~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

8.王の杖(2)

その頃タナトスは、サマエルの屋敷にある魔法陣を通り、紅龍城の中庭に着いていた。
紅龍城とは、魔界にある弟の居城である。
成人すると同時に、タナトスとサマエルは、魔界王宮“汎魔殿はんまでん”を挟んで左右隣りに城を構えたのだ。
隣りといっても敷地が広大なため、それぞれの城は、歩けば数日かかるほども離れている。

彼は、急ぎ次の魔法陣へと乗り換え、今度こそ汎魔殿の前庭へと到着した。
(ちっ、一々乗り換えるのも面倒だ、やはりここに、人界へ直通する魔法陣を設置する必要があるな)

そうつぶやきながら、敬礼するよろい姿の兵士に軽く片手を上げて見せ、彼は見上げるほど高い天井から大型のシャンデリアが下がる、壮麗そうれいなエントランスホールに入って行った。
そこを基点として、磨き立てられた大理石の広い廊下が四方に向かってどこまでも続き、壁には数十歩おきにくぼみが掘られ、手の形をした彫刻が様々なポーズで燭台しょくだいを持っている。
これはかつて、切り落とした罪人や敵の手に、灯りを持たせて飾り物としていた名残りだった。

第一王子は移動呪文を唱えようとして、城中ここでは、その使用が禁じられていることに思い至った。
(くそ、ここにも七面倒な規則があったな、急ぐと言うのに!)
やむなくタナトスは、マントをひるがえして走り出し、様々な模様が浮き彫りされている壁に映る影も、彼の後をついていく。
廊下を往来する女官達は、第一王子に気づくと道を譲り、うやうやしく礼をした。

「親父はどこだ?」
彼は、その中の一人に訊いた。
「陛下は、玉座ぎょくざの間においででございます」
その返事を背に、タナトスはさらに先を急いだ。
やがて背丈の三倍はある、金銀で象眼ぞうがんをほどこした豪華な扉の前に着く。

ここにもまた、(いか)つい鎧姿の兵士達がいて、彼の姿を見ると槍を下ろし、さっと左右に分かれた。
「急ぎの用だ。謁見せっけんはもう、始まっているのか?」
王子の問いに、兵士は敬礼し、答えた。
「いえ、まだ始まってはおりません、タナトス殿下。
先ほど、打ち合わせのため、西デーモン王、マンモン閣下が入室されましたが」
「……ふん、マンモンか。まあいい、開けろ」
「は!」
兵士達は再び敬礼し、ただちに命令を遂行すいこうにかかる。

開け放たれた扉の中には、人界のどんな大国の城もかなわないほど、絢爛けんらんたる光景……数百人の家臣をいちどきに収容できる、大広間が広がっていた。

高い天井からは、エントランスにあるものよりも、さらに巨大で手の込んだ作りのシャンデリアがいくつも下がり、側面の壁には、眼の覚めるような色彩で、左に海の怪物レヴィヤタン、右に陸の怪物ベヒモスの図柄を精巧に織り込んだ巨大なタペストリーが掛けられ、見る者を圧倒している。

広間の奥は一段高くなっており、その中央に、黄金よりも美しく希少な貴金属で作られた大型の玉座がしつらえてある。
きらびやかな“玉座の間”の中でひときわ眼をくそれは、宝石で飾り立てられて、色とりどりに輝いていた。

かつては、玉座を挟んで左右対称に、一回り小さい黄金細工の椅子が置かれ、王子達の席も設けられていたのだが、今はない。
魔界を離れた第二王子はともかく、次期魔界王として席に連なるべきタナトスは、格式張った儀式が大嫌いで、謁見も拒否していたのだ。

タナトスは、それら由緒ゆいしょ正しい荘厳そうごんな装飾には眼もくれず、足首まで埋もれるほど毛脚の長い紫色の絨毯(じゅうたん)を踏みながら、ずんずん進んでいく。
彼の視線の行き着く先には前述の玉座があり、そこに座した人物は、隣にひざまずいている男と熱心に話し込んでいた。

「親父! 話がある」
突然声をかけられて、豪奢ごうしゃな闇色のマントをまとった人物は、驚いたように顔を上げた。
額に、魔界王家の紋章“四頭龍”が刻まれた黄金のサークレットをはめ、角はタナトスよりやや長い。
どことなく彼に似てはいるものの、髪もヒゲも白く、いかめしい顔つきをしている。

この人物こそが現在の魔界王ベルゼブル、タナトスとサマエルの父親だった。
その威厳いげんに満ちた眼差まなざし、落ち着いた物腰は、まさしく魔界の王にふさわしかった。
ただ、タナトスの父親だけあって、少々気が短いところがあるのも事実だったのだが。

