10.対決(2)
(くそぉ、サマエルめ! あんな程度のケガで気絶するような玉か!
絶対、わざと女の同情を買ってやがるのだ、昔から、そういうことだけ、うまいのだからな!)
ジル達の様子を横目で見ながら、タナトスは今すぐ駆け戻り、弟を思い切り殴ってやりたい衝動に駆られた。
だが、戦いの場で、敵に後ろを見せるわけにはいかない。
そんな彼に、セリンは
「ハッハッハ、タナトス、もてる弟を持つと大変だな、こんな調子で今まで幾人、女を横取りされて来たのだ?」
「うるさいっ! 貴様には関係ないだろうが!」
カチンときた魔界の王子が怒鳴り返すと、黒衣の魔法使いは、不意に真顔になった。
「されど、まことに不思議な娘よ……。
初めは、おぬしらが惹きつけられるも当然と思うていた。
悪魔にとり、汚れなき
なれど、サマエルは、命を賭してその娘を守ろうとした。その娘もまた……。何ゆえだ……?」
「ふん! 貴様には分かるまい、それこそ、何万年かかろうとな。
俺も、ジルを守るためなら命を賭けるぞ! 貴様ごときには絶対渡さん!」
「よかろう、それは娘を手に入れてのち、ゆるりと考えることとしよう。
──ユーメニデス!」
漆黒の杖から、多量の紅い人魂が飛び出し、激しく旋回しながらタナトスに迫る。
「ふん、何だ、そんなもの。
──セイブルヴェイル!」
魔界の王子は自信満々に唱えたが、次の瞬間、おのれの眼を疑った。
数々の攻撃魔法を跳ね返して来た呪文が、なぜか今はまったく効かず、人魂は奇声を上げ、彼に飛びついて来たのだ。
「何っ!?」
焦ったタナトスは“王の杖”で打ち払うが、全部は払い切れない。
直撃はさけたものの、一つが頬をかすめて浅い傷を作り、鮮やかな血が一筋、滴り落ちた。
「ふっ……やるな」
タナトスは親指の先で
血は、海のように塩辛い味がした。
“うっへぇ~、どーせ迫られるんなら、べっぴんのねーちゃんがいいよな!”
ダイアデムが
その人魂は、
しかも、よけても殴ってもしつこく付きまとい、攻撃して来る。
「ええい、うっとうしい!
魔界の王子タナトスの名に於いて命ず、
──リペル!」
タナトスは唱え、人魂の大群を一瞬で消滅させた。
セリンは、奈落の底へ通ずる深い裂け目にも似た口で、にたりと笑った。
「……おぬしとも、なかなか楽しめそうだな、タナトス。
やはり、すぐに殺してしまっては詰まらぬ。
一万年もの長きに渡る、我の
そして、おぬしらが済んだら、次は、いよいよ魔界だ。
我が支配し君臨するさまを、地獄の最下層より、指をくわえて見ておるがいよいぞ!
──闇よ、世界を覆い尽くし、すべてを暗黒に塗りつぶせ、
──デジャスター──!」
呪文に応えて、頭上に黒い雲の渦が現れたと見るや、たちまちにして空を覆い尽くし、同時に雷鳴が
暗い空を
「──インスニア!」
「うわっ!」
「地震!?」
立っていられないほどの揺れに、皆がよろめいた途端、足元の地面がぱっくりと裂けた。
タナトスは、反射的に翼で飛び立って難を逃れ、プロケルも、直ちに結界球を浮上させる。
「タナトス様、我らは祠まで退却致します!」
「そうはいかぬ! ショウには見物人が必要だからな。
──オマナス・カーズ!」
セリンが叫ぶと、結界球は引きずられるように地上にたたきつけられ、その後は、プロケルがいくら念じても、動くことが出来なくなってしまった。
「く、駄目です、移動出来ませぬ、タナトス様!」
「心配するな、プロケル! セリン、貴様の相手は俺だ!
──スターバーン!」
その隙を突き、タナトスが攻撃を仕掛けた。
しかし、黒の魔法使いは杖を高く掲げ、“黯黒の眸”に魔力を吸収させる。
宝石の黒い色が、一層深みを増したように、王子には思われた。
「くそっ、
「さすがにサマエルや貴様、上級悪魔の魔力は素晴らしいと、“黯黒の眸”も喜んでおるぞ、タナトス。
遠慮などせず、魔法を使うがいい。我の力が増すばかりだがな。クッククク……」
「………!!」
その時突然、足元がおぼつかなくなるのを感じたタナトスは、足を踏みしめ、膝をつきそうになるのをどうにかこらえた。
(なぜだ、呪文は数回しか唱えて……。
そうか、あいつに吸い取られているのだったな!
くそっ、このままでは!)
