~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

11.貴石を帯びし者の最期(4)

急ぎ振り返ったタナトスの眼に、おのれが愛し、ぜひ妃にと望んでやまない人間の少女が映った。
「……ジル? 今の声はキミか?」
すると少女は首を横に振った。
『いいえ、違います、タナトス殿。わたくしは、ジルさんではなく、セリンの妹で、エレアと申します』

「セリンの……妹? エレアだと!? 一体どうなっているのだ、ジル?」
魔族の王子は、面食らい、少女の顔をまじまじと見つめた。
元気な栗色の眼に、やはり栗色の巻毛。
外見は常とまったく変わらないというのに、その口からは、まるで異なる別人の声が発せられるのだから。

「面目、ない、タナトス。してやられた……」
その時、彼女の後ろから、サマエルがよろめきながら歩み寄って来た。
青ざめている弟の胸倉を、タナトスは、わしづかみにした。
「貴様、ジルに何をした!?」

「彼女は、その女性に憑依ひょうい……されてしまったのだ……引き離そうと、試みたのだが……。
それでも、心配はいらない……と思う。おそらく、彼女は……」
「憑依だとぉ!? 何が心配いらんだ、このたわけめが!
貴様がいながら、なぜ得体の知れん者に取りかせたりしたのだ!」
言いながら、魔族の第一王子は、第二王子を激しく揺さぶる。

『おやめ下さい、タナトス殿。サマエル殿に責任はありません』
ジルの姿をした未知の女は、二人の間に割って入った。
「ジル……ではないのだったな、では貴様、一体、何者だ!?」
タナトスは、けわしい瞳で謎の女を見据えた。

その問いには答えず、彼女は言った。
『わたくしはただ、兄が、魔物のままで死んでいくのを見るに忍びず、ここに参ったのです。
お願いです、その心臓を兄に返して下さいませ。
そうしたら、すぐに、ジルさんの体はお返し出来ます……』

「ンなコトしたら、まぁた復活すんだろ。しぶといもんねぇ、このオッサン!」
魔界の至宝、ダイアデムが口を挟み、主人格のタナトスもうなずいた。
「こいつの言う通りだ。そんなマネは絶対出来ん、危険過ぎる!」
『いいえ、そんなことはありません。
それを返して頂ければ、兄は、良心を取り戻せます。人間として死んでいけるのです。
……お願いですから──!』
祈るように指を組み合わせ、女性は必死に哀願する。
「貴様は信用できん。これは壊す」
対する魔王子の返事は、いつも通り、そっけないものだった。

エレアの瞳に、決然とした光が宿る。
『……ならば仕方がありません。ジルさんの体は、わたくしがこのまま、頂きますわ』
「な、何だと、貴様っ!」
大声を上げたものの、ジルの肉体をまとった相手を、彼はどうすることも出来ない。

「冷静になれ、タナトス。ジルが人質にされているようなものなのだぞ」
「黙れ、サマエル! 貴様ごときに言われんでも分かっている!
大体、貴様が役立たずだから、こんな羽目に……!」
魔族の兄弟が、再び争いを始めそうになったとき。
「待って、二人とも!」
今度こそ、聞き違えようもない、本来のジルの声が響いた。

「い、今のは……ジル、キミだな、そうだろう!」
「うん、あたしよ、タナトス。
──ね、この子はウソついてないわ。あたしには分かるの、だから信じてあげて!
この子を信じられないって言うんだったら、あたしを信じて、お願い!」
「と、唐突に、そんなことを言われてもだな……」

困惑した魔界の第一王子は、人族の少女を凝視した。
きつい緋色の眼と、明るい茶色の眼がからみ合う。

(……こいつは……!)
ジルを覆う特殊なオーラ、そしてその澄んだ瞳を覗き込んだ瞬間、彼は憑依した者の正体を見破った。
(くそっ、腹立たしいが、今はジルの安全が最優先だ、致し方あるまい)

「分かった、受け取るがいい、ジル」
「ありがとう、タナトス!」
「お、おい、いいのかよぉ、ンなコトして……なあ……!」
ダイアデムは上目遣いに、栗毛の少女と兄王子、そして弟王子を交互に見た。
「仕方がないよ。この状態では、ジルが人質になっているも同然なのだから。
手は出せない、分かるだろう? “焔の眸”」