「何じゃ、タナトス。余は見ての通り忙しい。後にするがよいぞ」
自分と似た紅い眼を光らせ、手を振って下がらせようとする父王に、タナトスは食い下がった。
「謁見などどうでもいい、大至急、“異界の門”の解呪の法を教えてくれ!」
ベルゼブル王は、あっけにとられた顔をした。
「“異界の門”? ……何じゃそれは?」

(──ちっ、やはり忘れてやがる! 
くそったれめ、こんなボケジジイが支配者とは、魔界もちたものだな!)
心の中で父親を激しくののしり、多少気が済んだ彼は、言った。
「“異境祠”と言った方が、思い出しやすいか? 
異界への転移装置がある場所のことだ、あそこの封印を解きたいのだ、早くしてくれ!」

「……異境祠……」
魔界王は、いっとき空中に視線を彷徨さまよわせ、それからうなずいた。
「おう、あれか。すっかり忘れておったわ。
何と申したか……むむ、ともかく、あの邪悪な魔法使いを封じたところであったな。
なれど、左様なところに一体、何用があると申すのじゃ?」
けげんそうな父親に、タナトスは気短に告げた。
「ジルがさらわれたのだ、ヤツに。“貴石を帯びし者”、いや、セリンのたわけめにな!」

王は白い眉をしかめた。
「なんと……あやつ、まだ生きておったのか。厄介やっかいな……」
「ああ、だから早く、解呪の方法を!」
「左様なことより、そなた、またあの娘にかまけて修養しゅうようおこたっておったな。
女の尻ばかり追いかけず、もっと身を入れて帝王学を学ねば……」

言いかける父親を、苛立たしげにタナトスはさえぎる。
「うだうだ話はいい! さっさと呪文を教えてくれ!」
「呪文などは存在せぬ」
そっけなく王は言った。
「何ぃ──!? ふざけてる場合ではないのだぞ!」

「第一、そなたが申しておることが、真実かどうかも分からぬわ。今度は何をたくらんでおる、タナトス」
興奮気味の第一王子に向けられる、父王の眼差しは、息子同様冷ややかだった。
「企む、だとぉ……!?」
タナトスはさらに頭に血が昇り、いつものように食ってかかりそうになったが、辛うじて自分を抑えた。
父親相手に怒鳴り合いを演じたところで、余計に話がこじれてしまい、無駄な時間がかかるだけだということは、さすがに長年の経験で、よく分かっていたのだ。

そこで彼は、幾度か深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせてから口を開いた。
「……ならば、俺の心を読んでみるがいい。
それにだ、早くせんと、サマエルまでも死なすことになりかねんぞ。
“ジュエル・ベアラー”のことを知らぬまま、ヤツは単独で異界に行ってしまったのだ。
あのたわけめは、人界へ行ってから、ロクに食事をっておらんし、セリン相手では一時間と持つまい。
あんな軟弱者、どこでくたばろうと俺の知ったことではないが、アナテ神殿の儀式のためには、あと二千年、どうにか生かしておかねばならんのだろうが」

「ふむ、左様であったか。ならば、ここへ直るがよい」
いつもと違う息子の態度に、ただならぬものを感じた魔界王は、そう促した。
「ああ、早く読め」
片膝を着いたタナトスの額に、二本の指で触れて眼を閉じ、ベルゼブルはしばし沈黙する。

「……ふ~む、たしかに本当じゃったな、今回は。致し方あるまい、教えよう。
封印を解く鍵は、“王の杖”じゃ。あれがあれば呪文なぞは必要ない、扉はおのずと開かれるのじゃ」
渋々と言った感じで、魔界王は息子に告げる。
タナトスは、大きくうなずいた。
「ふん……なるほど、考えたな。
あれなら、たとえ誰かが盗んだとしても、俺達以外には扱えんし」

「待て、タナトス。まだ話は終わっておらぬ」
立ち上がり、もう用はないとばかりにきびすを返しかける息子の背中に、ベルゼブルは声をかけた。
「何だ」
「そなたは近々魔界王となる身、くれぐれも無茶はするでないぞ。
“黯黒の眸”が失われた今、セリンの力も弱まっておろうが、油断はできぬ、ヤツは手ごわい。
援軍が必要ならばすぐに申せ」

第一王子は肩をすくめる。
「ふん、ガキの頃ならいざ知らず、今の俺が、あんなザコ相手に苦戦するとでも?
……まあいい、後は任せておけ、何かあったらまた連絡する。
邪魔したな、親父!」
「お、お待ち下さい、タナトス殿下」
そのまま足早に去ろうとした彼を、玉座の陰に控えていた男が呼び止めた。