと暮らせるなんざ……そんなのあり~? ってカンジだよなぁ」
「……ふん。
聞くところによると、天界では、人口抑制の効き過ぎとかで、年寄りばかりが増えているらしいからな。
どんなカスだろうと、若くて生きがいいのが欲しいのだろうさ」
「お前の思い違いだよ、ダイアデム」
その時、二人の会話が耳に入ったのだろう、サマエルが声を掛けて来た。
「えっ、……何?」
紅毛の少年は、思わず一、二歩後ずさる。
「もし、ジルに何かあったとしても、異界ごと破壊なんて、そんな野蛮なことはしないから、安心していいよ」
そう話す紅い唇には、微笑みが浮かび、口調も優しいとさえ言えるほどだった。
だが、フードに隠された表情──暗い闇の炎が、ちろちろと燃え上がる紅い瞳──が見えてしまった宝石の化身の背筋には、ぞっと冷たいものが走り……。
(う、うわ……やべー……)
彼は、魔界の王子の
「こ、怖えー!」
「な、何をする、このたわけが、離せ!」
タナトスを巻き添えにして、一目散にダイアデムはその場を逃げ出した。
そのまま、全速力で駆け続け、かなり距離を稼いだ頃には、唇まで青くなっていた。
「……まったく。どうしたというのだ、貴様」
引きずられるようにして一緒に走る羽目になり、不機嫌な表情の第一王子の陰に隠れ、紅毛の少年は今来た方角を
「や、やっぱ……ダメだ、オ。オレ、あいつ、ちょー怖えぇ……。
なんで、あの猫なんかは、あんな無邪気にまとわりいついていられるんだ?
鈍いヤツらはいいよなー、ホント」
「貴様、何を震えている? ……分からんな、まったく。あんな軟弱者の、どこが恐いというのだ?」
言いながら、タナトスは、宝石の化身の視線を眼で追った。
当のサマエルは、イナンナと楽しそうに話しこむジルの隣にひざまずき、カッツの頭を優しくなでていて、白い猫魔は安心し切った様子で、彼に身を任せていた。
「……ふん。鈍いとは少し違う気がするがな。ヤツはサマエルを信頼し、心を許しているのだろう」
「し、信頼だってぇ? あんなアブねーヤツをか!?」
眼をまん丸にした少年に、魔族の王子は肩をすくめて見せた。
「まあ、貴様が、サマエルを警戒する気持ちもわからんではないか。
ヤツの“カオスの力”は、いったん解放されてしまえば、制御不能だからな。
貴様の言う通り、ジルに何かあったとしたら、おそらくヤツは力を暴発させ、セリンを異界ごと消滅させていただろう。
それでも、だ。ここにいる全員を、逃がしてからやったと、俺は思うぞ」
「……は? 何でだよ。どうしてザコどものことまで気にかけるんだ?」
“焔の眸”の化身は、きょとんとした顔で彼を見上げる。
「それはだな…サマエルの方も、ヤツらに信頼されていることをよく知っているからだ」
「……? ……よく分かんねー」
「つまりだ、サマエルは他人からの信頼を裏切るようなマネはせんのだ、正気でいるときにはな」
「え……そ、そう……かぁ……?」
「ああ。魔界では裏切りなど日常茶飯時だが、あいつは人界に住んで久しい。
俺も最近分かったことだが、人界では、”信頼”と言うヤツが特に大切とされているようでな。
それに、貴様も知っているだろう、ヤツは俺と違い、普段は腹立たしいほど冷静だ。
多少気に食わん言動をしたからと言って、危害を加えられる恐れはないぞ。
この前、あいつの屋敷で爆発しかけたときは、俺がやり過ぎただけだ」
いつもの気の短さは影をひそめて、タナトスは辛抱強く宝石の化身に説明を続けた。
ジルを無事取り戻した今、彼の苛立たしい気分はとっくに
だが、そんなこととは知らないダイアデムは、頭の後ろで手を組み、生意気そうに、あごを突き出した。
「ホントかよ、ソレ? あんな、バクダンみてーなヤツを信用するなんざ、オレにゃ、頭がどーかしてるとしか思えねーけどな。
……ま、石のオレにゃ、お前らナマモノの精神状態ってのは、どーしたって計り知れねーんだけど……」
「まあ、そんなことはどうでもいい、戻るぞ」
「あ、行くなよ、タナトス。
お前、あいつが嫌いなんだろ、このまんまでいよーぜ」
歩きかけた王子はマントを引かれて立ち止まり、少年の顔を覗き込んだ。
「おい、ダイアデム。言ったはずだぞ、ヤツは、ちょっとやそっとでキレはせんと。
貴様、俺が信用出来んのか」
「へん」
“焔の眸”はそっぽを向いた。
「てめーのことなんざ、誰が信じられっか」
「何だと、次期の魔界王になる、つまりこれから貴様の主人になる俺を、信用出来んと言うのか!」
すると、紅毛の少年は、反抗的にタナトスを睨み返した。
「けっ! 次期の魔界王だぁ? てめー、天界のこと笑ってられんのかよ!
今の魔界にだって、マトモなヤツなんかいやしねーから、多少脳たりんでも、ちったぁマシか、ってカンジのてめーを、しょーがねーから、王にしなきゃなんねーだけだろが!
