~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

5.ジルの怒り(1)

「あっ、あそこはカッツの家だわ! ひどい……」
煙を目印に、走ってきたジルの眼に映ったのは、散乱し、くすぶっている家の残骸ざんがい、そして傷だらけで倒れている猫魔の姿だった。
「一体どうしたの、カッツ! しっかりして! 待ってて、今、……」
彼に取りすがり、治癒ちゆ魔法を唱えかけて、彼女はためらった。

(さっき火炎魔法、失敗したんだっけ……。
ううん、迷ってなんかいられないわ、駄目で元々よ!)
「……──フィックス!」
思い切り意識を集中させて呪文を唱え、少し待ってみる。
だが、かなり経っても、やはり魔法は効力を現さない。

「やっぱり駄目ね。じゃあ、も一度。
あ、あれ……?」
再度呪文を唱えようとしたとき、不意に体から力が抜けて、彼女はその場に倒れこんでしまった。
(な、何? ……あれれ?)
懸命にもがいてみても、体はまったく言うことをかない。

(ど、どうして、力が入らないの? まるで、あの、天使をやっつけちゃった時、みたい……。
でも、今日は、魔法も、あんまり使ってないのに……。
早く……しないと……カッツが……! あれ、この匂い……は)
意識さえも薄らいでいく中、ぷんといい香りが鼻をくすぐり、少女はやっとの思いで眼を開けた。
目の前に、カッツの焼いたあのクッキーが、数枚割れて落ちていた。

「……!」
とっさに彼女は手を伸ばし、それをつかんだ。
一瞬、母親に、拾ったものは食べてはいけないと言われたことが頭をよぎったものの、行儀の悪さなどこの際、気にしてはいられなかった。
震える手で口に入れ、隣に転がっていたティーポットにも口をつけてみる。

たった一口二口のクッキーとお茶は、すぐにき目を現した。
少女は何とか半身を起こし、猫魔に向かって呪文を唱えた。
「──フィックス!」
(今度こそ効いて、お願い……!)

少女の祈りは天に通じた。
猫魔の耳と尾が同時に動き、琥珀色の眼が弱々しく開かれて、彼女を見る。
「う……ジ、ジル……?」
ジルは力を込めて、彼の手を握った。
「カッツ、よかった、あたしのこと分かるのね! 治癒魔法を使ったから、すぐによくなるわ。
でも、一体どうしたの? お家まで壊れちゃって……」

「ま、魔法は、いけない……ごめん、なさ、い……早く……逃げて……。
あいつ……あなた、を、連れて来たら……元の、世界、帰すと……僕を、だまし、て……」
やはり治癒魔法も、完全には効いていない。
カッツは動けず、話すことすらひどく苦しげだった。

「ゆっくりしゃべっていいのよ、無理しないで」
「あ、あいつの……顔……ひっかいて、や、った……僕ら、爪に、毒、ある、から……。
あいつ……変身術、得意、だから……顔、に、キズ、あるヤツに……気を、つけて……」
「あいつ? あいつって誰なの?」
「……ジュ、エル、ベアラ……」
そこまで言うと猫魔は力尽き、眼を閉じてぐったりとなった。

「カッツ、カッツってば、しっかりして!」
揺さぶってみても、反応はない。
急ぎ彼の胸に耳を当ててみたジルは、規則正しい鼓動に安堵あんどした。
いずるようにしてガレキの中から毛布を探し出すと、猫眼の少年を寝かせてやる。

「……けど、ジュ、エル、ベアラって何だろ、人の名前……かな? 変なの~……。
でも、誰だろうと許せないわ、こんなひどいことするなんて。
あたしがちゃんと魔法が使えたら、やっつけてやりたいトコなんだけど……」
そう、つぶやいたときだった。
「まったく甘いな、小娘。たかが猫ごときのために、貴重な魔力を使い果たすとは!」
「きゃ!」
いきなり声がかかり、彼女は飛び上がった。

長い髪をどぎついオレンジ色に染めた上、トサカのように立たせ、ローブは補色の緑、羽織るマントは、鮮やかな黄色をしている。
色彩豊か……と言えなくもない出で立ちで、少女の背後から近づいて来たのは、一人の魔法使いだった。

「な、何だー、イーサじゃない。おどかさないでよ」
振り返ったジルは胸をなでおろした。
「ふん、イーサ様と呼べ、イーサ様と。
やがて全世界がオレ様の前にひざまずき、這いつくばって、慈悲じひうようになるのだからな!」

