~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

9.魔界究極魔法(1)

とっくに異境祠を掘り起こし終えたというのに、タナトスは、なかなか戻って来ない。
プロケルとイナンナは、やきもきしていた。

「タナトス様、遅いわね……。何かあったのかしら……?」
イナンナが、何度つぶやいたか分からないセリフをまたも口にしたとき、ようやく魔界の王子の姿が現れた。
「あ、タナトス様!」
「すまん、待たせたな。
親父がなかなか俺を信用せんので、思いの外、時間を食ってしまったのだ」

「おっ、それは“王の杖”ではございませんか! タナトス様、まさか、……」
疑わしげな口調の家臣を、タナトスはにらみつけた。
「黙れ、プロケル! 貴様までマンモンと同じことをほざく気か!
親父にも散々、目的外に使うな等と、うだうだ念を押されて来たのだ、これ以上説教など聞きたくもない!
──ったく、くそ親父め! いまだに俺をガキ扱いだ!」

「それよりタナトス様、急ぎましょう。
わたし、何だか、とても嫌な予感がして……」
「む、そうだな、ジルが心配だ」
イナンナの言葉に、うなずいて怒りを収めた彼を先頭に、彼らは異界へとつながる通路があるという祠に入って行った。

内部に足を進めた三人は、周囲を見回した。
壁に、規則正しく太陽と月、そして封呪の呪文が彫られ、彼らを導くように、ほの白く輝きながら、どこまでも続いている。
「……まあ。本当に、不思議な感じがするところですわね」
「まことに。古き魔法の匂いがしますな」
プロケルは鼻をうごめかせた。
薄暗い祠内部では、魔界公の細長い瞳孔も円盤状に広がっている。
「……ふん。最後に使われてから、すでに数千年は経っているはずだからな……」

足早に進んだ一行は、やがてぽかりと開けた空間に出た。
天井は高く、奥には泉が湧き、そこから流れ出た水が小さな池を造っているのが見て取れる。

「あれが回復の泉とすると、この辺りに“異界の門”とやらがあるはずだが、どこだ?
行き止まりだぞ、プロケル」
「いえ、書物によりますと、この奥に入り口があるはずですが……。
ともかく、泉のそばまで参りましょう」
「そうだな」

彼らは急ぎ歩を進め、池に手が届くところまで来たとき、向こう側の壁が、“王の杖”の紅い貴石と呼び合うように明るく光り始めた。

「お、あれですぞ! あそこが隠し扉になっておるのです!」
「よし!」
近づくにつれ“王の杖”の貴石は一層輝きを増し、扉の前にタナトスが立つと同時に、岩壁が地響きを立てて持ち上がり、隠されていた小部屋が姿を現した。
「これか!」
三人はさっそく、部屋の中央で七色に輝く魔法陣に走り込んだ。

しかし、何も起こらない。
「どうした? なぜ動かんのだ?」
「……妙ですな、反応がないとは……」
「定員があるのかしら?」
「むう……とにかく、俺一人だけで試してみよう。二人共、出てくれ」
タナトスは一人になってみたが、やはり魔法陣は作動しない。

「……むむむ。何か、呪文でも唱えるのではございませんか? タナトス様」
「いいや。親父は、呪文などはなく、この杖を持っていけば封印は解けると言いおったぞ。
いくら親父が俺を信用しておらんでも、今さら嘘など教えるとは思えんし。
くそっ、一体どうなっているのだ!」
魔族の王子は、腹立ち紛れに魔法陣を踏みつけた。

「落ち着いて下され、タナトス様」
魔界の貴族は、第一王子をなだめた。
「ふ~む、もしかして、異界にある祠……つまり出口の方も同様に埋もれており、それゆえ、作動せぬのではございますまいか」
「たしかに、そうかも知れませんわね……。
どうしましょう、タナトス様。一刻も早くジルを助けたいのに……」
連れの二人の途方に暮れた顔を見ながら、タナトスは大急ぎで考えを巡らした。