「う、うん……そ、そりゃまあそーだけどよ、サマエル」
幾分腰が引けた様子で、ダイアデムは続けた。
「んでも、たかが人族の小娘一匹のために、敵に手を貸すなんてさぁ……」
「うるさい! 壊されたくなかったら黙っていろ、“焔の眸”!」
「ちぇ、……」
タナトスに睨みつけられ、宝石の化身は渋々口をつぐむ。

その間に少女はセリンに駆け寄り、ダイアデムが開けた胸の穴に、心臓を収めた。
金の光は穴に吸い込まれるように消滅したが、魔法使いはぴくりとも動かない。
「なーんだ、反応ないじゃん。もう手遅れだったんじゃねーの?
ま、その方が……うわ!」
言いかけたダイアデムの言葉をさえぎるように、セリンの全身から黄金の光がほとばしった。

光が消えたとき、そこにいたのは、人間の姿をしたセリンだった。
胸に開いていた穴は、完全にふさがっている。
そうして、ついに“黯黒の眸”が、不吉な黒い姿を現して浮き上がり、ゆっくりと胸の上で回転していた。

『お兄様、お兄様!』
「う、う、あ……エ、レア……?
ここは……わたし、は……?」
エレアに揺さぶられ、正気づいた真実のセリンは、先刻までとは、何もかもが異なっていた。
まだ二十歳にも至っていない若さで、あけぼのの輝きを宿す黄金の髪と、夕日が沈んだ後に残る黄昏たそがれにも似た紫水晶アメジストの瞳を持ち、王族にふさわしい高貴な顔立ちをしている。
無論、頭に角などは生えてはいなかった。

「……ほう。こいつが、本当のセリンか。ありきたりの人族の男……だな」
魔族の第一王子は、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、ホント、きっとバカだよなー。
このマヌケは、意識を乗っ取られて、今まで、ず~っと操られてたんだぜ。
心ん中の憎しみがでっかくなり過ぎて、そこにつけ込まれたのさ」
そう言うと、ダイアデムは、闇色の宝石に、ずいっと顔を近づけた。

「やい、“テネブレ”、なにバックレてんだ! 
生物ナマモノをオモチャにすんのはたしかに面白いけどさ、もうバレバレなんだよ!
いい加減に正体現わしな!」
勢いよく指を突きつけられた魔界の至宝から、黒い霧状のものが、もやもやと立ち昇り始める。

“裏切ったな、おぬし! 何ゆえ、我の邪魔をする”
その霧が固形化したとき、現れた姿や声は、先ほどまでの魔物めいたセリンとすっかり同じだった。
“焔の眸”の化身、ダイアデムは、鼻にぎゅっとしわを寄せた。
瞳を嫌悪に暗く光らせ、“闇”という名を持つ兄弟石……“黯黒の眸”の化身、テネブレに鋭い視線を向ける。

「裏切っただとぉ? このオレが、いつ、お前の味方になったんだよっ!!
いくら兄弟だからって、お前と一緒にされてたまるもんか!」
”ふん、我こそ、好き好んで、おぬしの兄弟をやっておるわけではないぞ。
まあよいわ。我も、久しぶりに楽しく暇がつぶせたし、ここらでお開きといくか。
さらばだ諸君。再び我が退屈した暁には遊んでやるゆえ、それまで息災そくさいでおれ!
──ムーヴ!”
“黯黒の眸”は空中に浮き上がり、ふいっと姿を消した。

ジルは、テネブレの消えた辺りに向かって、小さな拳を振り上げた。
「あ……あたし達を使って、ヒマつぶししてたっていうの!? 許せないわ!
今度出て来たら、あたしが、こてんぱんにやっつけちゃうからねっ!」

「エレアが、キミの、体を……借りたくなるのも、無理はない……キミは、妹に、そっくりなんだ……特に、その、かげりのない瞳が……。
あ、操られて、いたとき、のことは、うっすらと、覚えている……。
キミだけ、でなく……人間すべてと、魔族にまで、迷惑を、かけてしまって……。
申し訳ない……今さら、許して、もらえるとも、思わないが……う、ううっ……」
“黯黒の眸”から解放されたセリンの体は、徐々に石へと変わり始めていた。

苦痛に歯を食いしばる彼の手を優しくにぎり、ジルは言った。
「しっかりして。皆、あいつが悪いんだから、気にすることないわ」
「くうっ……。これも自業自得……わたしの憎しみと絶望が、“黯黒の眸”を呼び寄せたせいだ……」
「誰をそんなに憎んだの? なぜ、絶望したの? 
エレアの心には、燃え盛る炎の記憶があったけど、それと関係があるの?」
思わず、ジルは訊いていた。

