5.ジルの怒り(2)
「きゃあああっ!」
すさまじい勢いで迫ってくる巨体を、叫びつつもどうにかジルは避けた。
カニはすぐには止まれずに森に突っ込み、樹木をなぎ倒していく。
「何をやってる、よく狙え!
あれが今日のエサだ、食いではないかも知れんが、不細工でも若いから、肉は柔らかだぞ!」
主人の叫びにようやく魔獣は向きを変え、再びジル目がけて突進する。
今度は巨大なハサミが、彼女のすぐ横の太い木を真っ二つにした。
「──イグニス!」
反射的にジルは呪文を唱えたが、指先にぽっと小さな炎が点っただけだった。
「……やっぱり駄目だわ……」
「あーはははは! 何だ何だ、その情けない炎は?」
うなだれるその耳に
「くー、もおぉ、魔法も使えないあたしが、魔獣に乗ってるキミに、勝てるワケないじゃない、この
しつこくてタカビーで変人だとは思ってたけど、今までは正々堂々と戦ってたから、こんなに卑怯なヒトだとは思わなかったわ!」
「卑怯、だと……!?」
魔法使いは、青く透き通った切れ長の眼で、少女を見据えた。
(ふうん。たしかに顔は、ちょっとは綺麗かも……あ、お師匠様には全~然、
この眼だけ見てると、何の邪心も持ってないみたいなのよねぇ……。
性格の方は、どうしようもないのに)
彼女がそう思っていると、イーサは不意に、魔獣から飛び降りた。
「エレボス、地の底に戻り、次の命あるまで眠れ!」
命令に従い、巨大ガニは地面にもぐり込んで姿を消す。
ついで魔法使いは、呪文を唱えた。
「──ブレイド!」
上方に向けられた左の掌から、光の帯が立ち上がり、中に一振りの長剣が現れる。
「……?」
不審そうに見つめるジルの鼻先で、イーサはさらに指を二本立て、振った。
剣は、生き物のように跳ね上がり、少女の足元に突き刺さる。
「そいつを使うがいい。これで対等だ、文句はないだろう」
言いながら彼は、手馴れた仕草で、腰に下げた大剣を抜き放った。
「え、いいの?」
(……よかった、これで何とかなるかも)
ジルは魔法使いをほんの少し見直し、同時に希望も持ったが、それは甘い考えだというのが、すぐに分かった。
剣と一心同体のような、滑らかなイーサの動きに比べ、生まれて初めて手にする重い剣を扱いかねて、彼女は足元もおぼつかない。
(これじゃ、何も持ってない方がマシなくらいだわ。
イナンナに、もっと剣術、習っておけばよかった……!)
少女の情けない思いにはお構いなしに、魔法使いは剣を構える。
それはぴたりと決まり、彼が剣術を
「──行くぞ!」
「い……いいわよっ!」
すでに、彼女はやけ気味だった。
「せいやっ!」
「きゃっ」
剣の重さに腰が引けながらも、ジルは一
「どうした、次、行くぞ! そら! そら!」
二の太刀、三の太刀……イーサの剣は、わざと空を
「どうした? 逃げてばかりでは、オレは倒せんぞ!」
「わ、分かってるってば──えいっ!」
四度目に、ようやくジルはイーサと打ち合えた。
鋭い
「ふっ、やればできるじゃないか」
イーサは唇をゆがめると、素早く剣を突き放し、離れた。
「やあっ!」
今度はジルが剣を振り下ろしたが、魔法使いは
「そんなへっぴり腰では、大根も斬れんな!」
「ふんだ、大根料理なら得意よ!」
その言葉に、魔法使いはにやりとした。
「おや、そうか。ならば剣ではなく、包丁で闘った方がよかったか?」
「うるさいわね、しゃべってないで、かかって来なさいよ!」
「では、遠慮なく行かせてもらおうか!」
「どうぞ!」
しかし、剣の打ち合いも長くは続かなかった。
どうあがこうと、にわか作りの
初めから結果は見えていたのだが、やはり数刻と経たないうちに、ジルは追い詰められてしまったのだった。
「お遊びはここまでだ。覚悟はいいか?」
巨岩を背にした少女の心に浮かぶのは、ただサマエルの優しい微笑だった。
目の前の魔法使いは、師匠とは似ても似つかぬゆがんだ笑みを浮かべて、ぎらつく
(お師匠様、助けて!)