人より多少上を行く程度の容姿と魔力を、最上と思い込んで鼻にかけているこの愚かな男は、賢者として名高いサマエルの名声に眼をつけ、幾度も魔法勝負を挑んできていた。
人族との関わりを禁じられているサマエルは、無論それを受けることはなく、極力避けていたのだが、偶然、屋敷近くの村で出くわしてしまったことがある。
当然イーサは仕掛けてきたものの、サマエルの代わりに相手をしたジルに、こてんぱんにやっつけられてしまった。

その後も何度か、同様のことがあり、そのすべてでジルにまったく歯が立たなかったにもかかわらず、りずに賢者の棲家すみかを探し当てようとうるさくまとわりつき、近隣の村人のひんしゅくをも買っていた。

「……相変わらずスゴイ服ねー。それに、まだ、そんなこと言ってるの?
あ、じゃあ、あなたも、朝起きたら、ココにいたのね?」
「何だ、それは。オレ様は、悪の臭いをぎつけて自分の意思でここに来たのだぞ。
まあ、魔獣がしきりと導くのでな、何があるのだろうと好奇心も手伝ってのことだが。
間抜けなお前や、そこでくたばりかけている猫程度の雑魚ざこと一緒にするではないわ!」
イーサは整った眉をしかめ、いつもの、人を見下した態度で言い放った。

「間抜けで悪かったわね、でも、そのあたしに大負けしてるのは、どちら様!?」
ジルが負けじと言い返しても、魔法使いはいつになく余裕ある顔つきで、形のいい唇に、邪悪な感じの笑みを浮かべた。
「それも、昨日までのことだ。この異界では、お前の力は発揮できん。
重ね重ねの遺恨いこん、この場で晴らさせてもらうぞ!」
「……え? でもイーサだって、ここじゃ、魔法使えないんじゃ……」

「ハッ、何も知らん愚か者めが。オレ様は、元々異界に生息していた魔獣を、自在に操れるのだぞ。
つまり、オレ様の力はまったく衰えていない、ということだ」
自信満々で、魔法使いは言ってのける。
「な~んだ。そんなの、全然自分の力じゃないわよ。魔獣がいなきゃ、何もできないってことじゃない。
ところで、イカイ──って、何?」
ジルは可愛らしく小首をかしげる。

「お前、自分が今いるところも知らんのか? いつもながら、脳天気なヤツだ」
「あんたって、ホントにタカビーな言い方するのね!
あたしは、寝てる間にココに来ちゃってたの、それで分かるわけ、ないじゃない!」
少女は、自分の胸をたたいた。
「ま、そんなことはどうでもいい、魔獣のエサになってもらおう!」

何を言われても、イーサは軽く肩をすくめるばかりで、まったくめげない。
それだけが、この男の唯一の取り柄とも言えた。
「……ん? 今気づいたが、お前、不細工な割には、眼はなかなかだな。
よし、眼球だけは残しておき、コレクションの一つに加えてオレ様の城に飾っておいてやるぞ。
世界の王たる者に逆らう愚か者がどうなるかの、見せしめのためにな!」

「えーっ、やめてよ、気持ち悪い!」
「──いでよ、闇の魔獣、エレボス!」
思い切り顔をしかめる少女には構わず、彼は地面に片手をあてがうと、大声で呼ばわった。
「きゃっ!?」
途端に地面が鳴動し始め、ジルはそばの木にしがみついた。
足元に大きな穴がぽかりと口を開けると、振動はさらに激しくなり、土や砂利を跳ね飛ばしながら、何かが深い地の底から姿を現し始めた。
やがて土ぼこりが静まると、巨大な怪物が、彼女の目の前に立ちふさがっていた。
「よしよし、故郷に帰れてうれしいか、エレボス。いヤツよ」
「な……何、コレ?」
眼を丸くして、ジルは怪物を見上げた。

それは、一見するとカニのようだった。
しかし、ハサミは二対、他の脚は八対もついていて、前後左右、どちらにでも素早く動けるようになっている。
ぎょろりとした眼が少女を睨み据え、黒く毛深い脚がザワザワと動き、獲物を切り刻みたがっているように、大きな四つのハサミがゆっくりと開いたり閉じたりしている様は、ジルの皮膚に鳥肌を立たせた。
「や、ヤな感じ……!」

「ふっ、オレ様ともあろう者が、今まで散々お前ごときに遅れをとって来たが、魔力も使えん小娘など赤子も同然、覚悟するがいい!」
イーサはひらりとカニにまたがり、命じた。
「──エレボス! 突撃!」