大体だなぁ、野蛮で戦闘バカ、魔力だけ男の、どこを信じろってゆーんだよ!?」
そう言い放ちながらも、ダイアデムの左手は、マントの端をしっかりつかんだままだった。
しかし、宝石の化身同様、相手の真意に気づかないタナトスは、少年の暴言に怒り心頭に発していた。
「なっ、何だと! き、貴様、言わせておけば! 壊してやるぞ!」
「はは~ん、そんなに怒るところを見りゃ、図星かなぁ、タナトスちゃん?」
「貴様ぁ~!」
「タナトス様、おケガはございませんでしたか……?」
その時だった。突然女性の声がかかったのだ。
「は……?」
「……む?」
怒鳴り合っていた二人は、一瞬凍りつき、それから同時に声の方向に顔を向けた。
銀の巻毛に深い緑の眼をした美少女が、そこに立っていた。
輝くような姿が眼に飛び込んで来た刹那、ダイアデムはなぜか胸が苦しくなり、反射的にタナトスの後ろに隠れてしまった。
「ああ、イナンナ、キミか」
「あの……おケガは……?」
「ケガ? ああ…無傷とは言えないが、大したことはないな」
「あっ、大変、お顔に血がついて!」
「む? ああ、大丈夫だ、こんな傷……」
言いかける王子の頬を、白いレースのハンカチでぬぐい、イナンナはそっと薬を塗る。
「痛っ」
「ごめんなさい、痛みますか?」
「いや、大したことはない」
「他におケガは……?」
「特にないな」
磨き抜かれた緑柱石の輝きを瞳に宿し、心配そうにタナトスを見つめる少女の瞳にダイアデムは魅せられ、象牙細工のような手で、今度は自分に触れて欲しい…そう願わずにはいられなくなった。
「……でも、もう無理だよな、きっと……。散々あんなこと言っといて……」
タナトスの後ろで、小さくつぶやく。
そこで初めて、イナンナは彼の存在に気づいた。
「あら、あなた、いたの?」
(……いたの……は、ねーだろ)
自分から隠れたというのに落胆し、それでも、諦め切れずに、彼は勇を
「な、なあ……オレにも……薬、塗ってくれないか、な?」
「えっ、あなたもケガを?」
イナンナは、素早く少年を観察したが、すぐに形のいい眉をひそめて、突き放すように言った。
「どこに傷があるの、ピンピンしてるじゃない!」
(ちぇっ……)
宝石の化身は密かに舌打ちすると、魔界の王子に念話を送った。
“おい、タナトス、何、にやにやしてやがんだよ。
約束、忘れたんじゃねーだろーな、ええ?”
“……そうだったな”
唇を
「……あー、イナンナ。今度、魔界へ遊びに来てみないか。
俺の城の中を見て回るだけでも、退屈はせんと思うぞ」
瞳の深緑の輝きが一段と強くなり、イナンナは舞い上がりそうになった。
「タ、タナトス様のお城に!?
ほ、本当によろしいんですか、わ、わたしがお邪魔しても!?」
(ジルと同じくらい、くるくるとよく表情の変わる娘だな……これも血筋か?)
タナトスはそう思いながら、答えた。
「では、近いうちに。……もう、俺はいいから、ジルを見てやってくれ」
「はい!」
少女は頬をバラ色に染めてうなずき、夢見るような足取りで戻って行く。
「これでいいんだな? 約束は果たしたぞ」
振り向いた魔界の王子は、面食らった。
浮き浮きしているとばかり思っていた宝石の化身が、逆に意気消沈していたのだ。
「……? どうしたのだ?」
「……見込み薄そーだなー。彼女、お前のことしか、見えてねーんだもん……」
「イナンナは、俺を信頼してくれているからな」
タナトスは、唇をさらに
「そしてお前もイナンナを、ってわけか……? ふうん……。
でも……なーんか、ちっと違うような気もするケドなぁ……?」
“それでは、余計混乱させてしまうと思うぞ、タナトス”
第一王子が答える手間をはぶいて肩をすくめたとき、聞き覚えのある声が、静かに心にすべり込んで来た。
“黙れ、サマエル! こんな若年寄りに、一々教えてなどいられるか!”
タナトスは、弟に不機嫌な思念をぶつけた。
イナンナのことは何とも思っていないくせに、おのれを好いてくれる女性ということだけで、他の男には取られたくないと、タナトスは思っていたのだ。
たとえ、その相手が、気に入りの宝石の化身だとしても。
それは、小さな子供が、使わなくなった
“……やれやれ、相変わらずだ……”
長年の付き合いで、兄の思考が手に取るように読めるサマエルの思念は、ため息めいていた。
“そんなことより、エレアという女性は、やはり天界の者だったな。
いくら、ここが異界と言っても、『デス・クリエイト』など使えば、気づかれて当然だ。
それを考慮に入れなかったのか”
“ふん、俺に説教する気か。貴様、いつからそれほど偉くなったのだ!”
“……説教? そんな無駄なことに費やす時間はないよ。
あれこれ言ったところで、今さら、お前の歪んだ性格が直るわけもないからな。
この後出て来るはずの、大物への対処法を考えている方が、よほど建設的だ”
“ちっ、貴様、ケンカを売っているのか!
あの大たわけ者のミカエルが来るなら、来いだ! 受けて立ってやる!”
“そう熱くなるな。天界の出方を冷静に見極めなければ。
お前も私も、もはや魔力はほどんど残っていないし、援軍を要請したところで、『異境祠』はまだ不安定だ。
いちどきに大量の兵士は送り込めないだろう。今のところは、我らで何とかする外はない”
「ふん……」
「プロケル、ジルを回復してやってくれ」
今度は口に出して、サマエルは言った。
「かしこまりました。セリンも消えたことですし、治癒魔法も効くでしょう。
……ジル様の次は、お二方にも必要のようですな」
プロケルが呪文を唱えようとした、その刹那。
「その必要はございませんよ、魔界の方」
穏やかな声と共に、天空から、いく筋もの暖かい光が、木漏れ日のように差し込んで来たのだ。