~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

4.サマエルの決意

一方、サマエルの屋敷の地下室で、独り悪態をつきまくっていたタナトスは、さすがに疲れて椅子にへたり込んでいた。

「まったく、あの銀髪の悪魔め……! あいつの生まれた日が、俺にとって最大の厄日やくびだ!
くそ、ヤツは、ジルのことが心配ではないのか!
ああ、こんなことをしている場合ではないぞ、彼女を助けに行かねば!
うう……くそ、仕方あるまい、忌々しいが協力してやるか、今回だけは!」こうして、完全に頭が冷えたタナトスは立ち上がり、扉を開けると魔法陣に乗り込んだ。

「おい、サマエル!
……ん? こ、こいつ……!」
勢いよく一階の居間のドアを開けた彼は、眉を寄せた。
自分にはああ言ったものの、必死の形相ぎょうそうで水晶球をのぞいているか、あるいは魔法書でも読みあさっているとばかり思っていた弟が、言葉通りソファに横になっていたのだ。

「貴様──!」
たたき起こそうと腕を振り上げた瞬間、タナトスの視線は弟の顔に止まった。
フードがずれて(あらわ)になった、どこか頼りなげで、幼い感じさえする顔を見つめているうち、握り締めた彼の拳から自然と力が抜けていった。

「……疲れてやがるのか? 俺達は何日眠らんでも、平気なはずだが。
ふんっ、寝顔は昔とちっとも変わっておらんくせに、いつからこんなに生意気に……そうか、あの時か……」
タナトスが過去に思いを馳せていると、弟の唇がわずかに動いた。
「ジ、ジル……ジル……」
サマエルは、最愛の少女の名を呼んでいた。

「ち、起きろ、貴様! そのジルを、早く助けに行かねばならんのだろうが!」
幾度も乱暴に揺さぶられて、サマエルはようやく眼を明けた。
だが、その目つきは虚ろで、精気がない。
「邪魔……をするな……今……ジルを、捜しているのだ……もう少しで……」
「あ……そうか、済まん。貴様、“夢飛行”を行っていたのだな」
自分の勘違いに気づいたタナトスは、弟をソファに戻した。

眠って心を飛ばし、過去や未来、または遥か遠方で現在起こっている出来事を見通す能力を、魔族は“夢飛行”と呼ぶ。
水晶球やカードを使うより、その精度はかなり高かったものの、失敗したときの代償もまた大きかった。
昏睡こんすいしたままとなって目覚めず、しまいには死んでしまうのだ。
むろん、上級術者のサマエルに、そんな心配は無用だったが。
兄から解放されたサマエルは、すぐさま夢に戻り、再度、最愛の少女の捜索に取りかかった。

タナトスが苛々とソファの前を行ったり来たりする中、ついに待ちに待った言葉が、その朱唇しゅしんから発せられた。
「──よし! 見つけたぞ……!
白い猫……緑の小人、が見える……黒い影が近づいて来る……!
ジル、危ない……その男は、危険、だ……!」

「何っ、ジルが危ないだと! 何をしている、さっさと戻って来い!
手伝ってやるぞ、今回だけはな!」
夢飛行の状態から、急激に目覚めさせるのはよくないことをタナトスも知ってはいたが、気が急く彼はそれを無視して、またも弟を強く揺さぶった。

「う……う」
二、三度まばたきし、今度こそ完全に覚醒したサマエルは、至近距離に兄の顔があるのに気づくと顔色を変え、身をよじった。
「あ……タ、タナトス!
──よせ、やめろ、放せ、嫌だ……!」

「落ち着け、安心しろ、まだ何もしておらん。
見ろ、服も着たままだろうが。俺とてこんな状況下で、そこまで見境なくはないぞ」
「い、一度や二度ではないし……こんな体など、もう……どうされようと構わないのだけれど……つい、反射的にね……」
言いながらサマエルは起き上がり、わずかに震える手で髪をかき上げ、わななくように大きく息を吐いて心を静めようとした。

弟の(なまめ)かしい仕草を横目で見ながら、性懲しょうこりもなく、魔界の第一王子は思っていた。
(ち、ジルのことさえなければ、もう一度くらい楽しんでもいいのだがな、こんな好機はめったにない……。
元々こいつが女だったら、俺が側女そばめにしようとどうしようと、何も問題はなかった……あのまま、俺好みに仕込んでやれたものを。
いや、俺としては男でも別に構わんのだが、こいつが“カオスの貴公子”……アナテ神殿の神官に据えられた今となっては、無闇と手を出すわけには行かなくなってしまったからな……。
くそ親父のヤツ、余計なことをしおって! 楽しみが減ってしまったではないか!)