唇を噛み締める魔界の王子に、サマエルの手当を終えた少女達が、声援を送る。
「タナトス様、頑張って下さい!」
「頑張ってね! 負けちゃダメよ!」
「ジル、俺を応援してくれるのか!」
しかし、タナトスの顔が輝いたのも束の間だった。
ジルは続けて、こう言ってのけたのだ。
「お願い、タナトス! お師匠様の
「じょ、冗談だろう!?
キミのために戦うのならともかく、何だってそいつの仇など、取らねばならんのだ!」
「……どうして? たった一人の弟なんでしょう?
もし、もし死んじゃってたら、二度と会えないところだったのよ!?」
必死の思いを込めて叫ぶその声も、タナトスの心には通じない。
死んだように横たわる弟に向けられた、魔族の王子の眼差しは、氷も同然だった。
「そんな軟弱な男になど、二度と会えなくて構わん!
いや、どうせなら、このままくたばってしまえばいいのだ!
その苛つく顔を見られなくなれば、心の底からせいせいするだろうからな!」
「そんな……二人が仲良くないのは知ってるけど、でも、でも……!」
彼の態度にショックを受けた少女は、大きな栗色の眼から涙をあふれさせた。
冷酷な魔界の王子も、さすがに最愛の女性の涙には弱く、歯
(ジル。それほどこいつのことが……くそ、……)
「分かった、分かったよ、ジル、そいつの仇は必ず取ってやる……!
だが、その前に一つ、聞いていいか……?」
「えっ、なあに?」
「サマエルだからか? そこに倒れているのが……。
だからキミは仇を取ってくれ、と頼むのか?
もし、やられたのが俺だったら、キミはサマエルに、仇を取ってと言ってくれるのか?」
「……え? 何で、そんなこと聞くの?」
いつになく真剣なその問いかけに、人族の少女は戸惑った。
「いいから、ちゃんと答えてくれ」
「……えーっと……?」
小首をかしげて考え込む様子に、タナトスは拳を握り締めた。
「絶対、言うに決まってますわ、タナトス様!」
真っ先にそう叫んだのは、ジルではなく、従姉のイナンナだった。
「この子は必ず、サマエル様にもこう言いますわ、『たった一人の兄さんなんでしょ? 仇取って、お願い!』って。
ジルの性格はよくご存じのはずですわ、タナトス様」
「あ、ありがと、イナンナ」
「……べ、別に、お礼を言われるほどのことじゃないわよ」
イナンナは頬を赤らめ、ぷいと横を向いた。
「──うん! タナトス、あたし、絶対! そう言うわ。
だって、お師匠様は、あたしの大切な先生だし、タナトスは、タナトスは……ええっと、あたしの大切な、大切な、──へンな友達だもの!」
迷った挙句の少女の言葉に、タナトスは思わず力が抜けて、がっくり片膝をつく。
「えっ、あれ? ええっと……あの、うん、タナトスはあたしのお友達……だから、その……」
「……はあ……」
イナンナが、これ見よがしにため息をついている後ろで、気を失っているはずのサマエルの唇が、一瞬ほころんだのに気づいたのは、誰もいなかった。
「だからね、タナトス、お願い。
遊んでないで、これ以上そいつに悪いことさせないためにも、絶対勝ってね!」
「分かったよ、ジル……」
眼をうるませ、祈るように両手の指を組んでいる少女を見たタナトスは、もうそれ以上、追求する気にはなれなかった。
(……まあいいか。
サマエルのことも、教師としてしか見ていないようだしな……)
「仕方がないな、キミにそうまで言われたのでは……。
よし、因縁を断ち切るためにも、今度こそセリン、貴様を倒す!」
タナトスは気合も新たに、邪悪な魔法使いに向き直る。
「……む? こいつまで何をしているのだ……?」
彼が不審に思ったのも道理、今の
(たった一人の弟……? 仇……バカな、我には兄弟などおらぬ……。
……『二度と会えない』……『たった一人の兄さん』……?
何ゆえ、これらの言葉が、我の頭の中を巡るのだ……?
どこかで……いつだ……聞いたことがある、これらの言葉……)
「──スカージュ!」
「ぐわっ!」
そういうわけで、タナトスの攻撃呪文を受けたとき、セリンは完全に無防備だった。
ムチのような光が魔法使いをとらえ、体を引き裂かれる痛みが、彼を我に返らせた。
「ふ、不覚……!」
「よし、今だ!」
立ち直るスキを与えないよう、タナトスは次々と魔法を繰り出した。
「──エンヴィ! ディスタクション! ディストレス! キャプティヴ! ショーティッジ!
コンフュージョン!
とどめだ、 ──ルーイン!!」
「……く、……!」
爆発するかのごときタナトスの連続攻撃に、セリンは、すさまじいダメージを負った、そう思われたのだったが……。
第一にねたみ、第二に破壊、第三に患難、第四に捕囚、第五に欠乏、第六に混乱、第七に荒廃がある』
旧約聖書偽典「ベニヤミンの遺訓」