~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

9.魔界究極魔法(2)

「……あら? 何も変わってない……ようですわね。
ここが異界なのですか、タナトス様?」
「むむ……?」
タナトスは、あたりを入念に見回した。しかし、どう眼をらして見ても、まったく以前と変わりがない。
「いや、駄目だ、失敗だ!」
なんと彼らは、元の場所から、一歩も移動していなかったのだ。

「くそっ、期待させておいて、この、ボロ杖が!」
「大変です、タナトス様、公爵様がおられませんわ!」
魔界の王族らしからぬ口調で毒づき、腹いせにたたきつけてやろうと彼が杖を振り上げたのと、イナンナが叫んだのは、ほぼ同時だった。

「──!? では、プロケルだけを送ったのか、この杖は! 
……むう……だが、なぜヤツ一人だけを……?」
タナトスが思わず、手の中の宝石を凝視したとき。
「あ……こ、こら、待て!」
一瞬の油断を突くように、“王の杖”が勢いよく跳ね飛び、彼から逃れた。
「だ、駄目だ、戻れ!」
捕えようとする魔族の王子を振り切って、杖はくるりと回転し、(まばゆ)い光を発しながら姿を変える。

「……ふあーあ。ひっさしぶりに起こされたと思ったら、タナトス、ま~たお前か。
──ったく、しょーがねーヤツだな、呼び出しの呪文、自分で間違えたくせに、オレのせいにしやがって!
第一王子だからって、威張りくさんじゃねーよ!
まじめに呪文覚えろって、オヤジにもさんざ言われてんじゃんか! 
イザって時に使えなかったら、どーすんだ!
──大体な、オレが『うん』って言わなけりゃ魔界王にゃなれねーんだぜ、わあってんのかよ、あ~ん?!」

二人の前に立ち、思いっきり伸びをしながらそう毒づいたのは、一見すると十二歳くらいの、かわいい顔立ちの少年だった。
紅く輝く瞳には、貴石だったときと同様、炎めいた黄金の(きらめ)きが踊っている。
後ろで無造作に結んだ髪も、やはり燃えるような深紅で、やんちゃそうな頬には、たくさんのそばかすが散っていた。

当然、この少年のことをよく知っていたタナトスは驚きはせず、言葉づかいの悪さには立腹しかけたものの、いつものことだ……と思い直した。
「それは悪かったな、ダイアデム。
だが、呪文が間違っていたのに、なぜ、プロケルだけは飛ばしてくれたのだ?」

「──ふん、なに寝ぼけたこと言ってやがる! 
そのデカ頭は何のためについてやがんだ、ツノを飾っとくための台か、ええ!?
少しは考えてみろ、一人送って“門”を開かせりゃ、帰りもすぐ帰って来れんだろーが!
それに、たとえ呪文が合ってたって、“王の杖”は移動の道具じゃねーんだぞ!
ンなつまんねーコトに、このオレを使うな、バカ王子!」

せっかくタナトスの方が自制したと言うのに、紅毛の少年は、さっきより一層、生意気な態度で食ってかかる。
魔族の王子のとぼしい自制心は、一瞬で弾け飛んだ。
「きっ、貴様! バカとは何だ、どうせなら貴様ごと俺を送ればよかったのだ!
そうすれば、今頃とっくに、ジルを助けに行けたものを!」
「──ちっちっち」
いら立ちを露骨に現わす彼に対し、少年は片手を腰に当て、一本だけ立てた人差し指を、らすように左右に振った。

「これから、セリンのヤツと戦って女助け出すんだろ? 
もしもを考えたら、プロケル連れてった方がいいに決まってっし、俺の力だって、温存するに越したこたねーぜ。
──ったく、たまにゃーそのデカ頭を、ちったぁ働かせてみたらどーなんだよ、『もしかしたら、魔界王になれるかもしんねー』、魔界の王子さんよぉ?」

タナトス自身、古めかしい魔界のおきてにうんざりし、くそ食らえと思ってはいたものの、“(ほのお)(ひとみ)”の化身であるダイアデムは、さらに上を行っていた。
魔界の至宝とされ、最大限にうやまわれていながら、不良少年のような言動で顰蹙ひんしゅくを買うことさえあったのだ。