他方、兄の好色な思惑になどまったく気づかず、サマエルは、夢飛行の後、急に目覚めたことでふらつく体を、壁に寄りかかることで何とか支え、気力をふるい起こしていた。
少しでも力の足しになればと、花瓶に手を伸ばす。
触れてもいないのに、一瞬で可憐な花は枯れ落ち、最愛の少女が、誰にも取られずにひっそりと息を引き取るところをありありと心に思い浮かべ、サマエルは、歯を食いしばった。
(ジル……待っていてくれ、今、行く!)

「く、こう、しては……いられない、急がなけれ……ば。地下……へ行こう、タナトス」
「あ? ……ああ、そうだな」
二人は再び地下室に降りていき、床に新たな魔法陣を描き始めた弟の横で、兄は魔法のアイテムを揃えていった。

準備がすっかり整うと、サマエルは兄に向き直った。
「タナトス。行き前に言っておきたいことがあるのだ、聞いてくれるか」
「何だ、改まって」
「“異界”については様々言われているが、行ったことのある者はあまりいない。
それで、はっきりとは分からないのだが……」
「だから、何だ? 早く言え! 急がねばならんのだろうが!」

じりじりしながら問う兄とは反対に、サマエルは常と変わらず落ち着き払って答えた。
「この魔法書によると、向こうでは、魔力が正常に作用しない……かも知れないのだ」
「何ぃ──? では、魔法がまったく使えんこともありうると言うのか!?
どうやって戻ってくる気だ!?」
見開かれたタナトスの紅い眼は、半ばあきれ、半ば怒っているようだった。

「まったく使えないということはあるまい、おそらくは制御が困難と言うことなのだろう。
戻りに関しては、ジルと力を合わせれば、比較的容易だとは思うが、万一の時には……私の魔力すべてを使い、彼女を必ず帰すつもりだ。
ですから、その時は……ジルをよろしくお願いします、兄上」

最後だけていねいに言い、深々と頭を下げると、すぐにサマエルは魔法陣に入り、次元転移の呪文を
唱え始めた。
彼らにとって魔力とは、生命エネルギーに等しい。
それゆえ、一気に魔力を全放出したらどうなるか……結果は眼に見えていた。
“紅龍”に変化(へんげ)すれば、ほぼ不死と言ってもいいサマエルも、今、そんな無茶をしたなら、やはり死は免れないだろう。

「サマエル……」
思わずタナトスは、弟の名を呼んだ。
「時間がない。唱和してくれ」
「ええい、くそっ!」
タナトスは一度だけ悪態をつくと机の魔法書を覗き込み、一緒に唱え始めた。
一息で済む通常魔法とは違い、唱和は延々と続き、極度に神経を集中させた魔界の王子達の額に、汗がにじんでいく。

やがて彼らの力は爆発的に高まり、(まばゆ)い輝きと共にサマエルの姿は消えて、転移は成功した。
「……『ジルをよろしくお願いします』、だと?
サマエル、貴様、また死にたくなったのか、たわけ者めが!」
タナトスは、口ではそうののしったものの、弟の気持ちを、以前よりは察することができるようになっていた。

(憎んでいるとさえ言っていい相手に、最愛の女性を託さざるを得ない男の気持ち……か。
……にしても、俺としたことが、帰路のことはまったく考えていなかったぞ。
……それで、ヤツは俺を止めたのか?
たしかに、次期魔界王ともあろう者が、女の子を助けて行方不明、または死……などとは、まったくサマにならんが……。
そ知らぬ顔で俺を行かせて、ジルだけ送り返させ、邪魔者を消すと言う手もあったのにな……)

しかし、いくら憎んでいようとも、そんな姑息な手段を弟が使うはずがないことは、彼にはよく分かっていた。

「──ええい、何だか知らんが、猛烈に腹が立って来たぞっ!」
またもタナトスは、自分でも芸がないと思いつつ、叫んだ。
「だから、俺は貴様が嫌いなのだ! 普段は犬にも劣る軟弱者なクセに、こういう時だけ、いっぱしの男を気取りおって!」