「かつて、わたしは……“トリニタス”中、一番の大国……“ジューエル”の王子だった……。
……あるとき、叔父達が、結託して謀反むほんを起こし……父王と、母……エレアまでも、手にかけ……わたしも、斬られ……王子宮には、火が放たれた……。
じ、重傷を……負った、わたしは……侍女、の機転で、やっとの思い……で、逃げ延び……そ、して……意識を、取り戻した、ときには……叔父の、一人が、もう、お、王位に……いて、いて……」
徐々に石化が進む中、セリンは、必死の面持ちで話し続ける。

「生死の境を、さ迷い、ながら……絶望と、叔父達への、憎しみで……気が……く、狂いそうに、なって……その、とき……あ、あいつが、目の前に、現れ……み、見る間に、傷を()し……け、契約を、結ぼうと……持ちかけて、来て……。
あ、“黯黒(あんこく)(ひとみ)”を、利用し……王位を、と、取り返す、つもりが……いつの、間にか、傀儡かいらいにされ、い、一万年もの時、を超えて……わ、たしは……生き続けて、来た……のだよ」

「そうだったの……」
いつもは無邪気なジルの栗色の瞳が、やり場のない悲しみにうるんでいく。
「……ああ、苦しい……。
エレア……連れて、行って、くれ……いや、一緒には、行け、ないな……。
わ、たしの、行く先は、地獄……だろうから……」

その刹那、ジルの表情は、エレアのものとなった。
『いいえ、そんなことはありませんわ。お兄様は、最後に一つ、良いことをなさったのですから。
これをご覧下さい』
皆の視線が、一斉にエレアに注がれる。
彼女が手にしていたのは、根ごと掘り取られた小さな純白の花だった。

『これは、お兄様が“デス・クリエイト”から護ったお花ですわ』
「ま、まもった……? わたし、が……?」
『そうです。あの時、足元に咲いていたこのお花を、お兄様はかばわれたのです。
ご自分のことは構わずに、お花の周囲にだけ結界を張って』

「……ああ、そうだ……思い出した……。
なぜか、とっさに……護らなければと……思って……」
『わたくしが、白い色のお花が好きだったことを、“黯黒の眸”に操られていても、覚えていて下さったのですね。
天使長様も、この森を、悪魔の呪いから護った功績をお認め下さり、わたくしと共に天界へと……』

「何だと? それでは魔族はまた、悪役を押しつけられるわけか? 
俺達はただ、売られたケンカを勝っただけだぞ!」
不満気に話をさえぎったタナトスは、エレアの訴えるような眼差しに合うと、肩をすくめた。
「……ふん、どうせ俺は魔界の王になる身、あと一つや二つ罪状が増えたところで、どうということもない。
好きにするがいいさ」
『すみません……』

「ははっ、貧乏クジ引いたなぁ、タナトス。
でも、お前、ホントーに、この女に弱いんだなー」
「うるさい! 黙っていろと言っただろうが!」
鼻で笑ったダイアデムの頭に、タナトスの拳固げんこが飛んだ。
「──痛ってぇ! もー、すぐ殴るんだから、この野蛮やばん人!」
「黙れ! 大人しくせんと、杖に戻すぞ!」
「……分かったよぉ」
頭を押さえながら、涙目で紅毛の少年は引き下がる。

魔界の貴族達のそんなやりとりには眼もくれず、エレアは、兄のかたわらに白い花を移植していた。
『この花をわたくしの手で植えれば、“デス・クリエイト”の呪いは解け、ここが数万年もの間、不毛の地のままと言うことはなくなると、天使長様は仰っておいででした』

「本当に……わたしのような者が……天界へ行けるというのか、エレア……?」
兄の懐疑かいぎに、妹は、輝くような微笑みで応える。
『はい、お兄様。行きましょう、わたくしと共に!
ジルさん、タナトス殿、サマエル殿、ありがとうございました。
……永遠の感謝を、あなた方に』

その言葉が終わるや否や、ジルとセリンの体から何かが抜け出ていく気配がし、至福の笑みを浮かべて横たわるセリンは、完全に石と化した。
直後、石像の胸に大きく亀裂が入ったかと思うと、ガラガラと音を立てて崩れ、さらに細かいチリと化して空中に舞い上がり、風にさらわれ消えていった。

ジルたちはそれを見守り、しばしの間、黙祷もくとうささげるかのように、声を出す者もいなかった。
……あのダイアデムでさえ。

エレアが植えた白い小さな花だけが、ぽつんと一つ残り、淋し気に風に吹かれていた。