彼の言動に自分を見るようで、タナトスは多少頭が冷えた。
「相変わらずペラペラと、まるっきり悪ガキ言葉でしゃべるヤツだ。
貴様にかかっては、“王の杖”の威厳も形無し、呪文に心を込めろと言う方が無理というものだぞ。
……まあいい、プロケルはどうしている?」

ダイアデムは、そばかすのだらけの顔で、にやりとした。
「悪ガキ、ってのは最大のほめ言葉さ、オレにとってはよ!
──ああ、プロケルな? 今頃異界でせっせと祠、掘り返してるよ、元気よくさ。
年の割りにゃ体鍛えてるしぃ、お前なんかより、よ~っぽど役に立つぞ。
──ま、どうやら向こうの門は、中の方がちょいと崩れて埋もれてるだけみたいだしぃ、こっちよりか手間はかからないと思うぜ、掘り終わったら教えてやるって。
……ただよぉ、ちっと……」

ここへ来て、初めて少年はためらった。
紅い瞳の黄金の炎が、微妙に揺れ動く。
「? どうした、貴様らしくもない。はっきり言うがいい」
タナトスが促すと、やんちゃな少年の顔に、いつになく深刻な表情が刻まれた。
「向こうは、なんつうか……ヤバくなってるカンジだぜ……。
ちょこっとてみたんだけど、祠のまわりに渦巻いてるのは、魔界の瘴気しょうきみてーだな。
……お前の女も、無事でいるかどうか……」
「何、なぜそんなものが……?」

瘴気と言う不吉な言葉に、それまでただあっけにとられて二人のやりとりを見ていたイナンナは、黙っていられなくなった。
「ね、あなた、ジルが見えるの? あの子は大丈夫なの? サマエル様は?」

「オレはダイアデムってんだ、よろしくな、べっぴんさん。
“王の杖”…いや、正確には杖についてる石、あんたがキレイだって言ってくれた“焔の眸”の化身さ。あんがとよ」
「そう、ダイアデム、教えてちょうだい、ジルは!?」

「……んー……」
問われた少年は、ぽりぽり頭をかいた。
「教えてやりてーのは山々だけど、残念ながらオレに見えんのは、猫魔オッサンのいる祠の周辺だけなんだ。
あそこは異界だし、その上セリンの結界の中だしさー、あんま遠くまでは見えねーんだなー、これが」

「そうなの……」
イナンナはがっかりした顔をした。

「……でもさ、そんなに気になる? そのジルって女のコト?」 
少年の声が、急に意地悪い響きを帯びたのは、その時だった。
「そいつがいなくなっちまえば、タナトスは自分のもの、とか思ってんの?
けけ、こ~んな根性曲がり男の、どこがいーんだろーねぇ? 
──ま、こいつが、どんな性格ブスでも、魔界の王サマんなっちまえば、あんたはお妃サマ。
毎日、贅沢三昧ぜいたくざんまい酒池肉林しゅちにくりんできるもんね。
──あはははっ!」

「貴様、へらず口を慎め!」
タナトスが怒鳴りつけると同時だった。
大きな音が聞こえて、イナンナが思い切り、紅毛の少年のほっぺたを引っぱたいたのだ。
 
「──痛ってえ! 何すんだ、このアマ!
……あ、あれ? それ……は」
食ってかかろうとした宝石の化身は、美しいエメラルド色の瞳からこぼれ落ちる透明なしずくに気づくと、返す言葉を失ってしまった。

「わ、わたしは、そんなこと考えてやしないわ、ジルは姉妹も同然なんだから!
そう、たしかに、わたしは、タナトス様が好きよ! 
でも、魔界の王様になる方だからとか、お金持ちだからなんて理由で好きになったわけじゃない!
たとえタナトス様が、普通の人間、貧乏な人だったとしても、わたしの気持ちは変わらないわっ!
あ、あんたなんかに、わたしの気持ちが分かってたまるもんですか!
──あ、……」

感情にまかせて、つい、本心を口走ってしまったことに気づいた彼女は、気の毒なほど真っ赤になってうつむき、タナトスを見ることができなくなってしまった。