~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

7.再会(4)

「戦術的後退……つまり、逃げることも、立派な作戦の一つなのだよ、ジル。
かなわないと思ったら、逃げるが勝ちさ」
飛び続ける結界球の中、サマエルは、けろりと言ってのけた。
「そ、それはそうかも知れないけど……あ、助かったのよね、あたし達?」
「ああ、心配いらないよ。お陰で、少し時間が稼げたし、ね」
少女の問いかけに、サマエルは笑みを返し、話し続けた。

「それに、この近くには、人界へ帰還できる“異境祠”と言うものがあるはずなのだ。
正確な場所は分からないが、上空から探せばすぐ見つかるだろう」
「何だ、帰れるのね、よかったー」
ジルは胸をなで下ろし、それから小首をかしげた。
「でも、“異境(ほこら)”って、どんなところなの?」
「そうだね……とても不思議な場所だよ。祠と言うより、洞窟に近い感じかな。
内部の壁面に、淡い光を発する浮き彫りがたくさんあってね……」

それを聞いたジルは、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、それなら知ってる! ハロートとマロートに聞いて見つけたの、あっちよ!」
「そうか、ありがたい」
彼女が指す方角に、サマエルは結界球を急旋回させた。

「でも、あたしが見つけたときは、もう途中で崩れてて、奥に行けなかったわ」
「……ふうむ。まあ、とにかく行くだけ行ってみて、それからどうするか考えよう」
サマエルは、さらに結界球の速度を上げた。
雲も、下に見える景色も、ものすごい勢いで後ろに去っていき、こんな時でなかったら、爽快そうかいにさえ感じられただろう。
しかし。

「あわわわ、来たぞい!」
「恐ろしいわい!」
小人達は、抱き合って叫ぶ。
「お師匠様、セリンよ、すぐ後ろに!」
ジルが声をかける。
「むう、来たか!」
ようやく小川が見えてきたところで、彼らはついに、邪悪な魔法使いに追いつかれてしまった。

みるみるセリンは距離を詰め、一心に念を結ぶサマエルの結界球を難なく追い越して、行く手をはばんだ。
「フッ、魔族の王子ともあろう者が、敵前逃亡とは恐れ入ったが……なるほど、“異境祠”を使うつもりか?
生憎だったな。魔法陣は埋もれておるし、あの祠は、回廊の用をなさぬぞ。
クク……ここがおぬしの墓場だ、今度こそ覚悟を決めよ、第二王子サマエル」
魔法使いは、彼に指を突きつけた。

「やはり、か……。仕方がない、これでいくしかないな……」
サマエルはつぶやき、結界球を下ろすと、すいと一人だけ抜け出た。
「フン、初めから、そうやって闘えばよかったではないか」
セリンは、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「こちらにも、色々都合があってね」
軽く肩をすくめ、王子は答えた。

「では、仕切り直しと行こうぞ!
──メファイテス!」
邪悪な魔法使いは、改めて宣言した。
放たれた魔法をかわし、サマエルは呪文を返す。
「──イグニス!」
それをセリンが杖で跳ね飛ばす。

先ほどと同じ闘いが繰り返される……と思いきや、今度はサマエルの方が、なぜか分が悪いようだった。
通常魔法しか使わず、その威力もまた、先ほどより弱いように思える。

一瞬、首をかしげたジルは、すぐにその理由に思い当たった。
(あ、この結界を張ってるからだわ!
ここでは魔力が安定しないから、魔法具を使って結界は張れない……。
同時に二つの魔法を操るのは、すっごく難しいし、どっちもあまり強くは出来ないはず……。
だからお師匠様は、カッコ悪くても逃げようとしたのね。
あたし達を護りながらじゃ、全力は出せないもの。
このままじゃ、お師匠様が……)

「あたしに魔力が残ってたら、よかったのに。そうだわ、ちょっとなら……」
力を集めてみようとしたとき、それに気づいたサマエルは叫んだ。
「やめなさい、ジル! 無理をすると死んでしまうぞ!」
「──メイルストーム!」
その隙をついて、セリンの魔法が襲いかかる。
「うわっ!」
サマエルは避け切れず、黒い爆発の直撃を受けてしまった。

「お師匠様──!
いくらあたしらが助かっても、お師匠様が死んじゃったら、何にもならないわよ!」
ジルが叫び、緑小人達が言った。
「よし、わしらも手伝うわい」
「そうじゃ、何もせんよりはましぞい」
そしてようやく目を覚ましたカッツも、少し震える声で言った。
「僕も手助けしますよ、ジル」
「うん、やりましょ! あんなヤツ、やっつけちゃおう!」

勝手に盛り上がっている彼らに、セリンはあきれたような視線を送った。 
「おぬしら、そこからどうやって攻撃する気なのだ? そのちっぽけな力で」
「あ、そうだった……」
一瞬で、彼らは火が消えたように大人しくなる。

「フフ、元気なお子様どもだ。
だが、我がサマエルを料理している間は、静かにしていてもらおうか。
気が散るのでな。
──サルタス!」
失笑気味のセリンは、結界めがけ、無造作に魔法を投げつけた。

「駄目よ、結界が壊れちゃう!」
ジルが大声を上げたとき、サマエルが瞬間移動してきて魔法攻撃を受けとめ、激しく地面にたたきつけられた。
「きゃあっ、お師匠様!」
駆け寄りたくても、結界に邪魔され、師匠が倒れている場所まで行けない。
苛立ちと焦りで、ジルの眼に涙が浮かんだ。

それでも、さすがは魔界の王子、よろめきながらもサマエルはどうにか立ち上がり、唇の端から滴る血を手でぬぐった。
「私は大丈夫だよ、ジル。心配はいらない」
「お師匠様、よかった……」
ジルは心底ほっとして、こぼれかけた涙をごしごし手でふいた。

「ククク、わざわざやられに来るとは、愚かな。貴様もこれで終わりだな。
我が結界は、中にいる者の精気を吸い取るのだ。
どのように強き者であろうと、徐々に力が失われていき、しまいに動くことも叶わぬようになる。
せめてもの情けに、我の最強魔法でとどめを刺してやろう!」
セリンの黒い魔力が、再びねっとりと杖にまとわりつき始める。
荒い息をつきながら、サマエルは身構えた。

「ふふ、これが本当の最終章、永遠とわの別れだな。覚悟はよいか?
──闇を司る魔界の至宝、“黯黒の眸”よ、“貴石を帯びし者”たる我に、“混沌(こんとん)の貴公子”を倒す力を与えよ!
──ブラスフィーム!」
そしてついに、黒衣の魔法使いは最強魔法を放った。

「お師匠様──っ!!」
その刹那、ジルは叫び、そして、結界ごと師匠の前に瞬間移動した。
どうやってそんなことができたのか、自分でも分からない。
呪文を唱えたわけでもなく、そもそも、魔力はまだ戻って来ていなかったはずなのだが。

「もう、避けられないわ。防御する魔力も残ってない……。
巻き込んじゃってごめんね、カッツ。ハロートにマロート。お師匠様……さよなら」
セリンの黒い魔法の渦が、目前に迫る。
ジルは小声で告げると、眼をつぶった。
結界内の残りの三人は、何が起こったか分からずに、ただ身を固くしている。

眼前の光景に、サマエルは一瞬、心臓が止まりそうになった。
「駄目だっ、ジル!」
叫んだときはもう遅かった。
すさまじい爆風とともに、周囲に白い骨が散らばるのを、サマエルは見てしまったのだ──。

「なぜ……ジル……私などをかばって……!
──ジル────ッ!!」

魔族の王子の血を吐くような叫びが、異界にこだましていった……。