8.王の杖(1)
「──ヤアッ──!」
鋭い気合いと共に巨大な岩が
轟く大音響と激しい振動に、森の静けさは破られ、驚いた小鳥が飛び立ち、小動物は逃げ惑った。
「ほう。さすがに見事ですなぁ、イナンナ殿」
見慣れたとは言え、イナンナの鋭い
「ありがとうございます、プロケル様」
銀髪の美少女は、かすかな笑みを返すと、続けた。
「でも、前々から思っていたのですが、どのようなご用向きで、魔界の公爵様ともあろうお方が、これほど長く人界に留まっておいでなのですか?」
深い森の緑を思わせる瞳に真っ直ぐ見つめられ、プロケルは琥珀色の眼を伏せたものの、正直に答えることにした。
「実はですな、それがしは、ジル殿とサマエル様との仲が、これ以上進展せぬよう、監視を
それが、タナトス様の、お二人が同居する上での条件でございましてな。
ですが、この分では、
それがしがおりながら、ジル殿がさらわれてしまわれては……。
ここでのお勤めが終われば、息子に公爵位を譲り、引退する予定でおりました……孫達に会うのを、楽しみにしておったのですが……」
魔界の貴族は
「まあ」
イナンナは、美しい眉をひそめた。
それはプロケルへの同情もあったが、タナトスが、そこまでジルのことを考えているという事実に衝撃を受けたからでもあった。
「プロケル様もご存じのように、ジルとサマエル様は一緒にいないと駄目なのですわ。
でも、タナトス様が、二人を必要以上に親しくさせたくない、とお考えになるお気持ちも、分からないでもありません。
タナトス様とジルが一緒に住んでいたら、わたしも同じことを考えたかも知れませんもの……。
わたし、ジルがさらわれたと聞いたとき、何だが少し、ほっとしてしまったんです……あ」
そう言ってしまってから、彼女は遅まきながら口を押さえた。
「イナンナ殿……?」
魔界公爵の猫のような虹彩が広がり、丸くなる。
「わ、わたし、この頃、変なんです……タナトス様とお話していると、胸が苦しくなって……その上、ジルがさらわれたのを喜んでしまうなんて……いえ、もちろん、ほんの少しですけれど、本当にどうしたのかしら、わたし……」
思わずと言った感じで彼女の口から漏れた言葉を、プロケルは、意外なものとは受け取らなかった。
「恋……をしておいでなのですな、タナトス様に」
「ええっ! ま、まさか、そんな……」
頬を朱に染めた巻毛の美少女に、魔界の公爵は、気の毒そうな眼差しを向ける。
「年寄りの差し出口をお許しいただけるならば、あまりタナトス様にお近づきにならない方が賢明ですぞ、イナンナ殿。
ご存じでしょうが、我ら魔界王家の血を引く者はすべて夢魔、共にいる時間が長いほど、女性に影響を及ぼしてしまうのです。
さらにタナトス様は、従妹君のジル殿に熱を上げておられますし……」
イナンナは、熱くなった頬を押さえ、思った。
(……恋? そうなのかしら。よく分からないけれど……。
でも、もしそうだとしたら、きっとこの人には、
魔力もないただの人間の娘が、魔界の王子様……それももうすぐ王となる方に恋をするだなんて……しかも、他に好きな人がいると分かっているのに)
「いいえ、ご心配には及びませんわ、わたし、恋などしておりません。
でも……そう、あなたも夢魔なのですね、プロケル様」
「いかにも」
答える公爵もまた、悲しげだった。
「されど、これほど年を取ってしまうと、若い女性をどうこうしようなどとは、まったく思いもつきませぬよ。
それでも身の危険をお感じとあらば、近づかないように致しまするが」
「いえ、危険なんて全然感じませんわ。プロケル様は、信じるに足るお方ですもの」
イナンナは、極上の笑みを浮かべた。
プロケルも笑みを返し、胸に手を当てると、お辞儀をした。
「左様なお答えを頂けて幸いです、イナンナ殿。
あなたやジル殿のように、魔族を色眼鏡で見ることのない人族は、まったく
「……そうでしょうか? 人間にもいい人、悪い人、色々います。
魔族もそうなのでしょう? 天使にも、とんでもない人がいるようですし。
タナトス様を初め、サマエル様もあなた様も、ちゃんとした方々だと言うに過ぎませんわ」
それは、様々な場所を旅して来たイナンナの実感だった。
「ありがたき幸せですな。
お気を落とし召さぬことです、あなたのような素晴らしい方でしたら、この先いくらでも、夫君にふさわしき
同情するような魔界公爵の言葉に、少女の瞳は一瞬、強い光を帯びたが、抗議はしなかった。
「それにですな、魔界は過酷な環境、魔力がなければ、生きてはゆけぬのですよ。
そう申せば、サマエル様も、ごくご幼少の
プロケルは遠い眼差しをした。
「えっ、人界で賢者と呼ばれる、あのサマエル様が……魔力を?」
イナンナは、若葉のような眼を見開いた。
「左様。そのせいもあり、父君とも兄君とも折り合いがお悪く、それがしも、お気の毒には思うておりましたが、何分、臣下の身、気軽に声をかけて差し上げることも
結局、サマエル様は、魔界をお出になってしまわれたのですが。
現在の方が、以前より、遙かに生き生きとしておいでですよ。
さて、世間話はこれくらいに致しましょう。失礼して、得意分野を使うと致しますかな。
──出よ、偉大なる魔界の氷剣、“
魔界公爵プロケルの名に
プロケルは、その称号の由来である、公爵家に伝わる氷の剣を呼び出した。
カミソリのような切れ味で、斬った相手に癒えぬ凍傷を負わせると言われる魔剣、“
「イヤア──!」
冷たい輝きを帯びた切っ先を、大岩に向かって勢いよく振るう。
「──イグニス!」
そして、凍りついた大岩に、炎の呪文をぶつける。
と、岩は一溜まりもなく粉砕されて地響きが辺りを揺るがし、その音がイナンナを現実に引き戻した。
我に返った今は彼女は、今は従妹の救出が先と、意識を集中させて剣を構えた。
「──ハッ!」
必殺の気合いを込め、別の岩めがけて剣を振り下ろした、その時。
「あっ!」
突然、ペンダントの鎖が切れた。
とっさにつかもうとする指をすり抜け、祖母の形見のエメラルドは、岩に当たって真っ二つとなる。
(何だか、嫌な胸騒ぎがするわ、まさか、ジルの身に何か……?
ああ、タナトス様、早く戻って来て下さいませ!)
イナンナは祈りを込めて、拾い上げた