ジルが思わず硬く眼をつぶった、その時、小さな石つぶてが、パラパラとイーサに降りかかった。
「む、何だ?」
同時に背後の大岩から、緑色をしたものが二つ、飛び降りてくる。
「剣の持ち方すら分かっとらん娘っ子に、大の男が真剣勝負を挑むとは、あきれたもんじゃわい」
「いくら魔獣を引っ込めても、
「ハ……ハロートに、マロート!? 助けに来てくれたのね!」
ジルが交互に指差すと、小人達は手を振り回した。
「違う違う、わしがマロートじゃわい」
「わしがハロートじゃぞい、分からん娘じゃな」
「どっちでもいいわ、ありがとう!」
「ふん、何かと思えば……カエルが二匹か」
イーサは海色の瞳を光らせ、冷ややかに言ってのけた。
「な、なんじゃと、カエルじゃと!?」
「小人族をバカにすると許さんぞい!」
二人が
「ぎゃっ!」
「ぐわぁ!」
イーサの剣が、眼にも留まらぬ
「ハロート、マロート! イーサ、何てひどいことを!」
ジルは青ざめた。
「ふん、心配するな、峰打ちだ。こんな
……さて、邪魔者は消えた。これからが二人だけの時間、というワケだな」
派手好きな魔法使いは冷ややかに答え、再びジルに向き直った。
肩で息をしている少女には、もはや剣を持ち上げる力さえ、残っていない。
「ふ、猫ごときに無駄にした魔力さえあれば、もう少しマシに闘えたのだろうにな。
──おのれの甘さを後悔しながら、奈落の底に
イーサはついに、剣を振り下ろした。
息詰まるような、その瞬間。
“
不意に頭の中で声が響き、無意識のうちに彼女の体は、その言葉に従っていた。
「何いっ!? 」
おのれの剣を素手で受け止められ、イーサは青水晶のような眼を見開いたが、一番驚いていたのはジル自身だった。
(……し、白刃取り、って……?
あ、そうだ、イナンナが教えてくれたこと、あったっけ……)
彼女の従姉が、以前、冗談半分に教えてくれたことがあったのを、彼女は思い出した。
「ふふん、さすがは賢者に見込まれただけのことはある。しかし、いつまで持つかな?」
イーサは剣を持つ手に力を込め、鋭く光る剣先が、じりじりと少女の顔に近づいてくる。
絶体絶命のピンチに変わりはなかった。
「……ない、わ……」
必死になって剣を受け止め続ける、食いしばった少女の口から、知らぬ間に声が出ていた。
「何か言ったか……?
ああ、遺言なら、お前の髪のひとふさと共に、あの臆病者の賢者に届けてやるぞ」
「無駄なものなんか、ない……カッツも、ハロートもマロートも……もちろんあたしも、キミでさえも……。
──無駄な命なんてないの!」
けばけばしい魔法使いの、からかいめいた言葉など、もはやジルの耳には入っていかない。
一言一言を口にするたび、悲しみと怒りとが湧き上がってきて、自分の体から放出される
「な、何だ、この揺れは……まさか、お前が……!?」
イーサの眼が、不信と驚きの色に染め上げられてゆく。
「……後悔しない……だから……あたしは、後悔なんかしない!
カッツを助けたことを! 絶っ対、後悔なんか、し・な・い──!!
──大いなる秘法、“王者の法”よ!
邪悪なる者を、おのが
──アールス・マグナー──!」
ジルは魔力のありったけを、怒りと共に最強の浄化魔法に乗せて、イーサに投げつけた。
とたんに邪悪な魔法使いの体は、白く輝く霧に覆われる。
「う、な、なんだ、これは!?
──や、やめろ、放せ、う、うわああああああ────っ!」
抵抗空しくイーサは地中へと引きずり込まれていき、それを眼の隅で追いながら、今度こそ完全に力が抜けて、ジルは前のめりに倒れていく。
薄れ行く意識の中で、彼女は師匠の声を聞いたような気がした。
(見事だったよ、ジル。私の出番などなかったね……)