~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

9.魔界究極魔法(3)

イナンナの気迫に押され、口をあんぐり開けていたダイアデムは、そこでようやく我に返り、少女に指を突きつけた。
「──わーん、タナトスぅ、こいつをやっつけてくれよぉ──!
見ただろ、この女、オレをぶったんだぁ、オレは魔界の王位の象徴なんだぞぉ、それを、ぶつなんて……!」
すると、タナトスが無言で二人の間に割り込んで来、そのこわばった表情に、イナンナは思わず両手で顔を覆ってしまった。
(……ああ、もう、完全に嫌われちゃったわ……立て続けに馬鹿なこと、しちゃったもの……)

しかし、次の瞬間、彼女の耳に届いたのは、自分を責める声ではなく、何かを殴る音と、べそをかく少年の声だった。
「痛──てぇ! 何すんだよぉ~タナトスまで──!」
「このたわけ者が、貴様が悪い!」
タナトスが、ダイアデムの頭をゲンコツで殴ったのだ。

彼とて、それほど鈍くはない。
とっくに彼女の気持ちには気づいていたし、それも、自分が夢魔の力を使って誘惑しかけたせいかも知れないと分かっていた。
彼女が、ジルの従姉だということも考慮に入れると、今回は、いつものように手ひどく扱うわけにはいかない……さすがに彼も、その辺のことはちゃんとわきまえていたのだ。

そこで、タナトスは、彼にしては精一杯優しく、銀髪の少女の肩に手を置いた。
「顔を上げてくれ、イナンナ。そして俺に免じ、こやつの無礼を許してやってくれ。
ダイアデムは、魔界の至宝とされている宝石の精霊で、通常の魔族とはまったく異なっているのだ。
その上、今まで魔界を出たことはなかったし、人族と会うのも初めてなのでな、これから俺が色々と教えてやるつもりではいるが、多少の腹立たしさは我慢して欲しい」

自分の告白に対する答えはなかったが、聞き流してもらった方が今はありがたく、巻毛の少女は素直に謝った。
「……そんな、タナトス様。
わたしこそ、大人げない振る舞いをしてしまいました、ごめんなさいね、ダイアデム」
それに引き換え、紅毛の少年は、ふくれっ面のままだった。

「ふーんだ、許してなんかやらねーよ、バーカ! 
タナトスがやっつけてくれないんなら、ベルゼブルに言いつけて、この女、消してもらおっと!」
「何だと! そんなことは俺が許さんぞ、貴様が親父に告げ口する前に、粉々に粉砕してやる!」 
えるタナトスに、宝石の化身も黙ってはいない。

「何でそんなにムキになるんだよぉ。
こいつは、お前の”レコ”でも何でもないんだろーが!」
少年は小指を立てて見せ、それから、独り、分かったようにうなずいた。
「はは~ん、フタマタかけてんのは、お前の方なんだな? 
両手に花、ってヤツかぁ? うらやましいねぇ、魔界の王子サマは!」
「たわけ者! そうではない!
貴様などには分からんだろうが、イナンナは俺の、一番大事な友人の一人だからだ!」

その言葉を聞いた少女の心は複雑だった。
しかし、前向きな彼女はそれを、希望が持てる一言だと思うことにした。
少なくとも嫌われてはいない、ということなのだから。
『友人、しかもその中の一人』と言えば落胆らくたんして諦めるだろうと考えた、タナトスの思惑は外れてしまった。
彼が、それに気づくのは、もう少し後になる。

「ちぇぇぇっ──!
お前らナマモノの精神状態って……はあ……ホーント、オレら精霊の理解を超えてるよ……」
今の場面に、そんな密かな攻防が隠されていたことなど思いもつかず、ため息をつき、ダイアデムは大げさに首を振る。
たしかに、宝石の化身としても、幼い少年としても、女性の微妙な心理などと言うものを理解するのは、彼には荷が勝ちすぎた。

その首の動きが不意に止まり、彼は耳をそばだてた。
「おおっと、そうこうしてる間に、オッサンが掘り出し終わったようだぜ。
これで魔法陣も、ちゃんと作動するハズだ」
「ああ、やっとジルを助けに行けるのね!」
「ちっ、メンドーだなぁ、ったく……たかが、チビでブスの人間の女、一匹によ……」
「黙れ、“焔の眸”!
それ以上、彼女の悪口を言うと、こうだぞ!」
タナトスは腕を振り上げた。

「ひえぇー」
とっさに頭を抱えた杖の化身を、魔界の王子は捕らえた。
「この忙しいときに、手間をかけさせるな、行くぞ!」
「い、痛てーってば、放せよぉ!」
暴れる少年を手荒に引きずり、タナトスはイナンナと共に魔法陣に走り込む。

今度は何も問題はなく、それは正常に作動し、一瞬の軽いめまいのような移動感がしずまると、彼らはすでに異界にいた。
プロケルが駆け寄って来る。
「タナトス様、お待ちしておりましたぞ。外は非常に良くない状況です。
魔界の瘴気……それもかなり強烈なもの……に覆われているようでしてな」

「分かっている。
イナンナ、キミはここで待っていてくれ、ダイアデム、貴様は杖に戻れ。
──プロケル、行くぞ!」
「は、お供仕ります」
「へいへい。戻りゃいーんでしょ!
ま、こんなワクワクすんのもひっさしぶりだしぃ、我慢してやるかぁ、しゃーねーやな」
彼は再びくるりとトンボを切って杖に戻り、タナトスの手の中へと収まった。
それを待っているのももどかしく、魔族の王子は外へ飛び出す。

彼に続こうとしたプロケルは、不意に腕をつかまれて振り返った。
そこには、銀髪の少女の思いつめた顔があった。
「お願いです! プロケル様、わたしも連れて行って下さい!」
魔界公の猫眼の虹彩が、さらに広がりを見せる。
「イ、イナンナ殿、それはいけません。
あなたはご存じないでしょうが、魔界の瘴気は人間には猛毒なのですぞ!」
「じゃあ、ジルは!? ……まさか……」
イナンナの整った顔が引きつり、プロケルは、急いで彼女の懸念けねんを打ち消した。

「いやいや、サマエル様がおいでですからな、結界で防いでおられるでしょう。
その点はご心配無用ですので……」
「いいえ、止めてもムダですわ!
ジルやタナトス様が大変なときに、わたし一人だけ、安全なところで待ってるなんて、できません!
お願いです、プロケル様!」
「イナンナ殿、……」
プロケルはなおも断ろうとしたが、彼もやはり夢魔、魔界でも十分通用する美少女の、雨に打たれる若葉のような、うるんだ瞳にとうとう根負けしてしまった。

「……分かり申した。
どうせ、それがしごとき、タナトス様にお手助けはできますまい。
ただ見ているだけになりそうですからな、あなたを連れて行っても構わぬでしょう。
……しかしですな、外が危険なことには変わりがありませんぞ。
結界内から決して出ないことを、お約束下さい!」

「はい、ありがとうございます!」
緑の瞳を輝かせ、イナンナは深々と頭を下げた。
「さ、それでは参りましょう」
二人は、大急ぎで外へ出た。
先に出たはずのタナトスの姿は、もう見えない。
結界越しに見る異界の景色は、気のせいか、どんよりと重い空気に満たされているように、彼女には見えた。