「もしそうだとしても、一つだけ手がある……かも知れん」
「それはどのような?」
「この杖だ。こいつのエネルギーは膨大ぼうだいだし、何人だろうと、異界へ送ることなど造作ぞうさもない……と思う。
まあ、うまくいけば……だがな。
破壊に使うのでなければ、親父だとて文句は言わんはず……おそらくは……な」
強引なこの王子にしては珍しく、歯切れが悪い言い方だった。

プロケルは、夜の猫のように金色に光る眼をいぶかしげに細めた。
「……おそらく、とは、どのような意味でおおせられているのでしょうかな、タナトス様」
「いや……つまりだな。一万年前の一件以来、親父は俺にこの杖を使うのを禁じた」
「はあ、それは存じておりますが」
「おまけに、“王の杖こいつ”自身にも、俺の命令は聞くなと申し渡しているらしいのだ。
だから、緊急時とは言え、今、こいつが、俺の命令を聞くかどうかは、正直、分からん……そういうことだ、忌々いまいましいが」

「ええっ!? タナトス様、そんなことおっしゃらず、ジルを助けて下さいませ! 
お願い致します!」
深い緑の瞳をうるませ、イナンナは必死の思いで頭を下げた。
彼女の心にはもう迷いはなく、純粋に従妹のことを心配していた。

まだ躊躇ちゅうちょしていたタナトスも、それを見て決断した。
「分かった、やってみよう。
こうしていても何も始まらんし、ぐずぐずしている間に、ジルがどんな目に遭っているか分からんからな」
少女剣士は安堵して涙をふき、優雅に礼をした。
「ありがとうございます、タナトス様。よろしくお願いいたします」

「ああ、任せてくれ」
言うが早いか、魔界の王子は記憶をたどり、精神を集中させていった。
(さすがの俺も、一万年も使っていない呪文を思い出すのは一苦労だが、今はそんなことは言ってはおられん、待っていてくれ、ジル。
む……よし、思い出した!)

「──魔界の闇にまう、ほのおを帯びし者よ、我は汝をたたえ、呼びだす。
我に力を貸し、我らを異界へ送り届けたまえ。
──アケロン、ステュクス、オブリヴィアンの名の許に目覚めよ、王位の象徴たる杖よ!」
(……たしか、呪文はこれでよかったはずだが……)
唱え終わった直後、タナトスは急に自信がなくなったが、それを表情に出す彼ではない。

息詰まるような時間が過ぎてゆく。

ありがたいことに彼の危惧きぐ杞憂きゆうに終わり、杖の紅い貴石は呪文に反応して、明るく輝き始めた。
「よし、やったぞ……」
タナトスは大きく息をつき、汗をぬぐった。

「ありがとうございます、これでジルを助けに行けるのですね。
でも……タナトス様。
何と言ったらいいのでしょう……この杖は……とても美しいですわね……」
「まことに。それがしも、儀式以外で、かように輝くところを見たのは初めてでございますぞ……!」

「まあな。だが、魅入られないように気をつけろよ、二人とも。
プロケル、貴様は知っているだろうが、こいつの取り合いで、危うく内戦になりかけたことがあるのだからな」
「まあ、そうでしたの……」
「ああ。それで王家が独占し、魔界の王権の象徴とすることになったのだ」
「存じておりますが、ついつい、見入ってしまいますな……それがしとて、こうして近々と見ることのできる機会は滅多めったにございませぬゆえ」
プロケルは名残惜しげに眼をらしたが、比較的見慣れている彼とは違い、人間である巻毛の少女は、宝石の輝きから眼を離すことができなかった。

冷たくなめらかな深い紅色の宝石内部に、熱い黄金の炎が燃え盛り、その絶え間ない揺らめきは、妖しい夢世界へといざなう夢魔の手招きめいて、太古より見る者をとりこにしてきたのだ。

イナンナが、その美しさに心奪われている間にも、“焔の眸”の光はますます強まっていき、しまいには爆発するように輝いて周囲を深紅に染め、三人の眼をくらませた。
「きゃっ」
「くっ、何も見えん!」
やがて光が消え、イナンナが、恐る恐る眼を開けてみると、そこは……。